第30話 続・崖っぷち
馬が跳ねる。崖沿いの細道を駆ける一頭と二人。吹き上がる風にたてがみが逆立ち、眼下には深い渓谷が口を開けていた。
その頭上を覆うように、巨大な蚊のような化け物が影を落としていた。不気味なのは、全身を覆う蛍光色のメタリックな外殻。飛膜のような翅を広げ、空を滑空するその巨体は、まるで要塞が空を舞っているかのような威圧感を放っている。
「フシュー……」
肺の奥から搾り出すような重低音の呼吸が空気を震わせる。あのメスの化け物よりも遥かに巨大なその体躯が、荒木たちとの距離を徐々に詰めてきていた。
「お前はもっと走れる! 頑張れ!」
荒木は馬に向かって叫び続けた。片腕では手綱の制御もままならない。おキヌが背後から腰を支え、ようやく落馬を堪えている状態だった。
と──
ズルリ、と気味の悪い音とともに、化け物の一本の触手が風を裂いて現れた。するりとおキヌの背後に回り込む。鋭い先端が蛇のようにうねり、彼女の首筋を狙って舞い下りてきた。
「しつこい男だね、あんたは!」
おキヌが短刀でそれを薙ぎ払う。だが、それは囮だった。次の瞬間、二本目、三本目の触手が連携するように襲いかかり、ついに一本が彼女の首筋に巻きついた。
「ああっ……!」
おキヌの苦しげな吐息が漏れ、喉元に締め付ける圧が加わる。肌が青ざめ、唇が紫色に変わっていく。
「おキヌ殿!!」
荒木が叫ぶも、為す術がない。片腕では、おキヌの身体を繋ぎ止めておくことすらままならない。
(くそっ、この腕さえあれば……!)
そのとき──
ドカアアァンッ!!
爆風が空を切り裂いた。衝撃波が空気を揺らし、馬が驚いていななく。腹の底から突き上げるような重い音が響いた次の瞬間、化け物の腹部に砲弾が炸裂した。
ブギャアアアア!!
聞いたこともない獣の咆哮。
炸裂点から放射状に吹き飛ぶ火花と甲殻の破片。衝撃で巻きついていた触手が断たれ、ちぎれた肉片と粘液が宙を舞った。
おキヌの身体がその勢いで投げ出されそうになるが、荒木が渾身の力で引き寄せ、背中に抱き込む。
「おキヌ殿、しっかりせい!」
「……ゴホッ……はい……はぁ、はぁ……」
荒木は顔を上げ、爆音の飛来元に目を凝らす。すると、深い谷を挟んで200メートルほどの距離にある対岸の尾根に人影がいくつも見えた。
「やはり、味方か!」
その中に一際目立っているのが、四門の大砲だ。
「あれは……もしやアームストロング砲……!?」
噂に聞いた西洋の最新鋭鋼製砲。敷島藩が極秘裏に開発していたと噂される“幻の砲”が、ここで実戦投入されていた。鋼の砲身からまだ湯気が立ち上り、空薬莢が地に転がっている。
「化け物は……?」荒木が振り返る。要塞のような巨体が見当たらない。
「やったか!?」思わず喜びがその声に滲んだ。しかし、
「荒木様! 下に!!」 谷底から再び、要塞が浮かび上がってきた。化け物は一瞬のダメージをくらったが、すぐさま体勢を整えたようだ。しかし、その距離は20メートルはあろう。
「しぶといの。まあ、そうくると思ったわ!」荒木が叫んだ。
「荒木! おキヌ! 耐えろぉ!!」対岸から叫び声が届いた。
次の瞬間、荒木の目に飛び込んできたのは、見覚えのある逞しい体躯だった。
「……源田殿!」
指揮棒を高く掲げ、まさに戦場の中心に立つ男。壊滅した竜義隊の隊長、源田半之丞だった。
「生きておられたのですね!!」
源田は落下する船から振り落とされながらも一命をとりとめた。そして、ボロボロの体を引きずるようにして城に上り、藩主を説得して急造の部隊を率いてここまで駆けつけていたのだ。
「馬鹿野郎!!勝手に殺すな!!」 源田の怒号が谷を渡る風に乗って届く。
隣には、懐かしい顔がある。吉六だ。手には火縄を持ち、必死に砲の後始末をしている。
「荒木の旦那! 逃げろ! あとはこっちで何とかすっからよ!!」
あまりの頼もしさに荒木は思わず涙ぐみそうになる。
「おキヌ殿、頑張ろう。頑張るのだ!」荒木の声は昂っていた。
「はい、荒木さま!!」
対岸では砲撃手が引き綱を引き、二発目のスタンバイが整った。
「撃てェッ!!」再び源田の号令が響くと同時に火薬に火が放たれる。
引き金が引かれると、鉄製の砲身が震え、地面が鳴った。砲身の先から火花とともに白煙が吹き上がり、周囲の耳が一瞬麻痺するような爆音が谷にこだました。
どかああああん!!
