君しか見えない

相心

君しか見えない

 これ、自分しか覚えていないだろうな――個人を形成するのは、意外とそんな記憶の積み重ねなのかもしれない。

 男はこれを『自我記憶』と名付けている。車窓から見た向日葵畑、修学旅行で見かけた片輪が外れた自転車、打ち切り漫画のモブキャラに回転する独楽。誰に話しても伝わらないし、脳内の映像を可視化して共有もできない。

 男は合コンの最中、そのようなことを考えていた。話は三日前に遡る。

 

「――つまらないな」


 男の友人である上野が原稿用紙を突き返してくる。ぬるくなった珈琲を口に含むと、男の書いた小説の欠点を列挙していく。

①「主人公とヒロインがかつて会っていた」という伏線が後出しすぎて、伏線になっていないこと。

②主人公の魅力がないこと。

③魔法名のセンスがないこと。

④悪役の行いが地味すぎること。

etc…


 たくさんの指摘を一気に受けた男は、待ったをかける。良いところはないのか、と。


「この内容で三万字も書いているところ」


 ストイックに書き続けていた過去を持つ上野の指摘は的を射ているが、あんまりではないか、とも男は思う。


「それとヒロインも微妙だな。男の理想が詰まりすぎ。サッチーさぁ、女に夢見すぎてない?」


 夢見て何が悪い、とぶっきらぼうに告げ、男も珈琲を勢いよく飲み込むが、苦い以外の感想は出てこない。ココアを頼んでおけばよかったと後悔が残る。


「夢と現実の違いにそろそろ気付くべきだ。合コンでも開くか」


 長身に整った顔立ち、洒落た眼鏡を掛けている上野は、異性との交流が多い。男は彼が合コンをしたいだけなのではないかと疑ったが、これも自分の経験になるのでは、と思い参加することに決めた。

 そして、今に至る。


「いや~、ソフトドリンクでごめんね。こいつまだ未成年なんでね」


 上野が男の肩に手を置く。


「えー、ウチらもお酒強くないから大丈夫だよ〜」


 ショートボブとひとつ結びの女性を加えた男女四人の会話は上野が中心で、ファッションや芸能、二千年問題の話と、淀みなく進行する流れに、男は相槌を打つ以外にできることなどなかった。

 途中、上野は男に話題の提供を求めた。彼なりの配慮だったのだろう。男は空気となっていた己の存在を卑下しつつ、先ほど考えていた『自我記憶』について語り出す。横で上野が苦笑いを浮かべつつ、女性陣を退屈させないよう、「覚えているのは、理科の授業でプレパラートを割りまくったことかな」と話を広げてくれた。女性陣も追随して、昨年の卒業旅行で危うく事故に遭いそうになったことや、友人の彼氏の眉毛が剃られ過ぎていたことで盛り上がった。


「何か二人ともたくさん知識持ってそうでスゴイね。私、本とかに触れる機会なんて授業くらいだから」


「俺も知ったふりして話してるだけだよ。ちなみにサッチーは絶賛執筆活動中」


 上野の親指が男に向けられ、好奇の視線が集まる。ウチみたいな馬鹿には書けないな〜、と短髪の女性の発言に、男は謙遜しつつ、語る。例え複数人が同時に体験した出来事を表現してみても、同じ文章になることはなく、創作は誰にでも可能なのだ、と。

 女性陣の一人はきょとんとし、一方は特徴的な笑い方をしていた。


「サッチーくんて、面白いね」


 こいつ面白いんだよ、と上野はひとつ結びの女性の言葉に便乗した。

 斯くして二時間ほどの会合は、互いの連絡先を交換して呆気なく解散する流れとなった。


「サッチーは、現実と虚構の面白いを混同しているよ。まぁ、勉強になっただろ」


 駅のホームで、上野は携帯を弄りながら男に語る。

①男たちの普段の会話は、他者からしたら興味がないこと。

②日常的でありきたりな話を散りばめていかないと、周囲から浮いてしまうこと。

 短い時間の反省会は、男が乗る電車の到着で終わりを迎える。しかし、現実を知ることでより一層、虚構が輝くこともあるのではないか。男はそんな疑問を抱きながら、吊革を掴んだ。



