第3章ー2

 ――十五時、開場。


 正門の外にまで達した行列に、近隣住民からの苦情が入ったため、予定より十五分開場時間が前倒しとなった。長蛇の列が、春の訪れを待ちわびた生き物のように、ゆっくりと少しずつ動き始めた。黒のスーツに「音響祭実行委員会」と書かれた腕章を付けたスタッフたちが、懸命に整理券の半券をもぎっている。予想以上の客入りに対処するため、急遽、教員たちも、来客対応に駆り出され右往左往していた。


 ――十五時二十五分


 場内アナウンスが、開演五分前を告げた。ざわめいていたホールが静まり、期待を帯びた緊張感が会場全体を覆った。


 ――十五時三十分 開演。


 開演を報せるチャイム音が会場全体に響き渡った。学長の藤原響太郎 氏の挨拶の後、慧都クラシックコンサートのオープニングにもっとも相応しい演奏者、谷村泉が登場した。

 黒の燕尾服を身に纏い颯爽と舞台に登場した彼を、待ち焦がれていた聴衆は万雷の拍手で迎え入れた。彼の一挙手一投足は、どれひとつをとっても優雅で自信に満ち溢れていた。

 曲は、ラフマニノフの『アンダンテ・カンタービレ』〈パガニーニの主題による変奏曲 第18変奏〉。この曲は、ラフマニノフがピアノとオーケストラのために作曲した曲で、特に「第18変奏」はうっとりするような美しいメロディーから、単独で有名になり、映画やCMなどで使用されて有名となった作品だ。ラフマニノフ自身は、この「第18変奏」をピアノソロ用に編曲は残していないが、後年、著名な作曲家たちがピアノソロ用に編曲している。スポットライトを浴びた泉は、呼吸を整え、ピアノに向かって何かを語りかけると、ニッコリと微笑み、最初の一音を響かせた。その一音は、一瞬で聴衆を虜にし、俺や、渋谷ニナや、演奏者控室にいた優秀なピアノ弾きたちを絶望の淵に叩き落とした。泉の優しく美しい音色は、和音が増えるに従って豊かさをも表現し、オーケストラに引けを取らない壮大なメロディーを見事に歌い上げた。ピアノを弾くことの楽しさが泉の身体全体から溢れ出ていた。

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