3.静寂が燃える
アルバイトを終えて家に帰る途中だった。
いつもの退勤時間よりもおそくなってしまった。
月が高く、美しい円を描いて昇っている。
昼間の暑さと夜の寂しさが残っているだけの住宅街。
高城燎護はアルバイトからの帰り道はいつも高校のそばを横切っていた。
この日は気分的に歩きたい日だった。
というのも昼間に祖父から手渡されたアレについて考えたかった。普段から考え事をするときは歩いたほうが歩くテンポで思考がまとまる、そういった習慣だった。
自転車や原付バイクの方が時間的な効率は良いが考え事をするには適していなかった。単にそれだけだった。
ただの古ぼけた箱の中身、研究資料を祖父が大事にしていたとは思えなかった。自身に何を願って大切なものをわたしたかったのか、研究資料とはいえ燎護はただの一介の高校生に過ぎない。そんなものを渡したところでなにをすることもできる環境ではないことをいくら祖父とはいえ、知っているはずだろうと。狙いはなにか。答えの出ない自問自答を繰りかえすばかりだった。
帰りが遅くなったのも、帰り道を繁華街の路地を行ったり来たり、そんなことをしていた。燎護は何となく家に着く時間を遅らせていた。
日が回る時間も近づきつつあった。
交差点を曲がって高校の校門前の道に入った。
その時、誰かが校門をよじ登っていた。
「なんだアイツ」
暗くて顔がよく見えなかったが、体格的に男らしい身体ではなかった。
こんな時間に忍び込む人影を見てしまったからには追っておくべきか、と燎護もわずかに迷ったあとに校内へ忍び込むことを決めた。
学校の敷地に忍び込む方法は正門の柵をよじ登る方法と少し迂回することになるが、一部掘られたように柵が意味をなさない場所から入る方法があった。燎護の予想では先代の生徒が脱走を図るためにバレない具合に敷地に入る方法だろうと勝手に思い込んでいる。燎護自身も遅刻のギリギリの時間になるとこちらから入って、あたかも時間通りの登校だと装って未だ遅刻の記録がゼロを記録していた。
物音を立てぬよう皓々とかがやく月明りと遠くで光る街灯をたよりに慎重に追跡した。
おおよそ向かった方向に目星をつけて、普段通りに校内に入った。
ひんやりと冷たい空気が漂うグラウンドをゆっくりと歩く。人影は何一つ無く、日中の賑やかさはなりをひそめて不気味なほど閑散としている。物音もなく虫のひっそりと鳴く声、自身の脈拍の音がより鮮明になる。
燎護はすでに見失ってしまったと思い、敷地内をぶらぶらと練り歩いていた。
――これって普通にストーカーだよな。面倒だから適当に言い訳でも考えておくか、しらばっくれる方が後々面倒そうだし。
こんなまねをしては燎護自身もあらぬ疑いをかけられかねないことを重々承知していた。人に見られようが遠くからであれば、顔も見えないような状態であるから堂々としていた。
校舎裏の花壇が見えてくるとそのあたりにしゃがみ込む影が見えた。
おそらく追っていた人の姿だろう。
燎護は目を細めて危険な人物ではないかどうか確認しながら、息をひそめるわけでもなく自然にちかづいた。
やがて、暗くはっきりとは見えなかったが、近づく人影が同年代の女性らしき姿だと気が付いた。
華奢な身体とスカートの影、肩のラインまで伸びた髪の毛の輪郭が見えた。
よく見慣れた制服の姿。
こんな時間に、こんな場所で何をしているのかと色々と疑問は浮かんだが、女子だとわかったところで後ろの物陰で息を殺して立っていた。
燎護の頭のなかには何をやっていたのかを問いただして、脅すための材料にしようとするわけでもなく、単に危険なことや悪いことをしようとしていなければ何をするわけでもなかった。
それぞれに事情があるだろうから、追及する道理はなかった。
ただ何事もなく、見届けるだけだった。
暗夜は色濃く、光さえ薄いこの場所では何をしているのか正確に見ることはできなかった。ただ、人が去った後に何をしていたのか確認することとした。
花壇の前でただしゃがんで、土いじりのような動きに見えていた。
しばらくそのままの姿勢で横に移動して、また時間がすぎた。
夕方の疲労感と闘いながらじっとしていると、何かに祈りのような動作を始めた。
薄明や暁のような淡くぼんやりとした光が見えた。遠くから眺めていると携帯電話でも開いているのかと思えたが、それにしては光が強く、徐々に光輪をおびるようになっていた。なにかへの祈りをささげている、ただひたすらに純粋な姿であった。
光っているのは組み合わせた両手の位置の辺り。
慣れているように両膝をついて花壇へ向かい自然に祈っていた。
喉の渇きを感じる痛烈な光景。
心が落ち着く神秘的な光景。
高城燎護は相反する二つの感情を抱きながら目を見開いた。