 上野からの指摘を数日掛けて整理し、男は作品の修正を始める。

 まずは主人公だ。魅力的な人物にするために、行動目的を深掘りする。読み手の共感を得られるような背景があったらいいのでは、と考える。悪役についても、「分かりやすく悪いこと」を描写するように修正する。しかし、ヒロインの修正点は見つからない。「主人公に対して温かく見守り、時に叱咤してくれる」人物像の何が問題なのか。装飾品でも増やして女性要素を補強して終わろうか、と思っていた時に、カフェのドアベルが鳴った。


「あれー? サッチーくんじゃん」


 髪を下ろし、トレンチコートに身を包んだ女性が和泉ミナコだと認識するのに時間を要す。特徴的な笑い方をする人物であったと記憶していたが、印象が全く異なっており、自信がない男は慎重に言葉を探す。彼女の目が原稿用紙に向いていることに気付き、恥ずかしさが込み上げる。


「本当に書いてるんだね、小説」


 まぁね、としどろもどろになりつつ、男は返答する。テーブルを挟んで男と対面する席に腰掛けた彼女は、店員に複雑な名前のドリンクを注文する。

 男は懸命に意識を原稿用紙に向ける。主人公の暗い過去を書くことは、憂鬱な気持ちになるが、今はふわふわとしている。沈黙に耐えきれなくなった男は、このカフェにはよく来るのか、と当たり障りのない質問をする。そこから会話はテンポよく進み、彼女はカフェ巡りが好きなこと、年の離れた妹がいること、初対面の相手だと静かになることなどが判明した。この前の合コンでは開示されなかった情報に、自分には雑談の能力があるのではないか、と男は錯覚する。

 なぜ小説を書くのか。

 シンプルで頭を悩ませる問い。男は上野からの指摘を思い出し、返答に躊躇するが、彼女は遠慮不要とばかりに続きを促してくる。

 表現の負担が最も少ないこと。語弊があるかもしれないが、映像や絵で表現するには数日から数年掛かる表現を、文字では数秒で表せる。当然、物語の構成や登場人物を一から作り上げるのは難しい。それでも考えを深めていくと、ある瞬間光が差すことがあり、それも一興。では全てが必然的であるかといえば、何気なく書いた文章が、偶然作品の根幹になることもある。そういった楽しさを感じつつ、自分の頭の中を世間に公表している時点で、変態なのかもしれない。ただ、人が古来より物語を紡いできたのは、単に子孫へ伝えるためだけでなく、自分の思想を共有、拡散したかったからだろう。時の流れに関係なく、幽霊のように揺蕩う存在。そうやって自分をこの世に繋ぎ止めたいのだ。


「ちょっとだけ、分かるかもな」


 男のまくし立てた話に対し、ミナコは自身の名字について語り出す。

 「いずみ」って発音のどこにも「和」の存在がないことに、疑問を感じていたんだよね。お祖父ちゃんから「和泉」の成り立ちを聞いても納得できなくて、モヤモヤってしてたんだけど、名前を尋ねられた時に「泉ミナコ」って解釈されることにも抵抗感があってさ。そんな時に、漢文の授業で読まれない漢字があることを知って、衝撃だったな。周りの反応との差にも驚いちゃった。そこで分かったんだよね。文字として人の目に晒すことでしか気付かれない「和」の存在が、自分を形作っているんだな〜って。一見無意味であるものにも、意味はあるんじゃないかなって。

 二人の会話が止むことはなく、原稿用紙は空白のまま日が沈む。


「邪魔しちゃってごめん。小説頑張ってね」


 カフェを出て、別れ際に告げたミナコの一言。

 男は無意識に彼女を呼び止める。自身もなぜ呼び止めたのか分からず、焦りながらメールを送っていいか、と確認する。女性の心情を知りたいのだ、と言い訳のように言葉を繋げると、ミナコは朗らかに笑い、快諾した。

 