しかし、それはあらぬ方向へ!
荒木たちの進行方向──走る馬のすぐ前の崖を撃ち抜いた。地面が崩れていていく。
「なにやってんだ、おい!!」吉六が叫んだ。
敷島藩のアームストロング砲はまだ試作段階。照準が安定しないという課題を抱えたまま“実践デビュー”となっていた。
「なんと!」荒木は目を丸くした。
すぐ目の前には深い谷へ真っ逆さまの穴が空いた。行き止まりだ。
(馬を止めるしか……)一瞬、よぎったその考えはすぐさま打ち消された。
「荒木様、飛ぶのです!」おキヌが叫んだ。
崩れた道の長さは5メートルほど。馬に乗って崖を飛び移るといった曲芸など経験があるわけない。そんな芸当が本当にできるものなのか──
荒木は背中におキヌの体温を感じた。それ以上に勇気をくれるものはない。腹は据わった。
「うぉおおおお」荒木は片腕で必死に手綱をつかみ、唸り声を上げた。
「飛べぇえええ!」
荒木とおキヌをのせた馬の体が宙を舞う。その瞬間、化け物の食指も背後から伸びてきた。
すんでのところで頭を低くし、荒木とおキヌはその攻撃をかわす。
そして、馬は見事なジャンプで“穴”を飛び越えた!
「よっしゃああ!!」吉六がガッツポーズした! そして、他の砲撃手たちも一様に、快哉を叫んでいる。
と──
“フシューッ!”
化け物が再び唸りを上げ、向きを変えた。明らかに怒っていた。狙いは変わった──今度は源田たちの砲台陣地。
空を揺らすような唸りとともに、化け物が旋回し、対岸に向けて加速した。大気を震わせる羽音とともに、甲殻の翼が宙を切り裂く。
「構えろぉっ!」源田が叫んだ。
轟音とともに、もう一発。三門目のアームストロング砲が火を吹いた。砲弾は空中で炸裂したが、今度は致命打にはならず、化け物の棘のような背中を弾いていっただけだった。
「ヤベェ!来る、来ちまうよ!!」吉六の叫びが空気を切り裂いた。
化け物はギラリと瞳を光らせ、赤い閃光が走った。吉六の脳裏に炭鉱で見た惨劇が蘇る。
「ひいぃいいいい!!!」
源田はすぐさま次弾の装填状況を確認する。
「いけるか!?」
「あと一門、すぐに!!」若い砲撃手が勢いよく叫んだ。
「よし、この谷が奴の墓場だ!」
源田が指揮棒を掲げ、振り下ろそうとしたそのとき──
「ちょちょちょちょちょ、待ってくだせぇ、源田隊長!」
吉六が砲身を抑えながら、蒼白な顔で叫んだ。
「なんだ!? 吉六!!」
「その砲身、見て……ヒビが、ヒビが入ってるんでさ!」
「なに……!」
「撃てば暴発だぁ! おいらたちが吹き飛びますぜ!」
「くっ……!」
すでに空には、化け物の黒い影が巨大な月のように浮かび、じわじわと砲台の真上に近づいていた。
「どうする?」と言わんばかりに20人あまりの部隊の者たちは全員、源田の顔を見た。
源田はカッと目を見開いていた。その目には何が映っているのか……源田の手のひらの中で、時が止まった。
幕末の物体x〜黒船よりも恐ろしき〜 アポロBB @apolloBB
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