禮裕
山寺の朝は早い。明け方よりも前、まだ陽の登りきらぬ内に始まる。
金属の音の鳴り響く音――雲のような形をした青銅の
力強き音は山の眠りを覚ます。僧たちも、蝉たちも、鳥たちも、山全体を起こして響き渡った。
それは境内の外れ、木々に包まれた寺の最奥――
百年はある寺の歴史のすべてを見てきた建物であるから。寺を預かる者の居としてあまりに質素、侘び寂びといえば聞こえはいい。いっそ無様であろう。板葺きの屋根には穴が空き、雨が振れば素通り必至。漆喰などという上等な物のない禿げた土壁は隙間というにはあまりに多くの風を、山の目覚めの音とともに居室に通した。
ボロの居室、畳という上等な物は敷かれていない板張りの床にゴザ一枚だけ。その部屋の端、壁を向いて座禅を組んでいるのは寺の主――
響く夏の山の朝の音は齢八十の老僧の枯れ枝の如き身体には強い。叩きつけられるように、揺さぶられるようにして、その乾いた木の肌のような目蓋と唇が開かれた。
「――朝」
禅の開祖
現在の縁起物の赤い達磨が手足のない丸い姿の所以である。
禮裕はこれに倣い
すでに九年はとおの昔、もはや十五年は過ぎている。だがどこにも至っていない。何もさとっていない。迷いも救いも見いだせないまま、手足の代わりに光を失いつつあるというのに――修行の成果は何もありはしない。
「もう、ですか」
どんどん夜は早くなっていく。もう命の先は短いというのに、一晩は瞬きする間に過ぎ去る。
とみに最近、ここ二、三日は酷く。あることが頭に繰り返し過ぎっては、呼吸すら早くなって――また同じことが思い起こされる。
それはまだ禮裕の身体の張りのあったころ。四〇年ほど前のこと。
朝起きたら一面の雪。久方振りの大雪に幼子のような笑みを浮かべた。寺の僧たちもそれは同じ、童子のようにはしゃぎながら寺の総出で雪下ろし。
その最中、声が響いた。声の代わる前の子の声でありながら既に濁った野太い声。
「おおーい! 生まれぞー!」
この寺には余裕がない。方丈からして潰れやしないか不安な心持ちの中雪おろしをしているわけで。犬猫の面倒を見ている余裕はありはしない。
”生まれた”と言われればそれは人の子。勿論、この寺でも
つまり捨て子である。
この寺の者は毎朝水を汲みに麓の川に行く。川岸に降りる道には地蔵が六つある。橋向こうの村を見守るように並び、その背には大きな木。枯れた古木で、そのウロはまるで子を受けるために空いたかのよう。まるでここで捨てられる子が硬く冷たい地に置かれるのが可哀想だから地蔵が空けたよう。
僧が朝一に水を汲む以外にはほとんど人の通らない道である。誰も見られないうえ僧が必ず見る。誰にも見咎められず、誰かに救出される。
よってしばしばこの地蔵の裏の古木のウロには、子が捨てられてる。
声の主、
「
「またか。今度は何だ? 犬の
「ばっ、ちげーよ!」
もっとも
だがそんな
「ほら!」
「な、本当に――いや、これはっ!」
「なんという――これは息が弱い――」
「冷たい、湯を! 湯を持って来なさい! 早くっ!」
息は弱く、今にも止まりそう。赤を通り越して紫に近い身体には何も掛けておらず裸であった。明らかに連れて来たわけではない子。
幸いなことに、ほどなく子の赤みと鳴き声は取り戻された。
「ふー、これだけ元気に泣いてくれれば、もう大丈夫でしょう」
「
「どうせ水桶を放って雪で遊んでいたのだろうが――お手柄だ」
珍しく褒められた――というのに
それからも
赤子に与える豆も、自分で煮溶かして。それだけでは足りぬと乳を貰えるあてまで自分の足で探しに出た。それが山を二つ越えた先であっても背負って行った。
故に赤子の名は悪太郎に付けさせることとした。
三日三晩。名前を考えていた結果、
「俺にはいい名前が思いつかん――和尚頼みます! 名を! こいつにいい名を!」