 部室内で読み終えた上野は、ヒロインが以前より明るくなり、主人公の性格との対比が良い味を出している、と評した。


「キャラクターとしては変化が少ないんだけどな。合コンの経験が活きたか」


 半ば冗談のつもりで言ったのだろうが、男は図星なので口を噤む。

 上野からの課題は、「物語の締め括り方」だった。悲劇的とも喜劇的とも捉えられるラストに文句はないが、今のままでは読者の印象に残りづらい、とのことだ。


<印象に残っている作品の終わり方ってありますか?>


 大学からの帰り道、男はメールでミナコに尋ねてみる。あれから何度か連絡を取り、作品の参考にした部分もあるが、大半はたわいない話である。


<子どもの頃にみた、変なところで終わったアニメかな。名前は忘れたけど、驚いたから記憶に残ってる!>


 打ち切られてしまった作品なのだろう。それは印象に残るよな、と男の口元が自然と緩む。

 男の小説を読みたい、という旨のメールが届いたのは、それから数時間後のことだった。迷いもしたが、上野以外の意見を聞いてみるのもありだな、と納得させ、二日後に会う運びとなった。


「知っている人の作品を読むって、緊張するね」


 彼女がお気に入りだと語っていた、駅地下のカフェ。喧騒な駅構内にあるとは思えない落ち着いた雰囲気に、今後も通うことが男の中で確定した。原稿用紙の束を渡すと、ミナコは両手で受け取り慎重に手元まで引き寄せる。

 真剣な面持ちで彼女は用紙を捲り、大きな瞳がゆっくり上下に動いていく。一万字ほど読み終えたタイミングで声を掛けよう――男はココアを口に含み、店内の装飾品を見渡した後、自身も読みかけの文庫本を開く。

 当初の予定よりも読書に没頭した男は、鼻をすする音が聞こえたことで虚構世界の水中から顔を出す。その先に待っていた光景は、目を潤ませたミナコだった。頬を伝っていく涙が最後の用紙に落下し、滲む。男は身体を動かせず、上野なら自然にハンカチを手渡すのだろうな、と他人事のように考え、自分の不甲斐なさを恥じる。


「ごめん…何でだろう。この主人公がさ、悩んでいるところが…」


 上野ではない、目の肥えていない読み手だからなのか。感動と動揺の波が一斉に男に押し寄せる。前者は作り手としての思惑が届いていることへ。後者は彼女の心を傷つけてしまったことに。

 咄嗟に、作品が未完であることを告げる。驚いた彼女に、どういう続きであれば、読者の心が癒されるのか問う。

 愚行であることは、男も分かっていた。だが、この状況から正の方向に転換した終わり方にできれば、意外性があるかもしれないし、自身の創作活動の成長にも繋がる。そうした言い訳を積み重ねて、三万字の物語の続きを模索する。

 ミナコも男が無理をしていると察する。物語を引き延ばすことは望ましくないのではないか、と尋ねるが、男は否定する。

 この作品は、既に男だけでなく、上野とミナコが関わっている。ならば、どちらも満足させるように修正すれば、より良い作品になるのではないか。男は自分の欲深さに笑いが込み上げるが、すんでのところで押し殺す。


「二人が未来に希望を持った終わり方…とかかな」


 遠慮気味のミナコの意見を基に、主人公たちのその後を構成していく。魔法が使える舞台設定を利用し、登場人物を追加することで、その要望は実現可能なのではないか。男は走り書きしたメモをポケットにしまう。頑張りすぎないでね、と心配する彼女に、男は親指を立てる。



 上野に対する三度目の原稿の提出。男の中には、彼が「 面白い」と言う確信があった。

 一週間、男は既にできあがった物語への加筆に苦心し、厚みが増した原稿用紙の束を、ミナコは手に取った。

 主人公の復讐心を消さずに、勇敢さや優しさが垣間見える一面を描写し、ヒロインを立ち直らせ、希望のある終幕へ矛盾を生じさせず、違和感なく誘うこと。積み立てていく木は、少しのことで瓦解し、あるいは燃えてしまう。 

 大胆かつ慎重さが求められる中、男が紙とペン芯を消費し、現実と虚構の境界があやふやになりながら、何通りもの不正解をくぐり抜け、ようやく到達した境地。

 ありがとう。読み終えた彼女の一言は、男の疲弊した心に降り注ぎ、地面を潤していった。


「前のも良かったけど、私は今の作品の方がもっと好きだな」


 お世辞ではない、純粋な感想。彼女がそう言うのだから、この作品は面白い。きっとお酒を飲んでいる人は、このような高揚感が身体を包んでいるのだろう――男は、数日後に控えた成人を夢見る。ミナコは祝してくれるだろうか。二人で安い居酒屋に行って、冬の寒さをアルコールで凌ぐのも悪くない。中身のない話で盛り上がり、就活前に行ってみたい場所を語り合う。そのまま互いが互いの予定に干渉し合う機会が増えていくことを願うのは、強欲だろうか。男の脳内には、向日葵畑が色濃く映し出されていく。


