第29話 崖っぷち

“フシュー……ギギッ……”


森の奥で不気味な息遣いが響いた。その音だけで荒木とおキヌの背筋は凍りつく。木立の陰に、何か巨大な影がうごめいた。さっきまで聞こえていた小鳥のさえずりも消え、まるで森全体が息を呑んでいるようだ。


「来る……!」


荒木が緊張のあまり、残った右腕で小刀を握る。と、その茂みが大きく揺れたかと思うと、まるで要塞がうごめくような巨体が姿を現した。


「なんと……あれは……!」


今まで見てきたメスの化け物とは桁違いの大きさ。甲殻が何重にも重なり、背には棘のような突起が並んでいる。顔は節足動物を思わせる奇怪な造形で、その頭部を振り上げながら「フシュー」と空気を漏らす呼吸をひどく荒らげている。


「おキヌ殿、走るか……いや、背を見せたら斬られるかもしれん……」


逡巡する荒木。片腕を失った今、小刀や体術だけでは明らかに勝機が見えない。それでも、もしこのまま背を向ければ、巨大な刃状の腕や尾で追撃されるのは目に見えている。


「荒木さま、あれは――」おキヌが低く囁く。「私たちが倒したメスのつがいのオスではありませんか。大人ともなれば、あれほど大きいのでしょう」


「我らが相手にしてきたのはメスとその子供らということか……」


そう思うと、荒木は化け物の立ち振る舞いにどことなく“怒り”が滲んでいるような気がした。


「家族を殺されて怒り狂っておるのか」


化け物は二人との距離が十メートルほどしかないところからにじり寄ってくる。血走った目に見える怒気に圧倒され、荒木の心臓は早鐘を打つ。もはや猶予はない。


「おキヌ殿、逃げるのだ!それがしが盾に……」


と荒木が叫んだ時にはすでに、おキヌは両足で地を蹴り、斬りかかろうとしていた。


「な、なんと!」荒木は思わず、声を上げた。


おキヌの背中越しに化け物を見る格好となった荒木は、その細長く鋭利な腕がおキヌの死角から振り下ろされようとしているのが、分かった。


「おキヌ殿!」


荒木は、咄嗟におキヌに飛びつくようにして腕を取った。その勢いのまま、枯れ草の吹き溜まりに二人は倒れ込む。その一瞬、化け物の長い触手めいた前脚がすぐそばの木を薙ぎ倒し、派手な破裂音を立てた。


もし荒木が飛びついて止めていなければ、おキヌは真っ二つに斬り裂かれていただろう。



木の破片と土が飛び散る。化け物はもう一撃振り下ろすべく構えている。


荒木は次なる一撃に備え、歯を食いしばった。とその時──


パカラッ、パカラッ、パカラッ!


馬の蹄の音が聞こえた。森の入り口から、先刻捕まえそこねたあの馬が、再びこちらへ向かって突進してきた。ひどく怯えきった様子だが、なぜか二人がいる方向へ逃げ込んできている。


「来い!それがしがお前の新たな主人じゃ!!」


荒木は横を走り抜けようとする馬に猛然と駆け出し、片腕ながらもなんとか馬のたてがみを掴み、鞍に飛び乗った。おキヌも荒木の肩を掴んで後部へよじ登る。化け物の追撃を身を屈めて馬上の二人はかわした。


「行くぞ!」荒木が必死で手綱をさばき、馬を森の奥へと急がせる。


どすん、どすん――背後で巨大化け物が、木立をなぎ倒しながら迫る轟音が聞こえる。


馬には追いつけまい……と思われたが、この化け物の脚力は尋常ではない。足音がぴたりとついてきて、むしろ距離が詰まっているように感じる。


「くそ……こんなに速いとは……!」


おキヌが荒木の背にしがみつきながら応じる。「あの巨体で一歩一歩が……!」


と、道の先が開けた。だが、その先は険しい崖の淵。


ヒヒーン!


馬がいなないて、急ブレーキ。


下を覗けば百メートルはあろうかという深い渓谷が口を開いている。回り道を探す猶予はなさそうだ。化け物の足音はすぐ背後に迫っている。


「荒木さま、こちらを!」


おキヌが指差した方を見ると、細く曲がりくねる小道が、断崖絶壁に沿って続いている。もともとは農民が城下まで荷馬車を通すためにこしらえた抜け道なのだろうが、崖すれすれで、さらにところどころ崩落しており、危険だ。おそらく、現在は使われていないのだろう。


荒木は一瞬、ひるんだ。


(ふだんなら、絶対に避けるであろうのう……通りとうないのう)


それでも荒木は歯を食いしばった。


「仕方がない! 行くぞ、おキヌ殿。さすがにあの化け物の巨体では、ここへは踏み込めまい……!」


馬を崖沿いの道へ誘導する。片腕での手綱さばきが思うに任せず何度もよろめきそうになるが、おキヌが後ろから荒木の腰を支え、なんとか踏みとどまる。


馬は二人を乗せ、崖道に突入。猛スピードで駆け抜けていく。


眼下の渓谷から吹き上げてくる強い風が、岩肌にぶつかって唸るような声を上げている。


馬は幾重にも折り重なるカーブを崖っぷちから落ちそうになりながら、ギリギリで踏みとどまって疾走する。


地面が崩れて土砂が谷へと落ち、すさまじい音が渓谷に反響する。高所恐怖症の荒木は内心汗だくだが、必死に平静を装っていた。


「お、おキヌ殿……だ、大丈夫か……? このような崖は初めてじゃが……」震える声で言うと。


「ええ、忍びの里は崖の上にございますので」と冷静な声が返ってきた。


(さすがは忍びだの……)


荒木は息を詰めながら曲がりくねった崖道を抜けていく。振り返ると化け物は崖の手前で巨大な甲殻を揺らし、どうやら追いつけずに怒りの叫びを上げているようだ。荒木はようやく安堵しかける。


「助かったか……」


――そのとき、頭上が暗くなった。


「荒木さま、上!」


おキヌが叫んだ瞬間、馬の足元がぐらつき、強烈な突風が吹き込む。見上げると、要塞のような巨大化け物が両腕を広げ、飛膜のような翅をばさりと広げて上空を飛んでいた。まさかこんな巨体が飛ぶなんて……!


「そう……そうであった。奴らは飛ぶのだ……!」荒木が叫ぶ。


あの甲殻のどこかに飛翔用の器官が隠されていたのか、すでにメスの化け物でも飛ぶ姿を荒木は見ている。だがこれほど大きいオスが、崖道を外して空から急襲してくるとは……。


馬は悲鳴のように嘶き、崖すれすれで蹄をもつれさせそうになった。二人は必死に踏ん張り、落下の危機をこらえる。空には要塞じみた化け物の影が覆いかぶさり、「フシュー……」という呼吸音が轟いた。

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