その時間は十数秒を一瞬に感じるほどだった。
固唾を飲んでいるうちにその瞬間はひっそりと終わり、元の暗夜に還った。
「なにをやってんだ――あれは」
目の前に広がる異常に思わず言葉が出た。
手から光が出るだと、マジックか何かか。マジックの練習をわざわざここでやるのか。
間抜けに思える思考もいまの燎護にとっては至って大真面目な疑問になる。
未知との遭遇、それは齢十七歳には受け入れがたい現実であった。
呆然としながらもまとまらない思考を加速させる。
身を伏せながら、混乱した頭を整理しようとしたとき不意に重心の位置がずれてしまい思わずよろめいてしまった。
「誰!?」
夜には合わない爽やかな女声に燎護はあっさりと現実に戻された。
独り言を聞かれたか、しかし独り言が聴かれる距離ではなかった。
よろめいたときの背の低い木に擦れてしまったときの音で気づかれたらしいと判断した。
まだ野良猫や野犬だと思ってくれるだろうという考えとは裏腹にすでに燎護は行動に移してしまっていた。人殺しの現場や麻薬の取引現場をみてしまったような現実離れした異常に逃走本能だけが蘇って、気づけば燎護はその場から脱兎のごとく走り出していた。
「待ちなさい! 逃がさないんだから!」
グラウンドから走り出す燎護を逃がすまいと女もスカートを履いていることも関係なしに脚に力を込めた。
ローファーが蒼白く輝き、地面を力強く弾いた。
ストライドは大きく、勢いはミサイルに迫るようだった。
グラウンドの湿った土を掘り返し、弾むように疾駆する。
あらん限りに回転数を上げて頂点に達した時、理性は遅れてやってきた。
逃げないでジッとしていればこんな目に遭っていなかったかもしれないと後悔が先に勝った。
燎護が脚に力を込めてものの数秒で五十メートルほど離れていたはずの距離が、女の力強い踏み込みがすぐそばで聞こえるほど近くなっていた。
校門の方から撒く予定を変更して大きく逆走する。
「速すぎんだろ、クソが!」
現実離れした速さ。
息つく間もなく、駆け抜けなければならない状況に身体が悲鳴を上げている。
逃げるという選択肢が脳裏から消え、狙うのはお互いに静止した状態。冷静に話を運べるように仕向けなくてはならない。
方向転換を瞬時に選択した刹那、女の足裏が視界を覆った。
全力疾走をしていた速さに負けぬよう滑る距離は最小限に、身体を地面に這わせるように傾けて強烈な跳び蹴りを回避しながら切り返した。
「なっ、めんじゃない!」
女は不機嫌そうに吐き捨てる。
着地すると同時に鈍い音がするほど踏み込んで強引にブレーキをかけた。
さらに急な切り返しを支えることができるほど深く地面を掘り返しえぐるような音を上げて、振られる身体が安定したタイミングでもう一度踏み込んだ。
女は一蹴りで五メートル以上もの距離を詰めていた。文字通り跳んでいる。
燎護と比べ三秒ほどのロスが生じてその間に距離はさらに離され、三十メートルほどの距離になった。
しかし、跳ぶたびに加速していく。
地面と平行に近い極端な前傾姿勢で推進力が一切の無駄もなく、すべてが燎護を捕獲するための力に集約されていた。
瞬く間に距離が縮まっている。
それを肌で感じている。
狩る側と狩られる側。
「―――カッ――ハッ!」
たった十秒ほどの疾走に燎護の身体が耐えきれず、循環する血液が凍てつき、噴き出す汗が全身を冷たく、そして思考をより鮮明にしていく。一分という時間の全力疾走はオーバーヒートをゆうに超え、強制的なクールタイムを迎えていた。
息を吸うたびに激痛が走っている。
風が肺を潰している。
呼吸が速く、浅く、小さくなる。
壊れかかった身体のギアをもう一段上げる、さらにもう一段。
指先が凍えてしまいそうだ。
熱のこもった身体から白い息が出ているような気さえしてくる。
強烈な吐き気に耐え、回転数を上げ続ける。
一秒が極限にまで引き延ばされ、次の一歩がはるか遠くにあった。
軋むような身体の痛みとまだやれるという思考に苦悶する。
やがて耳から入る音は必要な情報のみを取り入れるようになる。
視界は明滅を繰り返しながら無意識的に焦点を合わせる。
無駄な思考が一切排除された自分の世界で集中力が特異的に高まった。
瞬間的な状況判断、それは走馬灯とは異なる負けないために現実を俯瞰するための現在の切り捨て、自分自身の不安要素と疲労はないものとして考える。
足を着地するたびに、脚を上げるたびに筋肉は悲鳴を上げる。大腿四頭筋と大腿二頭筋はすでに限界だと警報が鳴っていた。
しかし、それさえも思考の邪魔には成り得なかった。
アドレナリンが瞬時に放出された脳内に諦めるという二文字はなかった。
思考を巡らせ、単純に負けないための機会を創り出すことだけ。