「なんか…前よりも微妙だな」



 男が小学生の頃、千葉という教師がいた。彼は常に表情を変えず、担々と児童たちへの教育、指導を行っていた。声の抑揚も皆無で、喜怒哀楽に欠けており、児童には舐められ、教師たちからは呆れられているように見えた。

 そんな千葉を憐れんでいる男に転機が訪れたのは、学級新聞を作成する係になったことだった。行事で埋め尽くされる新聞だが、それでも余白が生じる。四コマ漫画も描かれていたが、男に絵心はない。ふと、普段「静」のイメージである千葉先生が回転したら面白いのではないか、と考えた。千葉に許可をとり、余白に書き始めた『千葉先生の回転』は、クラス内で人気となり、その話は半年ほど続いた。それが男にとって初めての創作であり、創作の成功体験でもあった。

 それから中学、高校では文化祭の演劇の脚本を書き、それなりに笑いをとった男が大学生で文芸部に入るのは、必然だったのかもしれない。

 上野との出会いは、新人歓迎会でのことだった。彼は図書館で借りたであろう本――題名は『欲望の現象学』だった――を脇に抱えていた。生真面目にソフトドリンクを飲み、学部やセンター試験の合計点が同じであることや、好きな映画も似通っており、親しくなるのに時間は掛からなかった。『もののけ姫』について独自の視点での感想は、男が本当に同じ作品を観たのか、と思うほど壮大だった。

 ネーミングは大事だ、と上野はよく口にした。

 作品に触れる機会は、一般人にとって受動的であることが多い。その傾向はインターネットが普及すればさらに加速するだろう。飽和したコンテンツの中で、人の目を惹きつけるには

①広告

②著名人の紹介

③イラスト

④タイトル

が挙げられる。小説家にとって直接携われるのは④しかない。故にネーミングは重要で、固有名詞を登場させただけで、共通の作品や架空の人物が人々の頭の中に具現化され、一時的な消費で終わらせない努力が必要、とのことだった。そこからソシュールの批判が始まったが、男はその詳細を記憶していない。

 彼は映画や小説だけに留まらず、幅広いジャンルの知識を持っており、男の中では身近で尊敬できる人物だった。



 世紀が変わった一年目の、海の向こうでの大事件。倒壊するビルと阿鼻叫喚の人々を画面越しに見ていただけの男は、残り少ない夏休みをどう過ごすかに傾注しており、別世界の出来事としか捉えていなかった。しかし、上野は違った。


「俺はもう書けないかもしれない」


 現実の衝撃が虚構を超えてしまった――とのことである。男は上野の嘆きを途中から聞き流していた。言語化はできないが、不快な気持ちが込み上げてきた。冷えた水を体内に取り込んでいるはずなのに、熱は一向に引かなかった。

 男はこの日、入学時から温めていた作品の執筆に取り掛かった。これまで上野から聞いた創作論も参考にした。

 両親を殺めた魔法使いへの復讐を企てる主人公。魔法学校で出会う仲間たち。実はヒロインの親が首謀者だった――ありきたりかもしれないが、見せ方で面白くなると信じていた。信じて疑わなかった。

 そして今日、終わりを迎えた。



 想定外の発言を耳にし、男の頭は真っ白になる。


「前回のラストに加筆したみたいだが――」


①主人公とヒロインの恋愛描写がくどいこと。

②モブキャラが主人公を囃し立てているだけなこと。

③ご都合主義が目立つこと。

etc…


 今までなら納得できた上野の指摘が、響いてこない。男の表情に気付いたのか、暫しの閉口。珈琲をすする音が大きい。


「…すまんな。もう書いてない人間がいろいろと言い過ぎた。サッチーの作品は悪くない。部誌に載せる作品としては高い水準だと思う」


 男は無理に作り笑いを浮かべ、原稿用紙を回収して外へ出る。三十分ほど歩いて、首元が寒いと感じ始める。マフラーを巻き忘れていたが、引き返す余力はない。高層ビルの隙間から見える灰色の空に、白い息を吐いた。

