第三十章

ブルートパーズのワールドツアーは順調だった。どこの会場でも早めに来てメンバーの入り待ちをするファンの姿があった。メンバーは快くサインや写真撮影に応じファンとにこやかに話した。

トニーもサインしながら会場の楽屋入口に近づいていった。

楽屋入口の一番近くにいた二人の女性が目を輝かせながらトニーにサインを求めてきたので例に洩れずトニーは快く応じた。

「あのう…トニー、少しだけお話しても、いいかしら?」

女性の1人がおそるおそる話しかけてきた。トニーはサインしたCDを丁寧に渡しながら頷いた。女性たちが明らかに安心したのが見て取れた。俺、そんなに怖く見えるのかな…トニーは思いながら女性達に微笑んだ。

「あのね、私達…そのう、…リズムの頃からあなたのファンなの」

トニーは、それを聞いた途端に自分の顔がひきつり全身が強張るのを感じた。もはや逃れられない過去の事実だ。だけどトニーは言葉を発することが出来ずにいた。

二人の女性は、そんなトニーの様子を見て言わない方が良かったんじゃない?と小声で囁き合った。それでも女性の1人が口を開いた。

「怒らないで欲しいの。私達、あなたの過去を掘り返そうとか言いふらそうとかじゃなくて、あなたのことが大好きで、ずっと応援しているの、それを伝えたかっただけなの」

懸命に話す女性の言葉を聞いてトニーは身体の強張りが少し解けた。少なくとも今、目の前にいる女性たちはキャーキャー叫んで俺の行く手を阻んだり帽子やサングラスを盗ろうとしたり押し倒して髪を切るような無神経な人間ではないのは解る。

「そんなに前から応援してもらっているのに怒ったりしないよ。リズムの名前を、俺の過去のことを外国で聞くとは思ってなかったから少し驚いたんだ」トニーは答えた。

女性二人はトニーが話すのを聞いて安堵した様子だった。

「私達ね、ちゃんとリズム時代の音楽を、あなたが歌っていたのを聴いてきたのよ。リズムのメンバーの中でも、あなたの声が一番大好きだったから」

「リズムのコンサートは大抵は一番後ろの席で聴いていたわ。トニーがリズムを抜けちゃった時は凄く悲しかったわ。あなたが歌うのを、もう聴けないって思ったから」

「だからブルートパーズで歌っているって知った時、本当に嬉しかったわ。トニーは歌うのを辞めていないって判って…本当に…」

女性が代わる代わる話す。

「そうだったんだ、ありがとう…でも、どうして俺がブルートパーズにいるって判ったの?」

「ネットで調べたら、すぐに判るのよ。だから私達、あなたが今住んでる国にも行ってライヴハウスでもブルートパーズを何回か観たの。今はワールドツアーの追っかけっていうところなの。今日までなんだけど」

「そうなんだ…遠い国まで観に来てもらって凄く嬉しいよ。本当にありがとう」

トニーは女性たちと握手した。

「トニー、リズム時代の時よりも凄く歌が上手くなったと思うわ。サインしてくれて、お話してもらえて、とても嬉しかったわ。今日も楽しみにしているわ。本当にありがとう!」女性たちの目が潤んでいる。

「こちらこそ、ありがとう。今日は、どの辺の席なの?」

「2階席なの」

「俺、そしたら2階席に手を振るよ」

トニーは微笑み身体の強張りが、すっかり解けて楽屋に入っていった。本当に驚いた。

リズム時代のファンと、あんな風に穏やかに話したのは初めてだった。自分が知っているファンといえば常にトニーを見ればキャーキャー叫び、なんとかして触ろうとするかトニーが身に着けている物を盗ろうとしたりするような無節操な人間ばかりだった。だけど彼女達のように歌うのを聴いてくれていたファンは俺が思っていたよりもいるのかもしれない。

