第2話 - 弓月 Kazuki

弓月はバス停へ向かう途中、自分の神経がすっかり張り詰めているのを感じていた。

不安が胃を締め付け、歩みを進めるたびにその重圧がさらに増していくようだった。


一つの考えが頭から離れない彼らは自分に何を求めているのか?その朝に受けた電話は短く、そして不気味だった。金属的で無機質な声が、誰にも知られずに政府の建物へ来るよう命じてきた。こんな状況に自分が陥るなど、想像もしていなかった。


バスが首都、夜葦よるあしに向かってゆっくりと進む中 、弓月は窓の外を見つめていた。破壊された建物や瓦礫で散らばった通りは、崩壊した世界そのものを映し出していたが、弓月の目に映っていたのはただ一つの顔下月の顔だった。彼が全てを知ったらどう反応するのだろうかと考えたが、その思考を振り払うように頭を振った。揺らいでいる余裕はなかった。下月は弓月にとって全てであり、彼を守るためなら何だってする覚悟だった。


政府の建物に到着すると、弓月は果てしなく続くかのようなセキュリティチェックを受けた。スキャナーや検査のたびに、自分が完全に彼らの支配下にあるという事実を突きつけられたようだった。その思いに、寒気が背筋を駆け上った。ついに総監の部屋へ通じる重厚な金属の扉の前に立ったとき、心臓の鼓動は狂ったように早く、そして大きかった。扉が開く電子音が鳴り、弓月は喉の奥に引っかかるような緊張を抱えながら部屋に入った。


彼女を迎えた部屋は広々としており、冷たい空気が漂っていた。人工的な整然さを感じさせる家具が並び、その中でも特に目を引くのは巨大なプラズマテレビだった。

画面には軍のロゴが映し出されており、それは赤い旗の上に交差するロボットの武装した腕と人間の武装した腕が描かれたものだった。

部屋の主である総監は、その部屋の雰囲気に完全に溶け込んでいるように見えた。痩せ型で背が高く、黒髪をきっちりと撫でつけ、鋭い緑の目で弓月を見据えるその姿は、威圧感そのものだった。

彼の軍服は一分の隙もなく整っており、数多くの勲章が付けられていたそれが正当なものとは到底思えないほどに。右手には銀の先端が付いた黒い杖を持ち、その姿は彼自身の威圧感をさらに強調していた。


「弓月。」総監は目元の笑みを欠いた冷たい微笑みを浮かべながら言った。


その声は遠くから響く低い音のようだった。「ようやく会えたな。」


弓月は緊張を抑えながら一歩前へ出た。「あ、あなたは誰ですか?」ようやくそれだけを口にすることができた。


「私は総監だ。扉に書いてあっただろう。」彼は少し首を傾けながら答えた。「そして軍の総指揮官だ。」


弓月はごくりと唾を飲み込み、その鋭い視線の下で自分がどんどん小さくなっていくように感じた。


「座れ。」総監は黒い革のソファを指さし、命じた。弓月は反射的に従い、彼から目を離すことができなかった。


「なぜここに呼ばれたのか、不思議に思っているだろうな。」総監は言いながら、窓際へゆっくりと歩いた。


破壊された街の風景を眺めるその姿には、奇妙なほどの満足感が漂っていた。「答えは簡単だ。君と下月は特別だからだ。」


背筋に冷たいものが走った。「特別…?何のことですか。私たちは…ただの普通の人間です。」


「普通だと?」総監は皮肉な笑みを浮かべながら言った。


彼は弓月の方を振り返り、その緑色の目は恐ろしいほどの光を帯びていた。


「弓月、君も下月も普通ではない。我々は長い間、君たちを監視し、研究してきた。君たちの能力、その潜在力…君たちは唯一無二だ。」


「何を言っているのですか?」弓月は声を震わせながら問い返した。「私たちは何も特別なことなんてしていません。なぜ私たちなんですか?」


総監は彼女に一歩近づき、その場に立ち止まった。「まだ全てを明かす時ではない。」穏やかな口調で言った。「だがこれだけは覚えておけ。君たちの役割はこの街、そしてこの国の未来にとって不可欠だ。君たちなしでは我々の計画は完成しない。」