 自宅に着くと椅子に座り、微動だにしない。一体自分はどこで間違えたのか、どこで心境が変化したのか――男は原因を探るが、同時に勘付いてもいた。自分の読んでほしい対象が上野からミナコへと移っていたことを。あの涙から全てが変わってしまったことを。

 どうしてあの時彼女は泣いてしまったのだろうか。男は机に額を当てる。それさえなければ、指摘を基に執筆活動を行えたはずだ。しかし上野への対抗心が消え、ただ満たされた気持ちだけが残る。書く理由がなくなってしまい、自分は誰かに作品を認められたかっただけなのだと、男は気付いてしまった。

 覚えたてのアルコールは、想像より気持ちが良いものでなく、苦い味が口を支配するだけだった。世界がぐらつき、頭の中を無数の思考が交叉し、トイレに駆け込んだ。

 便器を眺めながら、上野が語っていたサルトルの作品を思い出す。

 俺たちは偶然性から逃れたくて、創作に縋っているだけなのかもね――そう語った上野に対しての苛立ちが募り、壁を殴りながら嘔吐した。

 年末で浮足立った世間の雰囲気とは正反対の感情が、男の中で渦巻く。大学の休業期間より早めの冬休みを選択し、体調が悪いという理由で実家への帰省を断り、ミナコからのメールにも素っ気ない返信をした。頭痛に襲われながら原稿用紙に触れるが、シャーペンの芯は消費されそうにない。

 尾仲シロウ――中学生の頃に読んだ打ち切り漫画のモブキャラ。友達の間では笑いのネタとしてよく登場した。男は表面上笑っていたが、心の奥底では、「これは未来の自分なのではないか」と怯えていた。

 己の不甲斐なさを他人にぶつけ、好意を抱いていた女性に正面から向き合えず、虚栄心で己を満たすしかなかった人物。結局女性に振られ、職を失ったところで漫画は終わり、シロウの人生はそこで止まっている。不思議と『山月記』に登場する李徴には何も感じなかった。その差は何かと考えれば、才能の有無か。

 やはりあの時の予感は当たっていたのだろう。男は鏡を見て、シロウのことを考える。

 千葉先生はあの新聞記事を嫌がっていたのではないか。演劇の脚本だって、誰もやらないから立候補しただけだった。周囲が男に掛けた言葉は、お世辞だったのではないか。『自我記憶』については、一般的にある思い出話として消費された。「面白い」は酷く曖昧で、拘泥するものではないのかもしれない。相手が聞き上手なだけなのに、調子に乗ってべらべらと喋った。現実は優しくなく、だからこそ虚構は輝く。輝いていた。だが、今は――。



 尽きる貯金。失う住居。飲食店近くのゴミ袋には烏。最後に髭を剃ったのはいつだったか。萎れた向日葵は首を吊った人のようだ。こうなったのも全て自分を認めない世間が悪い。路上ライブはうるさい。夢が叶うのは死んだ時だ。上野が悪い。政治家の演説も耳障りだ。人気投票は茶番だ。ミナコも悪い。清掃活動は自己満足。友人も、千葉も、創作も、全部悪い。公園では男女がイヤホンを共有している。痰を吐きかけてやろう。皺だらけの手に持ったのはシャーペン。原稿用紙は異様に黄色く、端から黒く変色していく――。



 二十一世紀の二年目。紙屑と空き缶が占領する部屋。インターホンの音で男は目を開ける。居留守も考えたが、何度も訪問されるのは億劫だと思い、ドアを開ける。今会いたくない人物との対面に、ぼさぼさになった頭を掻く。

 上野から住所を聞いたミナコは、年末にかけてメールの返信が遅く、内容もおかしくなっていく男の状態を確認したかった。

 口早に体調が悪くないことを告げ、男は扉を閉めようとする。隙間から呼び止める声。


「あの…あの作品は、部誌に載るんだよね?」


 男の所属する文芸部では、新年度に合わせて部誌を発行する。立候補者の作品は、部員同士で読み合い、最後に投票で掲載が決まる。

 しかし、所詮は上野に認められなかった作品だ。捨てることを示唆する発言を男がすると、ミナコの語気が強くなる。


「なら、その原稿ちょうだい」


 普段の温厚な雰囲気との違いに、男は狼狽える。そこまでの価値があるのか。


「言ったじゃん、私は好きだって。世の中にいろんな作品があるけど、作者の人柄とかさ、どれだけ苦労して書いてきたかも分かるのは、サッチーくんだけなんだよ。だからさ、本意じゃなくても捨てずに掲載してほしいんだ」


