第7話 脱出! ゲタ箱ミミック戦
「小僧! あれを見よ! 前方に空間の歪みが!」
「あそこを抜ければ、玄関は近いはずじゃ!」
「よし来たァ!」
広明は、残された最後の理性と膀胱の耐久力を振り絞り、キャップハウンドの猛追を振り切りながら、陽炎のように揺らめく歪んだ空間へと、文字通り飛び込んだ。
視界が万華鏡のようにぐにゃりと曲がり、三半規管が悲鳴を上げる。
だが、その歪みを抜けた瞬間――!
目の前に、それはあった。
まるで暗闇に差し込む一筋の光、砂漠で見つけた最後のオアシス、締め切り直前のレポート提出先のように、後光が差して輝いて見える、懐かしきアパートの玄関ドア!
脱出口!
現実世界への帰還ゲートだ!
「やったあああ! ゴォォォール!! 見えた! 現実(リアル)が見えたぞぉぉぉ!!」
広明は、オリンピックで悲願の金メダルを獲得したアスリートもかくやという、魂の底からの歓喜の雄叫びを上げた。長かった(特に膀胱にとって地獄のように長かった)苦難の道のりが、今、まさに終わろうとしていた。
「油断するな小僧。瘴気の淀みは未だに濃い。モンスターはどこに潜んでおるか分からんぞ」
女神の忠告はもっともだが、広明は、安堵感と達成感に打ち震え、おそらく人生で最も幸福な瞬間を噛み締めていた。
そして、ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ、油断してしまったのかもしれない。玄関ドアに、まるで生き別れた恋人に駆け寄るかのような勢いで近づこうとした、その時だった。
ドアのすぐ脇。
そこには、広明が入居した時からずっと置かれていた、古びた木製の下駄箱があった。表面には傷がつき、色はくすみ、扉の立て付けも少し悪い、ごくありふれた安物の下駄箱。彼はその存在を、完全に意識の外に置いていた。
それが、致命的な油断だった。
ギシギシ……ミシミシミシッ……
突如、下駄箱から、およそ木材が出すべきではない、骨が軋むような、あるいは何かが内部で蠢くような、おぞましい異音が発生したのだ。
「へ?」
広明の動きが止まる。
歓喜に満ちていた表情が、急速に凍りついていく。嫌な予感が、彼の脊髄を冷たく撫でた。
まさか、とは思う。
しかし、この大魔境では、ありえないことが常に起こるのだ。
次の瞬間、彼の最悪の予感は現実のものとなった。
下駄箱の扉が、バカリ!
と不自然な角度に割れ、内部に鋭い牙のように剥き出しになる。全体が粘土のように歪み、変形し、みるみるうちに巨大な、箱型の怪物の姿へとトランスフォームしたのだ。
分厚いステーキのような舌が唾液と共にはみ出す。
天板箇所と側面には目玉が一つずつ付いており、そこから放たれた視線が、驚愕の表情のまま立ち尽くす広明を射抜いた。
その姿はまさしく、獲物を丸呑みにする箱型モンスター……!
その名も……。
「ゲタ箱ミミックじゃ!」
ゲタ箱ミミックは、その擬態を解き、ついに牙を剥いたのだ。
「ギャオオオオオン!!」
ゲタ箱ミミックは、地獄の釜の底から湧き上がるかのような悪臭……。
いや、もはや生物兵器級の「足臭ブレス」を吐き出しながら咆哮した。
それは、何十年もの間、様々な靴が発酵・熟成され、魔界の瘴気と融合した結果生まれた、究極の異臭攻撃だった!
「うげっ! 目が、目がぁぁぁ! くっっっさぁぁぁ!! しかも、なんで! 今! このタイミングで! ここまで来て! 空気読めってレベルじゃねーぞ、この肥溜め箱があああぁぁ!!」
広明は、悪臭による物理的なダメージと、神をも恐れぬタイミングの悪さへの精神的なダメージ。
そして、限界寸前の膀胱による三重苦で、本気で眩暈と吐き気を催し、その場に崩れ落ちそうになった。あと数歩、あとほんの数秒で、彼は解放されていたというのに。
なんという鬼畜! なんという無慈悲!
「だから、最後まで油断するなとあれほど言うたであろうが、このドアホめ!」
女神が、もはや同情の色もなく、呆れ果てたように罵倒する。
ゲタ箱ミミックは、広明の絶望など知ったことかとばかりに、その巨体を揺らし、箱の内側から靴紐を無数に伸ばして触手のようにビュンビュン振り回し、広明を絡め取らんと襲いかかってくる!
「うわっ! 紐! こんなのに捕まってたまるかよ!」
広明は、もはやヤケクソだった。彼は、人類の尊厳などという高尚なものは、先程のキャップハウンドとのチェイスの途中でどこかに落としてきたらしい。
彼は、まるでブレイクダンスを踊るかのように(ただし必死の形相で、しかも内股で)、床を転がり、跳ね、奇妙なステップを踏みながら、靴紐の嵐を紙一重でかわし続ける。その動きは、不格好極まりないが、生存本能に突き動かされた驚異的な回避能力の現れだった。
「どうする? 測量ポールで刺したら勝てるのか。そんな悠長なことしてたら膀胱が決壊してしまう。……こ、こうなったら、もう奥の手だ!」
「小僧、何をするつもりじゃ!」
広明は、羞恥心、プライド、その他もろもろの感情を、膀胱の限界圧と共に解放することを決意した!