トニーは、もうリズム時代の自分を否定することはやめようと思った。


トニーは行く先々の国でジェシカが喜びそうだ、とか似合いそうだと思う物を見つけては土産を買っていた。

(ジェシカへの土産専用のスーツケースを、ひとつ買わないとだな)会場入りする前に寄った店で購入した土産を持ってトニーは考えていた。

「おお!トニーまた土産を買ったんだな。あの見送りに来ていた彼女にかい?幾つめだい?」

会場でツアークルーのスタッフがトニーに声をかけてきた。

「うーん…6個め、かな」トニーが微笑みながら答えた。

「いいねぇ。熱々だな~」

通りかかった他のスタッフも足を止めた。

「こりゃあ彼女めちゃめちゃ幸せだな」

「イヤ、そんな…そうかな」

トニーの顔が赤くなった。

スタッフは更に続ける。

「あの早朝のプラットホームでの熱き抱擁、映画のラブシーン顔負けだったしな」

「えっ見てたの?」

トニーは更に顔を赤らめた。

「見てたのって、そりゃ皆プラットホームに居たんだから」

スタッフが腕を組んで大きく頷いた。

「こんな感じだったな」

「そうそう、こう、ヒシッと」

ツアークルーのスタッフが二人、ふざけて抱擁を再現した。

「うわ~やめてよ~!」

トニーは、顔を真っ赤にして抱擁を再現しているスタッフに割って入った。

「はははは!幸せだな、トニー羨ましいぞ」ツアークルー達にからかわれながらトニーは買った土産を大切にしまった。

──ジェシカと結婚したいとかって気が早いかな…俺は、もうすぐ十七歳になるし、ジェシカは、これから十六歳になるんだから…でも彼女はピアニストになりたいだろうし。

「結婚」が彼女の重荷になったりとかするかな。ロックミュージシャンとピアニストの組み合わせって変かな…。

組み合わせうんぬんより何よりも…彼女が不安に思っていることに俺も一緒に立ち向かって行きたい。

そう、白い森の吸血鬼伝説の…あの呪いが解ける方法だって見つかるかもしれない。

だからジェシカと一緒に生きていきたい。

でもロックミュージシャンを続けていたら何回も、こうしてツアーの度に離ればなれになってしまう…その間に彼女が体調を崩したりしたら傍に居るのも駆けつけることも難しくなる。今だって遠く離れているのに。体調を崩したっていう連絡は今のところはないけど。

最初に体調崩した時、凄く辛そうだったし。万が一体調不良が続いたりしたら…だったら尚更傍に居たい。

だけど…ジェシカは、俺とのことを、どう思っているのかな…お互いに好きだって言ったけど…トニーは、ここ数日間、ジェシカとのことを繰り返し考えていた。

「トニー、どうした?もうすぐリハーサルだぞ」ロバートがベースを手に持って歩いてきてトニーに声をかけた。

「あ、うん。ねぇロバート訊いてもいい?」ステージに向かって一緒に歩きながらトニーは口を開いた。

「なんだ?」

ステージにはリハーサルの準備をするメンバーとツアークルーでごった返す中、ロバートはチューニングを始めた。

「その、俺の年で結婚したら変かな…ロバートは、いくつで結婚したの?って訊いてもいい?」

ロバートはチューニングを終えると、トニーを見つめた。

トニーは真剣な表情だった。

「ちっとも変だなんて思わないよ。俺は十三歳の時にマリアにプロポーズした。実際に結婚したのは大学を卒業してからだったけど」ロバートがベースの弦を弾きながら答えた。

十三歳でプロポーズ…

「なんて?なんて言ってプロポーズしたの?」トニーは食い下がった。

「大人になったら結婚してくださいって言ったと思う」

ロバートは少し恥ずかしそうに答えた。

俺は…俺はジェシカになんて言ってプロポーズしようか…

「あ、あの俺、ロックミュージシャンじゃん?でも彼女はピアニスト志望で…その…」

言いかけたトニーの頭にロバートはポンポンと手を置いた。

「トニー、俺はロックバンドのベーシストで妻はピアニストなんだけど」

「…あ!」

ロバートは微笑むとトニーの髪を、ワシャワシャと軽く撫でた。

「これだけは言える。彼女のことに本気なら宇宙全体を敵にまわしても、その愛を貫け」

「うん、うん!」

そうだ!宇宙全体を敵にまわしても俺はジェシカを守る!

トニーはロバートの背後に宇宙全体を見たような気がした。

「だけどなトニー、俺らメンバー全員、トニーが宇宙全体を敵にまわしてもトニーの味方だ」話の途中から聞いていたアレンとスティーブが頷いた。

「宇宙全体を敵に回してトニー達の味方って、めちゃめちゃカッコいいよな俺達」と、アレン。

「俺達、もちろん応援するよ。ロバート、いいこと言うじゃん。でも、なんの応援だ?」と言うスティーブにアレンが肘で軽くつつき、スティーブは察した。

ロバートの言葉はトニーの涙腺を緩ませた。メンバーの優しさに涙を流すトニーにロバートはタオルを渡した。

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