(3)

 わたし一人でも絶対に生き抜いて見せると即座に啖呵を切ったなら、それが根拠のない強がりでもまだ自立の芽はあっただろう。だが有美ちゃんは、保育費用の話を出しただけで沈黙した。そりゃそうさ、出て行けとぶち切れたのはいいけれど、本当に出て行かれると即座に生活が行き詰まるからな。家賃と生活費だけでもかつかつなのに、その上保育費用なんか出せるわけがない。いや、育児のことなんかまだましさ。もっとどでかい問題があるんだ。


「なあ、有美ちゃん。一人暮らししたことないだろ」

「……うん」

「俺も陽花も一人暮らしの経験がある。子供らもだ。一人は気楽だが、何かあった時には逃げ場がない。自分以外何もあてにできないんだよ」

「……」

「有美ちゃん孕ませた男に誠意があれば、話は別だけどね」


 そう。正妻の地位を勝ち取ったと言っても、それは書類上だけのこと。二股かけた男は、もう有美ちゃんに見向きもしない。離婚した前妻と子供たちに払う慰謝料と養育費用の確保でいっぱいいっぱいだ。困窮すればこのかちゃんのことなんか何も考えないで、少ない有美ちゃんの稼ぎから自分の生活費を掠め取ろうとするだろう。そりゃそうさ。陽花がバックアップしてる限り、有美ちゃんは放っておいても大丈夫だと思っているはずだから。


「おじさんに……なにがわかるっていうのよっ!」

「さっぱりわからんよ。わかろうとする気もないし。俺にとっては人ごとさ。陽花のことも有美ちゃんのことも」

「くっ」

「見えてるものしか判断材料がないんだ。今見えているものがどうしようもなくぐちゃぐちゃなのに、どうして突っ込めるんだよ。有美ちゃんなら突っ込むか?」


 具体的に言おうか。ぐうの音も出ないように。


「俺が病気の親父と認知症のお袋抱えて、右往左往してた時。有美ちゃんは俺に何かしてくれたか?」

「う……いや」

「有美ちゃんは自分のことで精一杯だっただろ? 俺だってそうさ。今でも自分のことだけで精一杯なんだよ。仲裁に首ぃ突っ込む余裕なんかどこにもない」


 熱風を受けてざわつく野原を見渡す。静かで変化がないように見える草の波も、よく見るとあるかないかの風を受けてひっきりなしにざわついている。じっとしていられない。じっとしていたくない。今こそ盛りの時。片時も無駄にするなと言わんばかりに。

 俺たちも夏草と同じように、己の在り方だけをひたすら追い求められればいいんだけどな。そうは行かない。


「じゃあ、なんでわたしをここに連れてきたわけ?」


 話が元に戻ってしまったが、もう一度説明し直す。


「最初に言っただろ? 頭を冷やしてほしい。出て行く、出て行かないの二択になっちゃったら、他に考えなければならない大事なことが全部下敷きになって潰れてしまうよ」

「これまでと同じように、ママと一緒に暮らせって言うわけ?」


 はあ……やっとスタート地点だよ。冷静に話し合い出来ていれば五分で済むのに。


「無理だ。それは無理だよ」

「え?」


 俺が、同居継続しろという提案をすると思っていたんだろう。興奮して顔を真っ赤にしていた有美ちゃんは、一転真っ青になった。


「え? え? だってそういうことだと」

「無理だって。今のままなら全員共倒れ。このかちゃんを巻き込んで、ね」

「……」

「仕事こなすだけでも四苦八苦してるのに、陽花の世話まで有美ちゃんが背負いこむのは絶対に無理だって」

「う……ん」


 よろよろと牧柵に近づいた有美ちゃんが、ロープをぎゅっと握ってぼろぼろ涙を流した。ふうっ……。


 しんどさを抱えられない有美ちゃんは、行く先々でそれを刺々しい態度と言葉で吐き出し続けてきた。ストレスレベルを下げるやり方としては最低最悪だけど、そうしないと心が保たなかったんだ。汚いげろを吐き続けたら、周囲の人が逃げるのは当たり前だよ。誰も有美ちゃんのしんどさを汲んでくれなかったと思う。


「汗も涙もただの塩水だけど、違うものだ。汗は暑けりゃ勝手に出るけど、涙は意識しないと出ない。厄介なんだよ」

「おじさん……も?」

「当たり前だよ。まだ涸れてないなあ。お袋も子供や孫も元気なんだから大丈夫だろみたいなことを、つらっという奴がいる。ぶん殴りたくなるよ」

「うん」

「親父や章子を失った空洞は、他の誰にも埋められないんだ。その空洞に涙が溜まる。勝手にね」


 本当のことを言えば。俺は、永遠の野原を訪れた日々を懐かしむことはまだできない。親父に連れられてここに来た幼い頃。そして、章子と一緒に子供たちを放牧に来た頃。どちらも全てのシーンが失ったものに直結しているからだ。俺は、それをすっかり過去にはできない。この野原が何も変わっていないから、なおさらな。


「なあ、有美ちゃん」

「うん」

「有美ちゃんだけじゃない。みんなそろそろ冷却期間が要るんだよ。目の前のことだけをこなして、遮眼帯かけたまま全力で駆け続けて来た。一度足を止めて、自分と自分の周りをしっかり見つめる時間がどうしても必要なんだ。人生ぶん投げていいならともかく、俺らはまだ生きて行かなきゃなんないんだからさ」


 目の前の野原を指差し、その奥にある見えないものを意識させる。


「この野原。有美ちゃんはお気に入りだったんだぜ」

「え? 覚えてないけど」

「ははは。そうだろなあ。でもここに来ると、いつもは忙しいと言ってかまってくれない陽花が、渋々だけど付き合ってくれる。陽花もガキの頃はここで遊び回ってたからね。まあ……童心に戻れたんだろ。わずかな時間だったけど」

「ふうん」

「そのわずかな時間が。どうしても要るんだ。景色ってのは立ち止まらないと記憶にも感情にも残んないから」


 牧柵の上に両腕を組んで乗せた有美ちゃんが、けだるげにもたれかかった。


「わたしは……何が楽しかったのかなあ」

「さあ。それはわかんない。俺も陽花もここで遊んで楽しかったというおぼろげな記憶しか残っていないんだ。どうしてかは忘れちゃう」

「同じかあ」

「でも、ここに来て楽しかったという思い出だけでも残れば。真っ黒けで汚くて目を背けたいもので埋まるよりずっとましだろ?」

「そうだね」

「だから。一度立ち止まった方がいい」

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