「最終奥義! 誠心誠意! 命(と膀胱)懸けの! 泣き落としジャンピング土下座ァァァ!!」
彼は、助走をつけて高く跳躍すると、空中で華麗な(?)土下座のフォームを決め、ミミックの目の前に勢いよく着地。
ゴンッ!
という鈍い音と共に、額を床に叩きつけた!
「お願いします! ミミック様! いや、ミミック大明神様! あとちょっと! マジであと10秒だけ待ってください! トイレ行かせてくれたら、この下駄箱、毎日ピカピカに磨きます! 高級ワックスも塗ります! なんなら中に最高級の備長炭も入れます! 除湿も消臭も完璧にしますから! だから! お願いしますぅぅぅ!! 後生ですからぁぁぁ!!」
広明は必死で命乞いをした。その姿は、もはや哀れを通り越して、一種の狂気すら感じさせた。
「…………(ポカーーーーーーン)」
ゲタ箱ミミックは、広明のあまりにも予想外で、情けない。
そして、鬼気迫る懇願に、完全に思考停止した。
その口(扉)が、あんぐりと開いたまま、固まっている。
広明の奇行に、
「バカモノ。魔物相手に何をしておるのじゃ。そもそも、泣いて謝ったところで許す訳なかろうが。頭から喰われて終わりじゃろうが!」
女神が、見苦しさに説教をする。
確かにそうだ、相手は人間の言葉を解さない魔物なのだ。命乞いなんぞ通用するとは思っていないが、短期決戦をするにはこれしかなかった。
広明は、この千載一遇(?)のチャンスを見逃さなかった。
「今だっ!」
彼は、土下座の体勢から、まるでカエルのように跳ね起きると、電光石火の速さでミミックの開いた口(扉)の中に、近くに散乱していた大量の消臭ビーズを、袋ごと全力で投げ込んだ。
これも広明の母親が、せめてもの気持ちで仕送りをしてくれたものだった。
「喰らえ! 浄化と芳香のフレグランストルネード・アタック!!」
口の中にいい匂いのする異物を詰め込まれたゲタ箱ミミックは、
「グポォ!? オエェェ……」
と奇妙な声を上げ、激しくむせ返った。
人間がうっかり歯磨き粉を飲み込んだ時のような、あるい毛玉を吐く猫のような、奇妙な苦悶の声。強烈な足臭ブレスを吐き出すはずの口から、逆に爽やかな香りが漏れ出しているという、なんともシュールな光景だ。ミミックは激しくむせ返り、扉(顎)をガクガクと震わせ、必死で異物を吐き出そうともがいている。
その姿は、先程の威圧感は微塵もなく、ただただ滑稽で哀れだった。
広明は、この千載一遇のチャンスを逃さなかさらに広明は、残された最後の力を振り絞り、測量ポールでゲタ箱ミミックの扉にある取っ手に差し込むとテコの原理を使って開かないように押さえ込んだ。
「これで、どうだぁぁぁ!! 開けてみろ、このっ!」
広明は、もはや怒声とも悲鳴ともつかない絶叫を上げながら、全体重をスタッフにかける。ギリギリと金属が軋む音が響く。彼の腕の筋肉が悲鳴を上げ、額には血管が浮き出る。限界寸前の膀胱も、この最後の踏ん張りに呼応するかのように、最大限の圧力をかけてくる。
ゲタ箱ミミックは、口の中の不快感と、扉(顎)を物理的に押さえつけられるという二重の苦痛に、これまで経験したことのない屈辱と混乱を味わっていた。
「グギギギギ……!」
ミミックは必死で扉を閉じよう、あるいはさらに開こうとするが、広明がテコの原理で押さえ込んでいるため、思うように動かせない。
まるで、開かずの扉にされてしまったかのような状態だ。
靴紐の触手を伸ばそうにも、本体が不安定では力が入らない。
足臭ブレスを吐こうにも、口の中は大量の消臭ビーズで満たされている。自慢のパワーも、テコの力点・力点・作用点の前に無力化されつつあった。
数秒か、あるいは数分か。
永遠にも感じられる時間が経過した後、ついにゲタ箱ミミックの抵抗が弱まってきた。
口内の異物によるストレスダメージが限界に達したのだろう。
ミミックは、力尽きたかのように、全ての動きを停止した。扉の間から舌が垂れ下がった。
ゲタ箱ミミックは、ただの奇妙なオブジェと化した下駄箱の残骸へと成り果てた。
「はぁはぁ。か、勝った……今度こそ……」
広明はその場にへたり込んだ。腕も足も。
そして膀胱も限界だった。
彼は、震える手で玄関ドアを開け放つ。
――そこには、後光が差して見える、現実世界の廊下が。
彼は、勝利の雄叫びを上げる間もなく、あるいはゲタ箱ミミックへの同情(?)を感じる間もなく、駆け出していた。
「健太! トイレ貸してくれー!!」
勝ったにも関わらず、広明が逃げるようにして走り去って行くのを
「な、なんて卑怯な奴……。ひょっとして私は、魔界の侵略を防ごうとして、とんでもない悪党を助けてしまったのではないか……?」
後に残った女神は、ひどく後悔したのだった。
(続く)
六畳一間は大魔境 ~掃除しないと住めません!~ kou @ms06fz0080
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