第19話 二年前、六月十四日〈3〉

 館内放送で「志水花南ちゃん」のお呼び出しが二度流れる中、携帯のスピーカーをオンにして鳴らし続けたままで何人もの買い物客や店員に手あたり次第妹の行方を訊ねていく。


 ありがたいことに何人かは花南のことを覚えており、あの子のとった行動が少しはつかめてきた。

 おれと泉を見送った後、どうやら花南は少し年上くらいの女の子と知り合って話をしていたらしい。だが残念なことにその少女と思しき人物は見つからなかった。


 いずれにせよ重要なのはその直後の足取りだ。

 おそらくは葵を出迎えようとでも考えたのだろう、玄関から外に出てしまった花南に声をかけてきた男がいたのだという。

 キャリーバッグを引いた、三十歳前後の痩せた男。


 もしかして、そいつが花南を。心臓が早鐘を打ち、全身が一気に熱を帯びてきたような気がした。なのに寒気を感じて体は震えている。

 正面入口の自動ドアが開いた途端、蒸し風呂かと勘違いしそうなほどの暑さが襲ってきた。駐車場の風景が歪んで見えるほどだ。はっきり言って気持ち悪い。


 まったく繋がる気配のない携帯電話の呼びだしをいったん切ってすぐ、今度はおれへと着信があった。


『もしもし陽ちゃん? よかった、やっと繋がった!』


 相手は泉だった。


「悪いな、ずっと花南にかけていたんだ。そっちはどうよ」


『ごめん。今のところこっちは全然ダメ。でももういっぺん──』


「いや、いいんだ。それより泉、おまえに頼みたいことがある」


『言って』


 泉が簡潔に要求してくる。

 いつの間にか荒くなっていた呼吸を整えてから口を開いた。


「おじさんに連絡をしてほしい。たぶん、いやもっと高い確率で花南が男の人に連れ去られたと思う。キャリーバッグを引いた痩せ型で身長は普通程度の男。三十歳前後くらいだったらしい。それを一緒に伝えて」


 一息に言い切った。


『わかった、覚えたよ。お父さんにちゃんと伝えるね。陽ちゃんはどうするの』


「このまま捜す。絶対見つける」


 理屈も何もあったもんじゃない、ただ自分に言い聞かせているだけの言葉だったが、返ってきた彼女の声は優しかった。


『うん、そうだね。大丈夫、絶対大丈夫だから』


 思わず目頭が熱くなったおれは「ありがとう」とだけ伝えて電話を切る。

 気づけば汗が額から頬を伝って首筋へとどんどん流れこんできていた。捜す、といってもあてなどない。不意に途方もなく世界が広がっているように思えた。


 あまりに広大すぎてどうしていいかわからず、ぐわんと目眩がして視点も揺れる。結果、アスファルト目掛けてつんのめりそうになった。

 だがおれの右腕が乱暴につかまれたおかげで事なきを得た。


「あんた、何してんの」


 厳しさを含んだ声の主は見なくてもわかる。葵だ。ぎゅうっ、とさらにおれの腕をつかむ手に力を込めてくる。痛いほどに。

 ようやく我に返ったおれは、振り向きながらお礼の言葉を言いかけて止めてしまった。顔をしかめた葵がもう片方の手でこめかみを押さえていたからだ。


「おい、どうした。頭が痛いのか」


「そんなことはどうでもいい」


 余裕のない様子で彼女が吐き捨てた。

 まるで睨んでくるような視線のままで言葉を続ける。


「陽平、もしかしたら花南は〈らぶみー〉にいるかもしれない」


 随分前に廃業となっているらしいラブホテル〈らぶみー〉。

 おれや有坂姉妹が卒業した小学校の校区内にあり、何度かその前を自転車で通りすぎたこともあったが、年齢のせいもあってかそもそも営業していたのかどうかさえはっきりとはわからない。