弓月は信じられない思いで総監を見つめた。恐怖と混乱が入り混じり、喉の奥に鉛を飲み込んだように感じた。


「でも、私たちは…何もできません。私はただの…ただの普通の人間です。」


「自分を過小評価するな。」総監は首を少し傾けながら答えた。「君は自分が思っている以上の存在だ。そして、それをすぐに知ることになるだろう。しかし今は、我々を信じてもらう必要がある。協力することが君と下月のためになる。」


彼の最後の言葉に、弓月の血の気が引いた。「それはどういう意味ですか?」パニックに駆られた声で問いかけた。


「それは君の行動次第で下月の安全が決まるということだ。」総監は冷たく笑いながら答えた。


「我々の指示に従えば、彼には何も起きない。しかし、従わなければ…彼がその結果を最悪の形で知ることになるだろう。」


冷静で抑揚のないその声は、大声で怒鳴られる脅迫よりもはるかに恐ろしかった。弓月は息が詰まるように感じた。

部屋の空気が急に重く、呼吸が苦しくなったようだった。総監はグラスに水を注ぎ、それを弓月に差し出した。彼女はそれを丁重に断り、目線をそらした。


総監は無表情のまま、グラスをテーブルに置いた。


「君の慎重さには感心する。しかし、忘れるな。君はこれから厳しく監視される。数日以内に新たな指示を受け取るだろう。その任務は完全な秘密を要求するものだ。もしも与えられた指示に背こうとすれば…」彼は振り返り、鋭い目で弓月を見つめた。「…君と下月には不幸な結果が待ち受けているだろう。」


弓月は目を伏せ、衝動的な言葉を飲み込むために唇を噛んだ。「…分かりました、総監。」かろうじて震える声で答えた。


総監は満足そうにうなずき、ソファに戻った。「良いだろう。では行け。忘れるな、君の一挙一動は我々に監視されている。英雄になろうなどと考えるな、弓月。それは決してうまくいかない。」


弓月は立ち上がり、軽く頭を下げて部屋を出た。金属製の扉が彼女の背後で閉じる音が響く中、彼女は以前通った白い明るい廊下に戻った。床に描かれた緑色の矢印が出口への道を指し示していた。

二人の兵士が無言のまま、彼女をエレベーターまで案内した。


エレベーターの中で、弓月は胸の中で渦巻くパニックを抑えようとした。一筋の汗がこめかみを伝い、呼吸が浅くなるのを感じた。

そして、それは突然やってきた閃光。血に染まった地面に倒れる自分、左目に襲いかかる激痛。そのすぐそばに、自分の眼球が床の上で転がっているのが見えた。叫び声耳をつんざくような悲鳴が重なり合い、彼女を純然たる恐怖の中へと引き戻した。閃光はますます激しくなり、音は大きくなり、頭の中に響く高音がすべてを支配した。しかし、その悪夢を断ち切ったのは声だった。その声には聞き覚えがあった。弓月を執拗に呼び続けるその声が。


「弓月! 弓月!」そして、突然すべてが消えた。


気づけばエレベーターの中だった。脚は震え、額には冷たい汗が滲んでいた。深呼吸をして落ち着こうと努めた。地上階に到着すると、兵士たちは無言のまま彼女を解放した。


政府の建物から外へ出た弓月は、その巨大な建物を見上げた。多くの窓の中から、総監のオフィスがある場所を見つけた。

そこには彼の影が映っていた。動くことなく、じっと彼女を見下ろしていた。その冷たい視線に弓月は震え、背筋が凍るようだった。


バスには乗らず、歩いて帰ることにした。冷たい夜風が彼女の混乱した頭を少しでも整理してくれることを願って。家への道すがら、渦巻くような思考が彼女にまとわりつき、疑念と恐怖の嵐は一向に収まる気配を見せなかった。

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