 手袋を外し、強引に握られる男の手。少しの温もり。小指同士が絡み合い、ブンブンと振り回される。

 約束ね、と告げる彼女の表情は、子どもをあやす母親のようだと男は感じた。それから食生活と睡眠の重要性を説いたミナコは、玄関を後にした。



 エアコンの稼働音だけがする部屋。机の上の空き缶を片付けると、意味がないことと思いつつ、男は原稿用紙に穴が空くほどの筆圧で文字を書き殴る。けれど、意味とは何かを説明できる人がどれだけいるだろう。馬鹿な主人公が、才能もないくせに己の作品を周囲に見せびらかし、悦に入るが、現実に打ちのめされ、女の子にあやされる話。要約すれば、酷い話だ。

 しかし勢い任せは続かない。支離滅裂な文章に時間軸の滅茶苦茶さは見るに堪えず、男は紙を丸めていた。創作は自由だが、自由の中にも制約がある。それを破ってまで書くことは、男にとって許せないことだった。各々、そうした自分の内に秘めた規則がある。それだけのことなのだ。ただ、男の思考が幼稚であった、それだけの。自分がただ世界に存在していることを感じる。視界は文字で埋め尽くされ、現実と虚構は混ぜ合わさって溶けていく。

 これが、哀れな男――坂下コウキの物語だ。




 ◆




「んはは〜。良いもの読みましたわ〜」


 くしゃくしゃになった原稿用紙を肴に、アルコールを摂取する妻は上機嫌だ。

 話を聞くと、本棚の隅に隠れていたところを、娘が見つけたらしい。こんなこと言ったっけ、と酔い混じりの発言を、僕は受け流す。

 数年前に自暴自棄で書いた黒歴史。これを最後に、僕は創作をしていない。映画やドラマはたまに見る。小説や漫画も読んだりする。けれど、あの頃に比べて作品に対する距離は遠くなった。


「上野くんって、今どうしてるんだろうね」


 大手出版社に勤めながら、今も創作活動に取り組んでいるらしいよ、と伝えると、妻は「へ〜」とだけ発し、空き缶のプルタブを外す。話題を提供した割に、関心が薄いのはどうなのだろうか。


「なんかイメージ通りだね」


 結局、上野はあれから半年ほど経った後、執筆活動を再開した。「面白いものを思いついてしまった」と興奮気味に語る彼を、僕はどこか冷めた感情で祝福した。創作活動に意欲的な人物というのは、時間の差はあれど、再起する足腰があるのだろう。

 一方で部誌に作品を載せた後の僕は、後輩たちの作品を読むだけになった。助言を求められることもあったが、誤字脱字を教えるくらいで、徐々に顔を出す機会も減った。

 ソファを独占している娘を見つつ、絨毯の上に胡座をかく。テレビでは海の向こうの銀行が経営破綻したことを報じている。

 明日の天気を確認し、傘の準備が必要だと知る(たまに晴れていることに気付かずに傘を差したままの人を見ると、なぜか風刺画のように感じる)。昼時には止んでいるといいのだが(A国では、雨が降ることが日常でした)。止んでいたら、最近できたラーメン屋に寄ろう(国民も傘を差すのが当たり前になっていました)。夕方は得意先の島田さんと打ち合わせか(ですが、今では雨が降ることの方が珍しくなりました)。世間話が長いから、早めに切り上げられるようにしないと(それでも国民は傘を閉じようとはしません)。牛乳が残り少なかったな(傘は外出時の必需品になっていました)。帰りにスーパーで買っておくか(それで得する人がいるとも知らず、今日も人々は傘を差します)。


「明日、ゴミ出しお願いね」


 食器を洗い終えてリビングに来た妻の声に反応し、親指を立てる。

 そう、僕は現実に落ち着いてしまった。あの情熱が再び戻ることはないだろう。尾仲シロウは今でも頭の片隅に存在している。彼と共存しながらも、僕はこの偶然が連鎖して手に入れた幸福を維持していくと誓った。目の前の小さな命の重みが、僕の心を潤す限り。


「なぁ、ユウ」


 いつの間にか腿の上に居て収まりのよい場所を探していた娘は、きょとんとした顔でこちらを見つめた。






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