ブラジャーはぶら下っているか

そうざ

Ваш бюстгальтер провисает?

「どうした?」

 ピロシキを機械的に口へ運んでいるところに、同僚のイワンがやって来た。

「どうしたって、何が?」

「仕事中もずっとそわそわしてたろ。まぁ、お前の心ここに有らずは今に始まった事じゃないがな」

 心配性が持って生まれた性格ならば、不注意もそうなのだろう。心配性と不注意は、鶏と卵みたいなものだ。不注意が心配性を呼び込み、心配性が不注意を招く。生まれてこの方、この悪循環を飼い馴らせないでいる。

「当ててやろうか?」

 にやにやと席に着いたイワンのプレートにもオリビエサラダが山盛りになっている。ここの社食で真面まともに食べられる料理を探すのは至難の業だ。

「奥さんだろ?」

「俺の気掛かりは大体かみさん絡みだからな」

「さぁて、ゆっくり推理するとしようか。昼休みは始まったばかりだ」

 そう言いながらイワンは内ポケットから歪なフラスコを出した。大方、守衛を垂らし込んだのだろう。ここの規律は表向きだけ厳しい。

「俺にも一口くれ」

 ウォッカが舌に沁みる。久し振りのアルコールだ。

「飲酒がばれた訳じゃないようだな」

 他の職員が隣のテーブルに来たので、イワンは一応フラスクを仕舞った。

「ヒントをやるよ。家事に関する事だ」

「掃除、洗濯、料理……確かごみ出しはお前の係だったよな」

「ごみ出しだ」

「また出掛けのごみ出しを忘れたのか。家に帰ったらこってり絞られるんだな。あんたっ、何度言ったら分かんのっ……道理で憂鬱そうな訳だ」

忘れなかったよ」

 隣の連中も漏れなくオリビエサラダを食べている。

 その様子を見たイワンが閃いたように言う。

「分かった、夕飯のメニューで悩んでるな。飯も大概はお前が作るんだよな?」

「あぁ……でも、うちのはシチーとカーシャがあれば満足な女だから、そこは楽なもんさ」

 俺は、妻の残り物ピロシキを平らげた。

「はは~、洗濯に関係するなぁ?」

「消去法ならいつかは当たる」

 イワンはいつの間にかまたフラスクを手にしている。隣の連中が食器を下げに行ったからだろう。

「かみさんのズロースを破いちまった!」

あたらずといえども遠からず、かな」

 洗濯物は夫婦二人分しかないから造作もない。イワンのように子沢山の家庭だったら、伴侶はさぞかし大変だろう。

「下着って事か? ん~ん~何だ何だ」

「昼休みは無限じゃない。正解を言おう」


 今朝方、どか雪を掻き分けながら正面ゲートを潜った時、はっとした。痩せぎすの守衛が妻を連想させたのだろう。

 今朝は特に冷え込んだ。温め直したピロシキを頬張りながら洗濯機の渦を眺めていたら、吞み込まれそうになった。心の何処かでそれを望んでいたのかも知れない。

 何か大きな流れに身を任せてしまえば、全てから解放される――いつの頃からか、そんな途方もない考えに取り憑かれているような気がする。

 妻との生活に嫌気が差したとか、そんな卑近な感覚ではない。もっと大きな、茫漠とした、この世界全体を支配している胡散臭さが、俺を唆そうとしているのだ。

 脱水機能は故障したままなので、あかぎれの手で洗濯物を絞る。オイルヒーターの上の方に吊った洗濯ロープに掛けて行く。激しくなる雪をちらちらと眺める。

 知り合って何年経つのか。妻がベッドで過ごすようになってどれくらいになるのか。妻がブラジャーから開放されてから何回、日が昇り、月が欠けたのか。

 もう使われていないブラジャーを、俺は改めて洗う。こびり付いた年月で黄ばまぬよう、いつかまた身に着けるその日の為に、また新しい一日の為に洗い続ける。

「今朝も確かにブラジャーを洗った。なのに、干した記憶がない。もしかしたら今も洗濯籠の底に忘れられているかも知れない……」

 イワンの顔が呆けたようになる。フラスクはもう空っぽらしい。

「一度がつんと言ってやれよ、誰のお陰で飯が食えてるんだってね」

 オリビエサラダをさっさと腹に収め、イワンは離席した。噂に依ると、彼は蚤の夫婦だとか。頭が上がらないらしい。


 夕刻、仕事を終えた俺は、おんぼろの愛車で家路を急いだ。道中も頭にはブラジャーの事しかなかった。

 台所の灯りの下に妻が居た。午後から体調が良かったようで、またピロシキを作り置きしていた。

 洗濯ロープには、他の洗濯物と一緒にブラジャーがぶら下がっていた。今朝、俺が無意識に干していたのか、妻が洗濯籠の中を覗いて干したのか、それはもうどうでも良かった。心配性が鳴りを潜めれば解決したも同然だ。

 朝に下拵えをしておいた材料で手早く夕飯を用意し、久し振りに二人でテーブルを囲む。

 掛かり付け医は楽天的な物言いをしない。正直な現実を俺だけに伝えている。

 不図、職場の情景が蘇った。痩せ細った妻が守衛を連想させたのかも知れない。

 コントロールパネルの片隅には、手垢の付いた操作マニュアルが長く放置してある。ルーチンワークの職員は誰もそんな物を顧みない。慣れた手順で定期点検を熟す。心配性と不注意とを飼い慣らせない俺であってもそうだ。

 それこそ家事のように無意識に動く。だから一々憶えていない。今日一日、どんな風に動いたのか、問題なく危機管理が出来ていたかどうか、そんな事にまで関心を向けない。


 ごみ出し、良し。

 夕飯の準備、良し。

 ブラジャー、干されていれば良し。

 良しでなかった場合は、苦笑いをすれば良し。

 もし不注意が原因で取り返しの付かない事故が起きたら、運命を受け入れれば良し。

 明日は日曜日、妻と一緒に過ごせば、それで良し――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ブラジャーはぶら下っているか そうざ @so-za

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画