「良いでしょう。しかしお前に付けさせると言いました」
「でも俺には――」
「だから一緒に考えましょう」
「はいっ!」
そうして二人して更に三日を掛けて決めた名は――作太。
何故”あれ”のことを思い出してしまうのか。昨日も、その前もそうだった。
だが分からない。悔いていることはそれだけではない。いくつだってある。自分が一人生きながらえていることも。もう同輩は皆逝ったというのに。師の教えを持ってして未だ修行の最中、さとりには程遠く。いや遠ざかっている気さえしている。
なのに何故に今になってあれのことを思い出してしまうのか。
その理由が分かったのは陽が登ってからすぐだった。
「頼もう!」
山々を貫くような大音声。熱気を吹き飛ばす涼のある怒号。
その声の主の名は坂下新之丞と言った。
「坂”下”殿ですか? 坂”上”殿ではなく?」
「はい、確かに坂下新之丞と仰られました」
「歳の頃は?」
「私には二〇くらいに見えました」
「――それくらいでしょうね。ならばこちらに通して下さい」
「こちら――とはこの方丈でしょうか?」
「ええ、お願いします」
何か言いたげな若い僧ではあったが、説明はしなかった。このボロの方丈で来客に応対することはない。大抵は気分を害す外観であるから。常なら本堂で応対する。
ただ今回は違う。寺の敷地の中でももっとも奥のここで会いたいと思った。
すべてを思い出した彼の子――いや若者が聞こえ声の通りに怒りに塗れた姿で来るのであれば――
他の誰にも見られぬ、他の誰にも聞かれぬ、この寺の最奥で一人で会わねばならぬと思ったからだ。
「ああ、しかし――そうですね。あの愚か者にだけは伝えねばなりませんね」
『来たれり』と。
「
「ええ、はい。お通してください――それとこれを届けてください」
結局、一言と宛先の寺のみ記したのみ。それがどう伝わるかどうかの心配はすぐにしなくなった。
若い僧に案内されて入って来るであろう若者の足音がした。力強く踏みしめる様に先刻の声を超えたはっきりとした怒気を感じたからである。
「失礼致す――坂下新之丞と申す」
「愚僧は
光を失いつつある目に映るのは若者の身体の影のみ、言葉も小さく一言放っただけであったが、ひと目みるなりある男を想起させた。
きびきびとした
よって
「何故
「
「いかにも」
「弟子の不出来は師の不始末――向ける顔などあろうはずもありませぬ。」
「もう終わった話です」
「そういうわけには行きませぬ。あれの仕出かしたこと、愚僧の頭一つで納めるには余りに大きすぎます。しからばこの首で持って」
「くどいっ! 僧とは死にたがりの集まりか? もう良いのです。それは終わった話と申しました。それに――もう、斬り申した」
「それは――?」
「つい先日、我が手にて斬り捨てました。山中然全を斬りました」
この寺に置いて山中然全という男は既に死したと扱われている。
然全のなした凶行はあまりに重い。幾らこの寺で生まれ育ったとはいえ破門、僧籍はく奪は免れず。いつしか新たな僧も増え、当時のことを知らぬ者が増えて、然全の名は禁句のように扱われた。
失踪してから長い月日が経つうちに、誰しも”もう生きてはいまい”と思うようになり、それは
ともに然全を育てた老僧だけの時にも然全の話をしなくなって久しい。生きているという前提を失っている。今となっては失踪の日に寺の外れの無縁仏に熱を入れて経を上げるだけ。
それでも『斬った』と言われて口をついて出たのは嗚咽だった。
「おおぉ――おお」
乾ききった老体のどこにあったのか。不思議と嗚咽は漏れ続けた。供養の時でも、もはや感情に波は立たないというのに。
まだそこまでの思いがあるとは
勿論、悪いのはこちらということもあったがそれだけではなく。ただじっと
