時代おくれの魔術師

碧美安紗奈

第1章 ノーバディ創世記

「あらゆる科学は形而上の問題を説明しておらず、その全てにおいて、根本の原理が不明な魔法である」

  ジョイス・メイフィールド


   ◆


 我に返ると、蒼い夜だった。

 夢でも見ていたかのようだ。といっても、もう内容を忘れたが。

 とにかく、涼しくて心地いい季節だ。

 梢の合間から覗く名月に照らされた小島の砂浜にいて、吹き寄せる風が漣を足元に運んでくる。どうやら立ったまま眠っていたらしく、我ながら器用さに感心した。

 確かここは、紀炎海峡に浮かぶ無人島の群れの内のひとつ、神島だ。

 おれはやたらと視力がいいらしく、月明かりが豊富とはいえ、見えすぎるくらいに辺りがよく見える。

 自分は夜行性の獣だったかなと水鏡で確認すると、生粋の日本人がいた。

 歳はせいぜい高校生くらい。体格は中肉中背で、けっこうな優男。黒髪は短くひげはない。

 身体を改めると神主のような衣冠を着用していて、そうしたことを認識できるだけの知識も湧いた。

 けれどもそこまで理解して、あとはひたすら愕然とした。


「誰だ、おれ?」


 自分に関する記憶がないのだ。

「なるほど」

 不意に、そんな哀れな彼の背後に女の声が生じた。

「ここまで消耗すればあたいで充分ね」

 振り返ると、十歩ほど離れたところに外国人がいた。

 琥珀色の瞳を持ち、栗色の髪をセミロングにした白人少女。同い年くらいで、美人だがちょっと痩せぎすな印象を与える。衣服のように繋げた狼の毛皮を纏い、真鍮の握りがありルーン文字を刻んだトネリコの杖を手にしていた。

 どういうわけかこの闇夜でそうした見分けを付けられた彼だが、彼女が何者かまではわからなかった。


「ええと」だから試しに、とぼけた口調で問うてみる。「誰なんですかね。おれも、君も。もしかして友達だった?」


 そこで、恋人だったかもとの危惧が脳裏を過ぎった。慌てて愛想笑いもおまけに付けたが、相手は真顔で口答した。

「知る必要はないよ、あんたは〝誰でもない者ノーバディ〟なんだから。どうにせよ、また消えるんだしね」


「ユーモアは通じそうにないな」

 変なあだ名を付けられて、そんな感想を洩らしてしまう。ちなみに少女の言語はノルウェー語だったが、内容も意味も理解できた。どうやらなかなかの語学力があるらしい。


 さておき。

 この瞬間。もし今後も生きれて名前も思い出せないままだったら、ノーバディとでも自称しようと彼は決心した。

 あくまで、ここを切り抜けられたらだ。

 なにせ、相手の発言に従えば消されようとしてるらしいのだから。しかも彼女は狂気に満ちた笑みで、杖を掲げだしている。いかにもる気満々で、とてもじゃないが無事で済まされそうにない。

 やっぱり彼女とは恋人同士で浮気でもやらかして修羅場に発展した挙句殴られ、記憶がぶっ飛んだりしたんじゃなかろうか。

 なんて危惧の末に、


「あ、あのですね。あれはたぶん誤解なんだよ。なんだか知らないけど、あの女性は友達で……って違う?」

 想定をもとに弁解したが、反応はイマイチだった。

 彼女が首を傾げた、刹那。


「〝臨兵闘者皆陳列在前りんぴょうとうしゃかいちんれつざいぜん〟!」


 第三の声が天から降った。

 九文字のまじないと九種の印を結ぶ破魔の修法、九字くじ。うち素早くできる、拳より人差し指と中指を伸ばす刀印で一文字ごとに空を切る早九字はやくじだ。

 どういうわけか白人少女の周囲で砂煙が巻き起こる。突風に押されたように彼女は仰け反り、苦悶して数歩後退した。

 さらに九字を発したらしき人影が飛来して、ノーバディの前に着地するや、少女を睨む。

 顎に蓄えた長い白鬚が風に靡いて背後からでも窺えた。白髪を生やし、着衣から露出した肌の皺は老人だということを物語っている。でなければ、そんな印象は持てなかったろう。

