美晴の事情
横浜に来る前に美晴が勤めていたのは関東平野の真ん中らへんにある支店だった。やや郊外なので、広大な敷地と豊富な品ぞろえが自慢。社員もパートもたくさんいた。元カレは社員の一人で、二年先輩だった。
まともな人だと思っていたんだ、最初は。
後輩がそこにいても自分が動くのをいとわない。接客はていねい。感謝されたら控えめに喜ぶ。
だけどその裏で、ものすごく承認欲求の強い男だったらしい。それゆえにやらかしたのが三股だ。
本命は美晴だったのだと思いたい。家具部門のコーディネーターである美晴とつき合っていると公言していたのだから。
なのにパートの色っぽい人妻と不倫した上に、インテリアアクセサリー担当のきゅるんとした新入社員を引っかけた。あげく不倫相手の旦那が殴り込んできて大騒動だ。いったい何を考えていたんだろう。
「くそバカ男」
出勤の道すがら、美晴はうっかり毒づいた。まだ路上だからオーケー。向こうに店舗が見えてきているけど、前にも後ろにも聞こえる距離に歩いている人はいなかった。この時間は逆に駅へと歩く人の方が多い。
元カレが同時につきあった三人の女のうち、美晴がいちばん地味。というか普通だったと思う。
それがどうして「普通なのが悪い」みたいになるのかわからない。美晴は散々な言われ方をしたのだ。
「〈本命〉って言葉の意味w」
「女遊びの隠れ蓑にされてただけじゃないの」
「アレがつまんなかったんだろ」
最後のは男性社員の立ち話を小耳にはさんで聞いてしまった言葉だ。サイテー。
でもそんな噂が横浜支店まで伝わっていないともかぎらない。初出勤が憂うつなのは仕方なかった。
「――本日よりお世話になります。椎名美晴です」
朝礼で前に呼び出され、短く挨拶した。こういうのも必要なことなんだろうけど、本当に嫌だ。事情が事情なので晒し上げられている気分だった。
でも美晴は感じのいい微笑みをキープしながら従業員をひとわたり見回す。すると一人、下品で無遠慮な視線をよこす男がいた。あいつは「アレが(以下略)」系の話を知っていそうだ。
そして敵意ありげにムッとした顔の女性社員もいた。かなり若手のようだし、これは〈きゅるん〉女の友人か。まあ入社早々食われた側にしてみれば、〈本命〉ヅラしていた美晴など憎いだけなのだろう。それにしたってどんな風に伝え聞いたのか気になった。
「それじゃ椎名さん、今日からお願いしますね」
「はい。こちらにはまだ慣れておりませんので、どうぞ皆さんご指導のほどよろしくお願いいたします」
本音を言えば、あまり「よろしく」したいとは思えなかった。退職、そして転職活動となるのが嫌で異動を選んだけれど、思ったより居心地が悪いかもしれない。
それでも逃げるわけにはいかなかった。
まずはスタッフカウンター内の把握、そして売り場や倉庫の確認。美晴は目まぐるしく動きながら、ちゃんと営業スマイルできているか不安だった。
「づがれだ……」
夜が落ちてきた道を歩きながら美晴はうめいた。店舗はまだ営業時間内だが、今日は朝から出たので退勤する。明日は遅番の予定だ。
一日目というのは、どこに行って何をしても疲労するもの。だけど今日はことさらこたえた気がする。平日の家具売り場なんて客も少なく比較的平和なはずなのに。
「私だって被害者なんだけどなあ……」
というのは〈きゅるん〉ちゃんの同期である入社一年目女にツンケンされたからだ。話しかけようとしたら逃げるって何よ。
一年目なのは古株のパートさんに確かめた。てことは、春の研修時にでも同期生の結束を固めたのかもしれない。美晴はケッと毒を吐いた。
「あんな風に男に媚売る女、自分しかかわいくないに決まってんのに」
〈きゅるん〉本人は、周りなどすべて踏み台ぐらいに思ってるタイプに見えた。友だちになろうなんて人の気が知れない。
きっと美晴という彼女がいるのも承知で奪いにかかっていたに決まっているのだ。なんの同情もできないし、不貞の相手として慰謝料請求してやりたいぐらい。婚約してたわけでもないから無理だけど。
「さーて、ご飯どうしよっかな」
嫌なことばかり考えていても精神衛生上よくない。こういう時は自分を甘やかすに限るだろう。
ひとまず幸奈が言っていたディスカウントストアに行ってみることにした。どうせ通り道だし。
「明日のぶんも食材買っとかなきゃだし……今日はお弁当とかでいっか」
今は家に帰っても料理する気力がなさそうに思えた。片づけも面倒くさい。箸とコップぐらいなら洗ってやってもいいと上から目線で考えるのは、美晴的にわりと重症だ。
店に入ってみたら飲食店街もあった。誘惑されるけど我慢する。そういうのは休日にとっておこう。でないとエンゲル係数が爆上がりだ。
ふらりと地下食料品売り場に潜入してみると、ゴチャゴチャした売り場の中心部に大量の段ボール直陳列商品があった。見たこともないメーカー、あるいは輸入品が激安で売られている。これはこれですごく興味をひかれるが、ここも今日はスルー。とにかくご飯を買って帰らなければ。
明日以降で何かに使える薄切り肉、ひき肉、レタスにきゅうり、玉ねぎと小松菜。あとは朝用のハム、パン、牛乳。そして惣菜コーナーで焼き鳥丼なるものを手に入れる。割り切った商品だけど、今日もビールを開けずにはいられない気分だから問題ナシだった。
「……で、問題なのはこの階段なのね」
重くなったエコバッグをぶらさげて美晴はため息をついた。目の前には再びあらわれたアパートへの石段がある。引っ越した日中のように汗をかくことはないだろうが、けわしい道のりなのはかわらない。
でも、慣れなくちゃ。
ゆっくりゆっくり登っていく美晴は、途中で立ちどまり振り向いてみた。
商店や家の明かり、車の音と人のざわめき。日用品を持って歩いていると、自分もこの街で暮らし始めたのだと実感した。
「……よろしく、ヨコハマ」
つぶやいたら、応えるように汽笛が鳴る。
ボーッと長く響く音は、港の明かりを映して赤みがかる空に吸い込まれ、消えた。
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