第6話 1月18日③ ~隠された本音~

 思い起こすと自分の前で一度だけ、夕飯を作れなかったと言って、ソファーに座っていたときがあった。

 年末──。

確かあれは仕事納めの日のことだ。


 会社の人間から飲みに誘われたが、断って帰ってきて食事がないと聞き、普段なら怒ることでもないのに、やけに感情的になって文句を言った記憶がある。


 瞳を左右に動かす武尊は、心当たりのあることを思い起こす。


 あの日以降、美里は自分の前で「しんどい」という言葉を口にすることもなかったし、週末家にいるときは、午前中から夕飯の支度をするくらい時間をかけて食事を作っていた。


 だが今にして思えば、手の込んだ料理を作っていたわけではない気がする。あらかじめ野菜を切っておいたり、途中まで作業を終えていたり、料理を分割していたにすぎない。


 自分の妻は、何も言わなかっただけで、異変を感じていたのかもしれないと青ざめた。


「妻は助かるんですよね! お願いします。美里を助けてください。彼女が居ないと……俺は……」


「私は婦人科の医師なので、原発が乳がんと判明したので、別の科の医師に引き継ぎますから」


「そんな……主治医が変わるなんて、俺にはわけがわからない」

 武尊が頭を抱えたまま、遠い目をする。

 ぼんやりしたまま反応が亡くなったため、主治医がこのままでは埒が明かないと、話を進めた。


「旦那さんは気をしっかり持ってください。これからご本人にもお伝えするので、ご家族が動揺していると、本人が何も言えなくなりますからね」


「い、いや、でも美里は少し前まで何も症状がなかったんです。それがどうして進行がんだって……。一緒に子どもを作ろうって言ってたくらいなんですよ」


「若いので進行が速いのもあると思います。細胞分裂の活発な世代は、できたがんが急激に進行しますので」


「もしかして、昨年のうちに受診していたら違ったんですか!」


「そうかもしれませんが……それは、誰にもわかりません」


 考え込む武尊を見つめる医師は、最後に念を押す。


「奥様が、この先の妊娠のことをとても気にしているんですが、化学療法を始めると原子卵胞という細胞が減ってしまうので、将来的に排卵がなくなるため妊娠は望めなくなります」


 あまり理解のできなかった武尊は、はぁと気の抜けた返事をした。


「こちらとしては治療を優先していきたいのですが、ご主人は将来の家族計画について、どのように考えていますか?」

 その質問は、考えるまでもなく答えが出ていたことだ。

 そう思う武尊は、前のめりに返した。


「別に子どもはいらないと思っていたから気にしません」

 美里は妊娠を希望する三十五歳という年齢だ。


 治療を始めてしまえば、美里の妊孕性を失う可能性が高い。

 そのことに少しの躊躇いもないという夫の意見を確認した医師は、「わかりました」と大きく頷いた。


「お、俺は、どうしたら──。美里がいなくなるのなんて、耐えられない。む、無理です……ぜ、絶対に助けてください」

 急に立ち上がると、机に両手をついて前傾姿勢に訴える。


「申し訳ありませんが、ご主人の動揺が大きいので、このあとは本人と二人でお話をしますね」


「ま、待ってください。それは嫌です。俺も一緒に聞きます」

 申し訳なさげな顔を浮かべる武尊は、ゆっくりと腰を下ろして、小さな声で伝えた。


「取り乱してすみませんでした。もう大丈夫ですので、同席させてください」


「わかりました、美里さんをご案内しますから、この部屋で待っていてくださいね」

 武尊がコクンと小さく頷いた。


 その仕草を確認した医師は、同席している看護師に美里を呼んでくるように促した。


◇◇◇


 それから間もなくして、看護師に案内された美里が部屋の扉を開け、中にいる武尊の顔を見て目を細める。


「来てくれたんだ! 時間になっても来ないから、仕事を休めなかったのかと思ったんだけど、わざわざありがとうね」


「ああ、まあな」


 休みくらい取れると続けようとしたが、結婚記念日の会話を思い出した彼は口を噤む。


 一度退席していた医師が再び入室してきた。

 武尊にとってはデジャブのような説明を、美里の横でじっと聞き入っている。


「では、すぐに治療を開始しますね」

 と言った医師が、治療の同意書を美里に書かせようとしたところで、ずっと静かに頷くだけだった美里が、堰を切ったように口を開く。


「私、自分の子どもが産めなくなるのは嫌です。何とかなりませんか、先生?」


 自分が進行がんだと告げられた直後にもかかわらず、美里はあっけらかんと、そんな言葉を発した。

 予想外の反応に返す言葉のでない周囲の人間は、一斉に美里の顔を覗き込むように見ていた。


「だって、お薬で治療をはじめると、この先、自分は赤ちゃんを産めないってことですよね。それなら治療なんてしたくないです」


 想定外の言葉を聞いた武尊は妻の顔を見つめたが、彼女は一切気にする様子もなく、まっすぐ医師だけに視線を向ける。


 真剣でぶれることのない視線。彼女から強い意志を感じた医師は、説明を始めた。


「治療を開始する前に、あらかじめ受精卵を保存しておく方法はありますが……」


「それなら私は先に受精卵を保存したいです」


「それを選択すると、治療を始めるのは二~三週間先になってしまいますよ」


「いくらでも待てますので、お願いします」


「勝木さんの病状からすると早く治療を開始した方がいいと思いますが」


 医師が言いにくそうに告げたため、美里の考えを訂正しようと考えた武尊は、水を差した。


「先生もこう言ってるんだから、子どものことはいいから、早く治療を始めよう」


 焦り気味に伝えた武尊とは裏腹に、笑顔を浮かべる美里が彼を見て言った。


「だって私、今はどこも調子が悪くないもん、3週間くらい待っても大丈夫だよ」


 その言葉を聞いた医師が、美里の気持ちを優先するように治療法を提案した。


「勝木さんは、ご自身のがん治療の前に受精卵を保存しておきたいということですね」

 美里は同意を示す。

 それがあまりにも深い頷きだったため、受診が遅れたのは自分のせいだと思う武尊は、何も言えずに受け入れるしかなかった。

 無事に美里の治療が進んだあとに、子どもを授かれる希望があるのは、いいのかもしれないなと思う彼もいたのは確かだが、早く治療をして欲しいというのが本音だった。

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