 なにせ彼の姿勢は真っ直ぐで、若々しいからだ。葛の衣を纏い、頭巾を被り、一本歯の高下駄を履いた修験者のような日本人。


「ははーん」

 ノーバディは苦笑いした。

 おそらく自分はスタントマンかなんかで、映画かドラマの撮影中に不慮の事故で頭でも打って記憶喪失になったんだな。と踏んだからだ。

 だってあんなもんで人が影響受けるわけないし、女の子ならまだしも爺さんが空から降るはずもない。だいいち、みんなこの二一世紀始めに時代錯誤も甚だしい格好だ。

 というわけで、クレーンかなんかの仕掛けを探そうと周囲を見回したが、――んなものどこにもなかった。


「この験力げんりきね」

 体勢を立て直した少女が中二っぽいことを呟く。次いで彼女は、程よいふくらみの胸に手を当てた。

「あたいはフレイディス・マグヌスドッティル。ハラルド美髪王の子孫だったエイヴィンド・ケルダの娘だよ。あんたは?」

 フレイディス・マグヌスドッティルなる舌噛みそうな名前に覚えはないが、エイヴィンド・ケルダはノーバディにも肖像を喚起できた。北欧の魔法使いだ。


「拙僧は、賀茂役君小角かものえだちのきみおづぬと申す者だ」

 他方、修験者もフレイディスと称した相手に名乗る。

えんの小角、役行者なの? この国の大物だね」

 爺さんは日本語なのに、会話は通じてるようだ。さすがフィクション。

 もっとも、フレイディスの驚きにはノーバディも共感した。


 役小角といえば、様々な大呪法を修め修験道の開祖になった伝説の人物だからだ。どうやら、そういう設定の映画かドラマの撮影らしい。

 北欧の魔術師と極東の修験者の対決とは狙ったミスマッチか。でも監督やスタッフがいないってことはリハーサルかな。爺さんが飛んできたように錯覚したのは、たぶん若い頃棒高跳びのオリンピック選手かなんかで、ポールでも使ってたからだろう。そんな棒もないようだが、細すぎて夜中じゃこの目でも発見できないんだな。うん。

 まあ、これ以上不幸を知らずに練習を続けてもらっちゃ可哀相なんで、止めてあげよう。


「あの~、お二人さん」そんな気遣いでノーバディは口を開いた。「とっても重要なことをお伝えしたいんだが。たぶん、おれは頭を打って記憶喪失になっちゃったらしくて――」

「こいつは期待できそうだね」

 フレイディスはしかとして、小角に向けて微笑んだ。

「さあ、あたいを殺してちょうだい!」

 ドMなことに、懇願するや彼女はトネリコの杖を掲げ、満月を仰いで歌いだしたのだ。


「〝オーディン フリッグ ティール トール シフ バルドル ナンナ フォルセティ ヘルモーズル ヘル ヘイムダール ブラギ イズン フレイル フレイヤ〟」


 北欧の神々の名前だ。

 そう認識したノーバディだが、詠唱の並びに別な意味を感じた。たぶん嫌なものだ。


 勘は当たっているようで、役小角は身を固くして振り返り、電波なことを尋ねてきた。

「貴殿は飛行術を会得しているか?」


「も、もういいから、やめにしないか」

 真剣な爺さんが痛々しくて、少年は飛ぶでなく笑い飛ばす。

「これ芝居かなんかの練習だろ? おれ、たぶん事故って記憶なくしちゃったみたいでさ。んなことしてる場合じゃないんじゃないかと」


 すると小角は怪訝そうに屈み、両手を後ろに差し出してきた。

「乗れ」

「は?」

 なんでお年寄りに若者がおんぶされにゃあならんのか。

 どうも関係がつかめない。とりあえず彼は年長者だろうからと口には出さずに内心で毒づくノーバディだが、老人は語気を荒げた。

「負ぶうと言っておるのだ。急がねば面倒なことになる」

 顎をしゃくって役行者が少女を示す。

 そちらを窺えば、フレイディスが不気味に脈動していた。


「〝――オーディン フリッグ ティール トール シフ バルドル〟……ウッ、……ウウウッ、ガゥッ!」


 呪文を反復する声が言語を失い、唸りへと変じる。

 狼の毛皮から露出するフレイディスの素肌までもが、いつしか獣の剛毛を生やしていた。

 革靴を突き破った足と杖を投げ捨てた手には鋭い爪が伸びている。目は釣り上がって光を放ち、口は裂けて鼻が前に張り出し、まもなく完全な狼となった。


「アオ――――――――――ン!」


 ついに彼女は月光を仰いで遠吠えを上げ、大気が震えてノーバディは戦慄した。

「な、なんじゃこりゃぁああぁ~~~~ッ!?」

 昭和なみにすごく古いリアクションだが仕方ない。

 CGでなきゃありえない特殊効果じゃ、さすがにもうごまかせない。あんなビックリ人間は、やたら自分以外の記憶はあるらしい彼の脳内検索でも狼女としか形容しがたい。でなきゃ夢か幻だろうがどうでもいい。


