第4章 第6話
割れた勾玉が芝生に転がっていく。
はあ、はあ、と上がった息を整えながら、瞳にいまだに猫を宿した彼女が、私を睨んでくる。
「もうオワリ。あきらめて」
失敗した。
抑えられなかった。
あと少しだった。
残り三〇秒。
もうだめだ。
どうする。何かないか。
「あ、あ、あぁ……」
失う。牧を失う。
「あきらめろ!」
こちらの心を折り、踏みつぶそうとする声。
お願い。誰か――。
いや違う。
『そうだった。あんた無駄に昔から器用なんだった』
『不純な嫌らしさですね』
『真面目になんか運動系の部活入らないの? もったいない』
『一歌の取り得は、考えるよりも前に動けること』
誰かじゃない。
ここには、私しかいない。
私がやるんだ。
考えるよりも早く、思い切り踏んで、飛び出す。あと二〇秒。転がっていった勾玉のもとへ向かう。すぐ近くにあった片割れを一つを回収すると、白猫が意図に気づき、残ったもう一つの欠片のほうへ駆けだしていった。あと一五秒。
月の明かりが芝生に転がる勾玉を反射する。見つけて、飛び付く。手につかむと同時に、横から白猫にタックルを受ける。握った勾玉と一緒に、衝撃で意識も失いそうになるが、手放さない。あと一〇秒。
もがくうち、白猫が私を押し倒し、両手をおさえつけてくる。馬乗りにされて動けない。見下ろすその顔を寄せてきて、シャアアア、と威嚇する声をあげる。
「そのキケンなものをよこせ!」
私の握りこぶしを睨みつける。
「テをひらけ! こわしてやる!」
あと五秒。
私は微笑んで。
握っていた、そのこぶしを開く。
は? と、白猫が戸惑った表情を見せる。
空になった手のひらに動揺し、それから私の口元に気づく。猫の瞳は鏡となって私の姿をよく映していた。歯の間から咥えた勾玉が、のぞいている。
「ッ!」
両手を離して、白猫が飛び退こうとした。逃がさない。
白猫が後ろに反るのと同時に、体を起こす。
手を彼女の後頭部にまわし。
そのまま引き寄せて――。
〇秒。
彼女の唇に、触れる。
咥えていた勾玉が口のなかから離れていき、飲みこむ音がする。
青白い閃光がとたんにあたりを包み、そして何も見えなくなった。
***
白く飛んでいた視界に色がもどってくる。芝生と、土と泥と傷で汚れた体と、筋肉痛で早くも震えだしている腕。律儀に仕事を続けている噴水に、午前〇時を過ぎた時計台の針。そして目の前に、牧がいた。
膝をついて座り、お互いに一ミリも動かない。
呆然としたその顔に、もうヒゲはない。耳も消えて、尻尾も振られることはない。
自分の体がちゃんと戻ったことを確認するみたいに、ゆっくりと触れるその手は、牧自身のものである。
目の前にいるのに、ようやく目が合って、牧がつぶやく。
「一歌……」
「あ、……えーっと」
何を話そう。
言うべきことがいくつかあった気がするけど、何も浮かばない。
戻ってきたということで、とりあえずこのあたりから再開しようか。
「お母さんが夕食をつくりすぎたんだけど、よかったら残り食べたい? いま牧のマンションに放置してある」
がば、と次の瞬間には抱きつかれた。
夕飯が用意されていて嬉しかったのか。
そんなわけないことくらい、疲弊した脳みそでも、さすがにわかる。
「怖かった」
「う、うん」
「もう二度と戻ってこられないと思った」
「……うん」
すすり泣く声を、抱きとめる。
「だめだって諦めかけてた」
「うん」
「ちゃんと来てくれた」
「うん、来たよ」
「一歌……」
「聞いてるよ」
「ありがとう……」
ふいにそのとき、伝えるべきことがやっと見つかった。
「こっちこそ、待たせてごめん」
どうやらそれを見つけるのに、私は一年半もかかってしまっていたようだ。
私を抱きしめる牧の力が強くなる。うちつけまくった背中の打撲に響いたのか、鈍い痛みが走ったけど、しょうがないので我慢した。
月が周囲を照らす。あれだけたくさんいた猫が、気づけば一匹もいなくなっていた。遊びに飽きて帰ったのだろう。
噴水の音を聞きながら待っていたが、牧はいつまでも離してくれそうになかった。
「あの、牧さん。そろそろ苦しい」
「もう少しこのまま」
「さいですか……」
あきらめたそのとき、がばっ、と急に牧が抱擁を解いた。
そのまま身を引き、信じられないものを見る目で私を見つめてくる。頬が染まり、口が開いては閉じてを繰り返す。
「あんた! さっききききききキスした! 勝手に!」
「あ、なんだ、ぜんぶ覚えてるんだ」
「忘れてればいいと思ってたのか!」
「だって、手も足もふさがれてたから」
「だからってもっと何かあったでしょ!」
「ああするしか思いつかなかったよ。だから結局、勾玉は牧の体のなか入ってることになるね。ちゃんと飲みこんでたし」
「最低! ファーストキスだったのに! もっと大事で神聖で、思い描いてたのはこんな場所じゃなかった! 最低最低最低最低! このセクハラ魔人!」
勾玉のことはいいのか。
牧の様子が平常運転に戻ったのを見て安心したのか、一気に力が抜けた。そのまま倒れこんで、空を見る。今日はよく寝れそうだ。
「ちょっと聞いてるの!? どうしてくれる! 一生に一度しかないのに! 特別なものなのに! ほんとに初めてだったのに!」
誰もいない公園に牧の声が響き続ける。しばらく止みそうにないので、悲鳴に似たその抗議にまぎれて、そっとつぶやくことにした。
私もだよ、と一言だけ。
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