手をきつく握りしめて、唇を強く結んで。怒って当然だというのに、ただただ我慢をして待っている。
それは思いやりであろう。相手は仇の親だというのに。長年の怨敵を育んだ僧だと言うのに。その相手の悲しみを邪魔すまいという気配りがあった。
優しい。あの父親に似ていながら余りに優しい。
それが
この生来優しいはずの若者を、復讐の
優しいからこそ、父母の死に怒り。
優しいからこそ、人を斬ろうとも怨恨は尽きない。
実に悲しいことであった。
「失礼をば――泣きたいのは――いえ、ならば本日の御用向きは何でしょうか?」
「山中然全は何をしたいのでしょう」
「はて?」
「奴は何をしたいのかと問いております」
「何をしたいのかと仰せですと――それは今も何か企てていると。死人が」
「ええ、その通り。奴は言いました。まだ仇討ちの途中だと。いや仇討ちの最中と。何をどうやって? それが分からない。よもや御坊たちが私を討つのか? と思うて参りましたが――どうもそうではなさそうだと」
「なんと――そこまで」
「そこまでとは?」
「いえ、それは――」
故に言葉に詰まった。詰まらざるを得ななかったのだ。
「心当たりがおありか? あるのですな!」
「いや、しかし」
「仰ってくだされ御坊! 奴の企てを終わらせなければ私の仇討ちもまた終わることが出来ないのです。分かってくだされ! お頼み申す!」
「――ええ」
また嗚咽のような声が漏れた。
若者が逆に頭を下げる始末。追い込まれている。何をどうすれば仇討ちが終われるのか分からないのであろう。
だが、それでも口は開けない。いや、分からなかった。
どうするのが正しいのか。
果たしてどう言葉を紡ぐのが正しいのか。
目の前の若者にとって何がもっとも救いとなるか。
何としてもこの若者だけは救わねばならなかったからだ。
この若者を救わねば何のために今日まで僧として生きながらえたか分からない。
『――欲しい』
ふと、声が聞こえた。
小さき声、小さき頃の声。いまだ小さき作太の声だった。
何も持たずに生まれた子。衣一つも掛けて貰えず、その命すらも手から離れる寸前だった子であるから。大切に育てられた。過保護と言っていい。
泣けば誰もが寄りそう赤子を過ぎても。まるで赤子のように扱われた。
特に
ただそのせいか、作太は我がままに育った。
欲しがれば、それを
「ほら、やっぱり飲んでらぁ」
そう
一杯引っ掛けていた
弘法大師曰く「
その夜もそう『寒くて寝付けぬ』と半ば言い訳のように一人ごちって取り出した。般若湯――いや酒の入った土瓶を。自らが土をこねて作った不細工な土瓶。斜にしか立てない土瓶を手にもって呷る寸前のことだった。
「あ、
勢い良く戸を開いて入って来た
「――欲しい」
作太は
「そうだなぁ。一人で酒を楽しむというのは仏の顔三回分はありましょうぞ」
「馬鹿者。これは――いやまだ早いわ! 作太は特に子供には毒――それに悪太郎、仏とはなんだ! ちゃんと名をお呼びしろとかねてから。それに何だそれは。三回分とは勝手なことを言うでない。御仏のことを決めつけてはいけません」
「へーへー説教は結構。こんな寒い夜じゃあ儂らだって簡単にゃあ眠れんのですよ」
「うん、喉乾いた」
「な、なら水があるでしょう」
「いや余計凍えますぜ。いいじゃないですか。どうせこっちは飲むまで帰れないし、帰らない。問答よりも飲ませてくれれば話は早いでしょう」
実際、般若湯を弟子に飲ませてはいけないという決まりはこの寺にはない。
「何を勝手なことを言い――そもそも、
「いやぁそれが、のうなってしまいまして。こう寒いとやはり未熟者の私めでは酒をこうぐいとやらねば眠れぬというものでございまして。そこはそれ、流石、
嘘である。憎たらしく片眉を跳ね上げた顔は嘘と言っている。単に自分の般若湯を減らしたくないだけ。作太にかこつけて自分も飲んでやろうという悪辣な表情。
