第35話 夢から醒めて

「──以上だよ。ボクなりに話せることはすべて話したつもりだ」


 ぼうっとしていた。声の発し方が思い出せない。

 葵や泉、まどかの様子もどうやらおれと似たようなものらしかった。


 終わりのない夢に迷いこんでしまったというか、体がふわりと浮き上がってなかなか地上に降りてくれないような感覚が続いていた。

 アルコールを好む大人なら酩酊感とでも表現するのだろうか。


「だいたい一時間か。思いのほか早く終わったな。まあ、ただ他の人たちより長く生きてるってだけだからね。端折ろうと思えばいくらでも端折れるよ」


 グラスの水を一気に飲み干し、常盤くんが自身の数奇な半生を簡単に締めくくってみせる。

 話の途中、唯さんは年齢に関するくだりで抗議の意味を込めたきつい視線を一瞬向けただけだった。

 二人がいつどうやって出会ったのかまでは語られなかったが、そこは深く立ち入っていい場所ではない。


 おれにとって、そして葵にとって本当に大事な話はここからなのだ。


「あのさ、常盤くん……でいいのかな」


 全身でどうにか踏ん張り、想像の及ばないほど苛烈な人生を歩んできた男と必死に対峙する。

 まずそこかよ、と言わんばかりの態度で彼はオーバーに肩を竦めた。


「二十代で死んだあいつよりずっと長い間その名前を使っているんだ、これはもうボクのものといっても過言じゃないだろう。所有権が移ったのさ」


「なにそれ。借家権みたい」


 久しぶりに葵の声を耳にした。

 意外なほどいつもと変わらない、透明感のある声だ。

 彼女が口を開いたことでまた少し空気が変わる。


「そんなところかな」


 答えた常盤くんの顔にもほんのかすかな笑みが浮かんだ。ただしそれはとても寂しそうな笑顔だった。


「イザベルを恨むなんてお門違いもいいところだけど、ときどきはそんな気持ちにもなるんだよ。彼女の呪いに縛られて、またボクは〈かみさま〉に向き合わなければならない。非情な現実を告げなくてはならない」


「わたしが、そうなんだね」


 葵からの確認するような短い問いかけに、常盤くんが小さく頷いた。

 そっか、と表情を変えずに彼女は呟く。もう一度「そっか」と。

 それから椅子の背もたれに体を預け、天井を見上げて息を吐きだした。


「ずっと夢をみていたんだとばかり思ってた」


 再び居住まいを正し、葵が語りはじめる。


「あのときは何が何だかわからないくらいの緊張状態だったからさ、てっきり一瞬の間気を失ってて、そのときに夢でも見てしまったんだろうなあって、ずっとそう思ってた」


「じゃあやっぱり……」


 かすれた声の泉に対し、どこか吹っ切れたかのような葵は「うん」と応じる。


「ちゃんと覚えているよ、何もできず大事なものが汚い土足で踏みにじられそうになったところまで。だからわたしはそれこそ脳が焼き切れたっておかしくないほどひたすらに強く願ったの」


 彼女の言葉の続きを、おれは固唾を飲んで待つ。

 葵にはもう迷いも躊躇いもなかった。


「あの男が死ぬのを。二度と起き上がれないよう、むごたらしく死ぬのを」


 はっきりとした意思を込めて彼女が言い切る。

 わずかに歪んだ唯さんの表情はあまりに象徴的だった。ほんの数時間前までの世界にはもう誰も引き返せなくなってしまったのだ。

 情けないことに、いつもの調子を取り戻しつつある葵の姿が遥か遠くに思えて仕方がなかった。


「常盤くん、ありがとうね。さっきはわざと露悪的な物言いにしてたんでしょ? ほんの少しでもわたしの中の罪悪感が薄れるように、って気を遣ってくれているのは何となく伝わってきたよ」


 髪をかきながら常盤くんが「本当のことばかりなんだけどな」とこぼした。

 彼の声が届いているのかいないのか、葵はそのまま話し続ける。


「でもいいの。もしあの場面に戻れたとしても、わたしは迷わず同じことを願ってしまうはずだから。どれだけ繰り返したところでそれは変わらないよ」


 ここでおれは葵と目が合った。あいつの顔が幼い頃みたいに綻んだ。


「花南や陽平が傷つくのを見るのは、絶対に死んでもいや」


 決然とした葵の言葉に、唯さんよりも常盤くんよりも、そしておれよりも早く反応したのは泉だった。


「わかってるよ。葵ちゃんならきっとそうするだろうなって」


 でしょ、と双子の姉は妹へとびきりチャーミングにウインクしてみせる。


     ◇


 どうやって寮まで帰りついたのか、まるで覚えていない。放心状態だったおれを足が勝手に運んでくれた、というのが正直なところだ。


「いわばロシアン・ルーレットみたいなものなんだ」


〈かみさま病〉に罹り、何かを強く願ってしまう行為を常盤くんはわかりやすくそう例えてくれた。幾度も願いごとを叶えてしまえば、

 当然の帰結として発火する脳への負担は飛躍的に増大していく。強大な願いであればなおさらだ。

 脳が焼き切れる死の瞬間をいつ迎えてしまうのか、それはまさしくロシアン・ルーレットへ身を任せるのに等しいのだという。


「だからアオイ、キミは自分の心を制御する術を身につけなければならないんだよ。そうすれば今からでも充分普通の人間と変わらない人生を送れるんだ。リボルバーの銃弾はまだ発射されていないんだからね」


 少なくとも半永久的に死ねない人間よりはまともな人生のはずさ、と常盤くんが自虐的なコメントを交えて今後の方針を説いていた。

 唯さんだってもちろん彼の意見に同調した。


「お願い葵、宗助の言うことを聞いて」


 他にどうしようもないのは頭の悪いおれにだって理解できる。

 だけど、それはつまり、「何も望むな、何も願うな、ただひたすら心を殺して生きろ」という意味だとしか受け止められなかった。


 やはり雨の降らないレイニー・デイなんて本当にろくなもんじゃない。結局二年前と何も変わっていなかった。

 どう足掻いても傍観者であることから一歩も踏みだせず、大切に想っているはずの人が幽閉同然の人生を余儀なくされようとするのを、無力感に打ちひしがれながら黙って眺めているだけなんだ。


 そしていつしかおれと葵の距離は、互いが手を伸ばしても届かないほどに遠ざかっていくのか。離れていってしまうのか。それが葵のためだというのか。


 思考がぐるぐる廻り続け、日付はとうの昔に変わっていた。

 六月十三日、レイニー・デイ前日だ。

 寮に戻ってきてからというもの、とんちんかんな受け答えしかできないおれをずっと心配してくれていた蜂谷の規則正しい寝息が二段ベッドの下から聞こえてくる。


 眠れぬ長い夜がようやく終わろうとし、夢の世界で微睡みつつあった頃、どういうわけか降っているはずのない激しい雨音を耳にしたような気がした。

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