 さすがにおれも首を傾げた。


「何でまた〈らぶみー〉なんだよ。確かにあそこなら人目につかないし、花南が誘拐されたとしたなら犯人が隠れるにはもってこいだろうけど」


「──勘よ」


 まったく論理的でない答えを、露ほどの迷いも見せずに葵が告げる。そう、まさにお告げだ。


「勘、ね」


「そうよ。ていうかあんた、こんなときに何笑ってんの」


 葵に詰られて気づいたが、いつの間にかおれの口元は少し緩んでしまっていたらしい。それというのも少し昔を思い出していたからだ。


 おれたちが小学三年生だったときの遠足で、泉がクラスの列からはぐれて行方がわからなくなったことがあった。

 後で本人から聞いてわかったのだが、別の道からでも目的地へ行けると思って考えなしに実行してしまったのだという。

 幼い頃から泉には時折そういう突拍子もない行動をとる傾向がある。高校受験の際の出来事はその最たるものだろう。


 結局、彼女がいたのは見当違いも甚だしい離れた場所であり、そこにいるとぴったり言い当てたのが葵だったのだ。

 しばらくは「神がかっている」と評判にもなったが、そのうち自然と忘れ去られていった。だいたい小学生の興味なんて日々目まぐるしく移ろっていくものだしな。


「覚えてないか? 泉がふらふらいなくなったときの」


「ああ、遠足のやつね。もちろん覚えてるわよ。何せあの子のせいでわたしまでお母さんにこっぴどく怒られたんだから。ひどくない?」


「そうだったそうだった。しばらくおまえ、『もうお母さんとは口きかない!』って拗ねまくってたもんなあ」


 懐かしい記憶はしかし、真夏と遜色ない日差しの前に彼方へと消え失せてしまう。残ったのは花南の不在という冷酷な事実のみ。

 何の根拠もない勘に頼るなど、洋画で観たルーレットの一目賭けよりも分の悪い選択なのは明らかだが、それでも他ならぬ葵の言葉には信じるだけの価値があるのだとおれは思う。理屈じゃないんだ。

 右手で軽く握り拳を作り、そのまま左手のひらへと打ちつけた。


「他にすがるものもなし。信じるさ、葵。〈らぶみー〉に行ってみるよ」


 だがなぜかこの発言が彼女のお気に召さなかったらしく、よりいっそうきつい視線で睨みつけられてしまう。


「は? 何であんた一人で向かう気になってるの?」


「いやだって、おまえ徒歩じゃねえか。調子も相当悪そうだし無理すんな」


「うるさい黙れ。こんな頭痛くらい、たまにあることだしどうってことない。それに自転車はあんたが乗ってきてるでしょうが」


 なるほど、おれに運転手をやれ、と。二人乗りとなれば漕ぐスピードは間違いなく落ちるだろうが、聞き分けてくれるはずのない葵とここで押し問答をやっている方がよほど時間の無駄だ。


「ならさっさと行くぞ」


「わたしに命令するなんて、陽平のくせにえらくなったもんね」


 憎まれ口を叩きながらも彼女がちゃんとついてきているのを背中で感じながら、早足で自転車置き場へとやってきた。

 開錠しながらおれは隣にとめてある花南の自転車に目を遣る。


 買うときに母から「もっと可愛いのにしたら」と言われても頑として「にーちゃんとお揃いがいい」と譲らなかったスポーツタイプの自転車だ。

 そのおかげというかそのせいというか、クラスの男子たちからは「格好いい!」と評判なのだそうだ。

 必ずおまえにまた花南を乗せてやる。そう誓ってから葵に呼びかけた。


「容赦なく飛ばすからな。ちゃんと捕まってろよ」


 宣言通り、おれは漕ぎに漕ぎ、飛ばしに飛ばした。

 意外にも荷台に座る葵が素直におれの体へと手を回してつかんでいる。

 かなりのスピードで風を切って進む中、少し汗ばんだ彼女の腕から伝わってくる熱だけが現実の拠りどころのような気がしていた。

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