 生命の危機だ。


 たまらず小角に従うと、乗せるなり老人は跳ねた。

 少年は冷や汗をかいた。跳躍でなく飛翔だからだ。

 低い雲に紛れて高らかに飛ぶ背中からは、神島の満身が望めさえする。そのまま、僅かな海を越えて和歌山市の灯へと落下した。

 ふわりと道路に着地した小角からノーバディが降りると、鉄板を叩くような音がした。

 音源を眺めると、岸辺に停泊する漁船が揺れている。艦橋上にはあの黒い四足獣がまたがり、二つの眼光を煌かせていた。


 追ってきたのだ。


「ただの狼ではないな」

 役行者は呟く。

「貴殿を担いでも飛べるが、振り切れそうにない。追われていれば仲間を誘き寄せ、厄介なことになる。ここで退けておく、隠れておれ」

 指図した小角が人狼と対当した。

「冗談よせ爺さん、日本にもういないはずの狼だぞ! 普通じゃない!」

 いちおう意見したノーバディだが、狼は体当たりで甲板を真下にぶち抜いた。


 唖然。


 次いで船体が少年と老人の方にぶっ飛んでくる。よくよく観察すれば、船底まで貫通した人狼が頭突きで持ち上げ、ぶん投げたようだった。

 んなもんを視認したノーバディは、情けないことに道路を反対側へと逃げだしてしまった。

「爺さん、あんたは飛んで逃げろ!」

 せめてアドバイスする。

 そうだ、あの爺さんは宙に浮ける。んな真似できない方が獲物として都合がいいはずだ。だいたいあれに変身したフレイディスとかいう少女は、最初ノーバディを狙った。

 そもそも彼が助言のため僅かに見返った短時間でも、降ってくる漁船をどこから入手したのか金剛杖で真っ二つにする爺さんが確認できた。あんな化け物たちに付き合えそうもない。


 どう進みなぜそうしたかは不明だが、少年は逃亡途中で闇に浮かぶ朱塗りの大鳥居を発見し、潜る。傍らに整列する土産物屋たちを横目に石畳の参道を進んだ。

 そこで、奇妙な感覚を得た。

 一歩行くごとにそいつは臓腑を締め付けるように胸元に広がり、短い階段を上りきったところで違和感の主に相対した。


 加太淡嶋神社。

 王子造の本殿は、多種多様の夥しい人形の客で賑わっている。その御前の石畳の上に、彼女はいた。

 ――巫女だった。

 二十代前半ほど。白い小袖に襠有りの緋袴。天冠を被り、数珠繋ぎにした勾玉の首飾りを付けている。艶やかな濡烏の頭髪を絵元結にした、整った目鼻立ちに端整な容姿の優雅な女性。


 ノーバディは凍りついた。どういうわけか巫女と対当した途端、尋常でなく緊張したのだ。

 張りつめた空気の中、二人の視線がぶつかったまま時間は止まった。

 永遠のような沈黙ののちにやっと数歩後退できた。それで精一杯だったが、階段を登りきったばかりのところにいたはずが変わらぬ高さにいることを知った。

 石段を降りることもなく、少年は空中を歩いていたのだ。


義覚ぎかく義玄ぎげん!」

 小角の声が投げられた。同時に、赤と青の小鬼がノーバディの両脇を駆け抜け、巫女へと突進する。

 発声されたのは、役行者に従者として使役されたという二鬼の名だ。

 だが巫女に飛び掛ろうとする寸前で、鬼たちは不可視の壁に阻まれたようにもがき、近づけずにいた。彼女らの狭間では石畳が砕ける。


「〝臨!」

 後ろから頭上を越え、護るように前に降りた小角が唱える。

 ノーバディは動体視力も優秀らしい。上を通る際に見上げた一瞬で、彼が両手を合わせて普賢三昧耶ふげんさんまやの印を構成してると認識できたからだ。最初の九字と異なり、全力を注いでいる様子だった。

「兵 闘 者 皆 陳 列 在 前〟!!」

 一文字唱えるごとに印を変え、小角は破魔の修法を放った。

 巫女を中心に地面が陥没、数メートルのクレーターが刻まれる。彼女は直立不動だったが、微かに表情を歪めた。


「貴殿は飛べる、行くぞ!」

 すかさず小角が囁く。ノーバディは反射的に足元に意識を集中し、次の瞬間。

 雲を突き抜け、花火よろしく飛んでいた。 

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