だが
なぜなら自分の般若湯は多いからである。他の僧の倍近く割り当てている。恐らく
それに作太だ。何も持たせて貰えず生まれた子。それはつまりすべてをこの寺にて貰った子である。捨て子とはいえ、母親が自ら連れて来た子も多い。地蔵で生まれたとしても包む衣に名を縫い付けてあることの方が多いのだ。
そういう意味で本当にこの寺で生まれたと言える作太に
「仕方ないですね。舐めるだけですよ。元来子供には毒――これ」
「ありがたく!」
ひったくるように取られた相棒。
喉を鳴らす派手な音、口から垂れた量だけでも一晩を過ごせそうなほど。
「かぁーほら、作太も。最初は舐めるんだ」
「うん――いただきます」
もっとも幼子に酒が合うわけもない。
眉を寄せて渋い顔で土瓶を手放し発した言葉は「水」である。
「やっぱりなぁ。言うたろうに酒は口に合わぬぞと」
嗜める
だがこの時のように悪太郎をして”無理”と言い聞かせても止まぬ時もあった。
人の着物や、侍の腰の者、寺に来た高僧の袈裟なども。欲する物の予想も付かない事も多く。いや本人も分かっていなかったのかも知れない。
何もなく生まれた子であったから。
何があれば足りるのか理解が出来なかったのかもしれない。
かたっぱしから欲しては満足たるものか確かめていたのかもしれない。
「あれは何もかもを欲す子でした。しかし、その実何を欲しているのか分からぬ子でありました。飽きやすいといいますか。欲したものもすぐに『違う』と言って放ってしまう。そんな子でありましたから――」
「飽きやすい? そんな男が五年も怨み続けましょうか」
「五年――とは?」
「新道場を父が開いてからの年数――だから斬ったのでは? それが、父に新道場を奪われたと思ったから――斬ったのでは?」
禮裕の目にも分かるほど若者は震えた。
「違います。それが理由ではないでしょう。少なくとも剣術に関することで、あれが痛痒も感じることはないと言い切れまする」
「煤宮は片手間と――申すか?」
「剣術すべてはあれの欲するところではありませぬ」
「馬鹿な! ありえぬ」
「いえ間違いなく」
「なら何故に山奥で道場を構えていたというのか」
「道場を? あれがでございますか?」
「ああ、そうだ。弟子もいれて都合七人だ。これで飽きたなどと申すのか!」
「それでも愚僧の答えは代わりませぬ」
剣術に対する熱の無さはこの若者が怒髪天を突くことは必定なほどである。始めた理由も”僧になりたくなかったから”で、煤宮は”肉を喰らう”ところも実に都合が良かったのだろう。近かったからというのも大きい。仮に住み込みとなっても寺、兄と遠く離れることもない。
恐らく道場の場所に鍛冶場があれば鍛冶屋に、炭焼き小屋があれば木こりになったのだろうと
「あれだけの才を持っていながら!? 師をして褒めちぎるほどの才を持っていて?私とて腕前では歯が立たぬ。奴を殺すためだけの技がなければ――」
「それは――斬り結んだということでありましょうか?」
「おうよ。弟子諸共七人、七沢の山中で斬り捨てたわ!」
「なんと――鍛えてまで――」
「そうだ。剣術に賭けて来た男でなければ辿り着けぬ境地であったわ」
「しかし――」
「剣術でないならなんなんだ! 父が斬られねばならぬ理由は?! なんなんだ!!奴は何をしている。何故何も分からない! 何故――仇討ちを終えられない――もう討ったというのにっ!」
若者の心の底よりの叫び。
だが
果たしてこれは若者のためになるのか
何がどうすれば若者のためになるのか
何故なら、若者の両肩に手が見えたから
見慣れた、懐かしき――然全の手。
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