第21話 二年前、六月十四日〈5〉

 花南がここにいるのを確かな現実とするべく、今度は意識しながらはっきりと口に出して葵に言った。

「いたぞ!」と。


 彼女は必死で「静かに」と人差し指を口に当てているが、気持ちが高ぶっているのか自分で自分を制御できない。

 さっさと可愛い妹を連れだして、こんな辛気くさい場所からおさらばしてやる。


「花南!」


 安心させようと妹の名を呼び、例のスイングドアを開けて殺風景な部屋の中へ足を踏み入れる。犯人の姿がないことにおれは密かに胸を撫で下ろす。

 だが花南は、彼女が小さい頃によくやっていた「いやいや」みたいにして首を左右に振っていた。猿轡を噛まされているせいで、何かを伝えようにも「んー、んー」としか発音できないでいる。


「落ち着け、もう大丈夫だから。にーちゃんと一緒に帰ろう」


 ベッド脇に寝転がされていた花南のところへようやくたどり着いたおれはひざまずいてまず体を起こしてやる。懐かしいその体温が手のひらに感じられ、思わず泣きそうになったのをどうにか堪えた。

 照れくさいのを打ち消すように、おれはまだ入口付近にいる葵を呼んだ。


「どうした、早く来いよ」


「う、うん──」


 葵が返事をしている、まさにそのときだった。

 突然ベッドとは逆の位置にある備えつけのクローゼットが大きな音をたてて開き、そこから弾かれたように男が飛びだしてきたのだ。ずいぶんと目が血走っている。


 罠だった。

 いつからかはわからないがおれたちの侵入を察知していた犯人は、花南を誘いこむための餌にして待ち伏せていたのだ。


 やつが無言のまま鈍く光るナイフをおれ目掛けて突き立ててきたのにはさすがに気が動転し、慌てて立ち上がろうとしたせいで足を滑らせてしまった。

 けれども人生に何が幸いするかわからない。


 おれが焦って体勢を崩したせいで、逆に犯人のナイフは狙いどころの急所から逸れてしまった。とはいえ、おれの幸運はあくまで致命傷にならなかったところまでだ。

 ナイフの切っ先はおれの右脇腹を抉り、熱さを伴った経験したことのない痛みに、悲鳴が声にもならない。


「あ……あ……」


 目の前の光景が信じられないのか、近くまでやってきていた葵は呆然としている。無防備にも棒立ちな彼女の膝が恐怖のせいだろうか激しく笑っている。


「……ばか……逃げろって……」


 このままだと葵が危ない。

 追いつめられていたおれの頭の中に浮かんだ解決法はひとつだけだった。

 どうにかナイフを奪い取り、こいつを刺す。それがバカなおれなりの、たったひとつの冴えたやりかた。


 血が止まらないのもかまわず、犯人へと低く鋭く飛びかかっていく。あえてナイフを持っているほうの腕へ。

 手負いのはずのおれの動きに犯人は虚をつかれた。

 おれは狙い通り真っ先にナイフを持っている腕をつかんで放さず、そのままとりつくような姿勢になってどうにか凶器の動きは封じた。


「なん……だよ、しつこいんだよっ」


 そう喚きながらやつはもう片方の手でおれにひじ打ちを食らわせてくる。

 頭や背中に何発ももらいながらおれは耐える。ひたすら耐えてチャンスを待つ。

 その間に花南を連れて葵に逃げてもらえれば上出来だ。万が一おれがあえなく敗れたとしても、それはミッションインコンプリートではない。


「放せ、放せよお!」


 思うようにいかない焦りからか、相手は半狂乱でおれを滅多打ちにしてくる。

 しかし一発の重みが減ってむしろ凌ぎやすくなった。いいぞ、いけるぞおれ。

 肉体はすでに脳のコントロール下になく、目的プログラムに沿って自動で戦っている。そんな気さえしてくるほど意識と肉体がバラバラに、かつ役割を分担して動いていた。


 だが出血のせいか痛みのせいか、次第に視界が狭まっていく。

 その片隅でいまだに突っ立ったままの葵の姿を捉えた。


「……なにやってんだよ……」


 ここで意識が震えている彼女へと引き寄せられてしまった。


「いいかげんに、どけっ」


 力が弱まった、その隙をつかれておれは犯人に振りほどかれてしまう。

 命綱を放してしまったな、とノイズだらけの頭にあきらめともとれるセリフが浮かんできた。


「陽平!」


 ああ、ようやく金縛りは解けたのか、だったらさっさと逃げろよ。

 花南やおまえが傷つくなんておれは死んでもごめんだ。


「散々邪魔してくれやがって」


 死に際くらい自分の好きな人たちを眺めていたいものだが、残念ながら血走った目でナイフを構え直す犯人の面が見えていた。


「……ままならないな」


 もしかしてこれが最期の言葉かな、だったら締まらないな。

 そんなことをぼんやりと考えながらおれの意識は急速に遠のいてしまう。

 以上が花南の誘拐事件においておれが記憶していることのすべてだ。


 ここから先はすべて伝聞での話となる。

 気づけば病院のベッドに横たわっていたおれがまず確認したのは花南と葵の無事だった。ただし、引き換えとなるような形でしゃべれなくなった花南はPTSDと診断され、加えて葵の父である辰巳さんが矢面に立たされることとなってしまった。


 後でわかった警察の調べでは、犯人は「お兄ちゃんが呼んでいるよ」と誘いだした花南を死角となる場所でキャリーバッグに押しこみ、そのまま車で〈らぶみー〉へとやってきたらしい。

 奇妙なことに彼は通院歴もある性的不能者だったそうで、花南にはほとんど手を触れていない。これはあの子自身が筆談で証言したことだ。

 ただ花南いわく「たくさん匂いを嗅がれた」と。


 そして間近で誘拐犯の死を目撃する。

 GPSによって場所を突き止め、急いで〈らぶみー〉に駆けつけた辰巳さんは緊急事態と判断し、おれたちを助けるために誘拐犯を射殺したのだ。

 その際に拳銃へ装填されていた五発の銃弾をすべて撃ちこんだのが問題視され、「不要な発砲である」として相当に否定的な報道がなされた。

 彼への懲戒処分として一か月の停職が命ぜられたものの、それでも警察内部においては同情的な声が大勢だったというのがせめてもの救いだ。


 あの日以来、おれは葵にも泉にも会ってはいなかった。合わせる顔もなかった。

 小学六年生のときのレイニー・デイとはまったく違う意味で「もう会うことはないだろう」と思っていた。


 あれから二年の月日が経っても、何も解決なんてしていないのだ。

 腹に残る傷跡は死ぬまで消えはしない。

 花南はいまだに声を聞かせてくれず、まるで磁石で引き寄せられるように葵と泉には再会してしまった。

 宮沢先輩から誘われるままに入った男子寮の騒々しさに身を任せ、日々にただ流されていくだけのおれは、いつかその報いを受けることになるのだろうか。

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