修羅道
――救うてくれるなよ
かつて地蔵が最後に聞いた言葉。
斬られたと気付いたのは首が落ちて転がった後のこと。石の身体に通った刃の感覚は今も分からないほどの鋭い斬撃。地蔵の目をして動作の起こりも見えなかった。
斬られても何も感じなかった。
修行の有無に関係なく憤ることはなかったであろう。
それは見事な斬撃だから――ではなく斬られた相手があの若者だったからだ。
妻も子も救うことは出来なかった。出来るだけの祈りを捧げたが、それでは若者も救うことは出来なかった。
だから救うてくれるなと、今更救うなと言っている若者が何をするのか。
はじめに救わねばならなかったのだ。
首が戻って最初に地蔵に沸いたのは忸怩たる思いだった。
目の前の岩の如く大男――あの若者の兄の覚悟の顔を見て。
やはり救えなかったのだと。歯噛み出来ればしていた気分であった。
「あーもう、お月さん出てるじゃない。こんな遅くなるならまっすぐ帰るんだった」
悔恨の念に苛まれる耳に聞こえて来たのは元気な声。
夜だと言うのに、寺しにしか通じない道だというのに、若い娘の声が耳に入った。
「あら、こんなところにお地蔵さん。流石にちょーっと怖かったのよねぇ。居てくださって良かった」
その時、雲間から月が覗いた。地蔵の前だけを照らしだす一筋の細い月明かりにて紅色の着物の娘が照らし出される。
「ひぃふぅみぃ――丁度よく六人も」
怖がっていたとは思えない軽い調子である。笠をとればやはり下にはうら若い乙女の姿。なにやら髷に布を巻き、筥迫を懐から覗かせた洒落た格好。月に照らされ顔は
明るく輝いて見えた。
”襲われても文句は言えぬぞ”と口が利ければ忠告しただろう、眉が動けば顰めていただろう。
「こりゃきっと御利益あるよねぇ。一つお願いしちゃおうかしら。えーとお供え物に出来そうなのは――お地蔵さんって言ったら食べ物かぁ。握り飯食べちゃったし――嫌らしいかもしれないけど。一つこれでお願いします」
地蔵の知る女はいつも辛そうな顔をしていた。子捨て、はたまた子産み地蔵と呼称された地蔵であるから、女とは我が子との今生の別れの悲壮感漂う顔しか知らない。
だからこそこの娘の明るい顔には好ましく思った。月明かりの下現れた娘は天女の如く思えすらした。
「えーと、こっちからよっつめだよね」
娘は赤銭を六つの地蔵にそれぞれ備え。わざわざ数えて自らの前でしゃがんで手を合わせる顔は明るさからほど遠くなっていた。
この己に用があるという。
この修羅道を守護せし、清浄無垢地蔵を。
「とりあえず、この闇夜の中無事に帰れますように。それと――もう一人、あいつがどうか無事でありますように――」
目を伏し、口を真一文字に結んだ娘の顔には痛ましさがあった。つまり娘は新しい身体の明るい色に惹かれたわけでなく。己の氏素性を分かって手を合わせたのだ。
修羅道を歩む”あいつ”のために祈ったのだ。
真剣で悲痛な祈りは地蔵に理解させた。
石の脳裏に過ぎるのは娘の”あいつ”。
幼き日に出会った頑なな男の子の姿が浮かんだ。喋ることなく、ここの子でないと拒絶するような子。夜を一人で耐え忍ぶ。娘はその姿を心配していた。
そのお陰で無事育った男は頑固になった。
幾ら止めようと、結局は修羅の道へと進む。
娘は遠くでずっと心配していた。
その身体の大きな若い男。地蔵には見覚えはなかった。
だが他の地蔵は知っていた。
若き男はあの忌わしき庵にて生まれた宿業によって修羅となった男であると。
「どうか――お救いください」
地蔵は悩んだ。悲痛な祈りを救うのは自らの役目である。
だが悩んだ。
地蔵の前で生まれた宿業にて苦しむというのに悩んだ。今は首もあり、目も見えているというのに――悩んだ。
救えば救われる者の因業を歪ませることになるからだ。
輪廻にてどこへ生まれ変わるかは、それまでの生き様で決まる。今生の業が来世を決定づける。悪しき行いをして来たならば苦悶の道へ、善き行いを積んで来たならば極楽の道へ。ならば救って極楽へ――とはならない。
何故ならば苦も楽も煩悩であるからだ。輪廻を繰り返しそれらを身に染みることで煩悩から解き放たれ涅槃に至るべきであるからだ。
輪廻とはそういう意味があることだからだ。
だから悪戯には救えない、救ってはならない。業を歪めれば、行く末も歪むもの。歪んだ道を辿っても涅槃に遠ざかることはあっても近づくことはないからだ。それはつまり煩悩に苦しむ生を長引かせることになるからだ。
短絡的な救いは結果的に更なる苦を産むからだ。
だから地蔵は子を救う。
生まれた場所という前世の業はあっても。それは生まれた時点で晴れているもの。ならば子が苦しむのは謂れなきことであるからだ。
「――どうかっ」
三度頭を下げると立って去ろうとする娘。
その目に光る物があったからか。
目を失い、首を失い、見ることも知ることもなかった因業に端を発した事柄であるからか。
地蔵には分からない。だが救うべきと目を瞑った。
さすらば空の雲は急激に動く――少し遅れて風が吹いた。
「わっ! なっ! とととっ」
南から吹き付ける湿気た重い風が娘を押した。橋を渡らんとする娘の身体を北側の川上の森の中へと押し込んだ。
「あれ? ここ――道? 人が踏んだ跡だよね。こんなとこ獣は通らないだろうし」
地蔵は再び目を瞑る。
今度は逆側から風が吹いた。先程と違い緩やかな北風。少しの涼と森の奥から轟く声を運びながら。
「あれ? 声? 誰か――居る?」
ついに娘は奥へと歩いていく。
空の雲は晴れた。ど真ん中に煌々と輝く真ん丸の月。
地蔵は動かぬはずの口の端を思わず上げた。
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