このまま追い比べたとしてもあっさりと捕まってしまうことは明白であった。
積んでいるエンジンが比べ物にならなかった。
女との距離感は振り返るまでもなく、心臓にも響くような音で否応なく想像がついてしまう。
「大人しく捕まりなさい!」
爆発音と似た地鳴りのように大地そのものを蹴りつける音。
背中に迫る風を切るような感覚。
余裕そうな声色を感じ取る暇さえない。
一歩でも緩めようとすれば背中からその手が突き抜けてしまう。動けと念じながら脚の血管を爆発させる。
一蹴りが大砲そのものだと見なくてもわかってしまう。
寸前にまで迫る見えもしない影。
目的の場所があと散歩で踏み切れると睨み、追ってくる女を横目に流しながら姿を視界に入れた。
間合いはほんのわずか、本来であれば近いとも遠いとも言えないような絶妙な距離だった。
半歩ばかし速かった、そうあざ笑うように目を切った。
女の瞳に力がこもった。
右足での蹴りを強引に調整して左足の踏み込みをねじ込んだ。
燎護がつま先を大木へ向けて幹のように太い枝へ飛び移ろうとしたとき、今までよりも強い殺気が背中を襲った。
あそこへ飛び乗れば、終わる。そう予感した。
踏み切る先を低木の茂みへ変え、そのまま茂みの中へ突っ込んでいった。
女は力強く踏み切って大木の枝を蹴り折り、そのまま校外の道路に着地した。
「ま、じ、かよ」
二分間にも及ぶ全力の逃走に身体が悲鳴を上げている。
飛び込む先を完全に読まれていたことに倒れこみながら呆然とする。
「ゴリラよりこえぇぞ、アイツ」
終幕した逃走劇に思わず愚痴を漏らす。
枝に裂かれ、身体から多少の出血はあるものの、校舎にぶつかっても壊してしまいそうな足技を食らうことと比べれば些細なことであった。
「地味にいてぇな」
すでに満身創痍で鉄のようになった脚に鞭を打って茂みから抜け出した。
想定していた内容ではなかったが、概ね結果オーライだろうと夜空を仰ぐように地面の上に座った。
あのようなものを見せられれば逃げられるはずもなかった。
舞うように走り抜ける姿。
本当であれば鬼ごっこにもなっていなかった。そのくらい差は歴然だった。
たった、二分程度の競争に身悶える。
ため息交じりに呼吸を整えていると女が燎護の前にやってきて、腕組をして仁王立ちした。
「観念しなさい」
「観念もなにもねぇよ、バカかお前」
顎を軽く上に向け、見下すようだった。
細く、弱々しく、声がわずかに上ずっている。
あまりにも慣れていないように見て取れた。
線は細く声色も人を脅迫することや威圧することを日常的にするような人間ではないことがわかり、安心するように脱力した。
完全な負け試合を強引に引き分けへ持ち込んだわけで、観念も何もないというのが燎護の本心であった。
暗くて気づかなかったが、落ち着いて女を見ると燎護が通う高校と同じ制服だった。
「貴方、いつからあそこにいたの?」
態度が気に食わないと言わんばかりにふん、と鼻を鳴らして問いかけてきた。
「最初っからだ。こんな時間にガキが独りで学校に入ってたら追うだろうが」
「最初からって、ストーカーじゃない! それに私は高校生よ!」
燎護は甲高い声で吼える女を見ながら呆れたようにため息をついた。
「ストーカーじゃねぇよ。もっと歳食ってから吼えろ」
次の瞬間、女の足元から鈍く強い音がした。
「あんまり勝手なこと言わないの。次はちゃんと入れるから」
みぞおちの辺りに足を伸ばしていた。
燎護は脅しにも驚きはせず無視した。
そこからしばらく沈黙が続いた。
じっと見つめたまま、嫌気がさしたのか燎護に背中を向けた。
「少しそこに居なさい。折った枝を直してくるから。逃げだしたらどうなるかわかっているでしょうね」
「勝手に言ってろ。こっちは疲れてんだ、もう動けねぇよ」
悪態をつきながら歩いていく女を見送る。
なんでこんなことに巻き込まれてるのか、と憂鬱な出来事に頭を抱えてしまう。
「なぁ! お前それ見られたくなくてオレを追っかけ回したんじゃないのか?」
軽々と大きく太い枝を片手で持ち上げている女に問うた。
先ほど遠くで見ていた祈るように木の枝を修復していく。
その様子を何気なく見ていた。
女は学校の花壇でこのようなことをしていたらしい。
杞憂で良かったと安心した。
「ストーカーだと思って追っただけ。見られたんだったらこっち側に引き込めばイイじゃない。私は師匠みたいに隠し続けるのは無理があると思うし」
こちらを見るわけでもなく当然という雰囲気で語った。
「もっとも、悪い人なら蹴り飛ばしてるわ」
サラっととんでもないことを口走りやがった、と舌打ちした。
「別に特別なことをしているわけじゃないの。私は私が生まれ持った性に従っているだけなんだから」
「―――」
迷うように続ける。
「貴方は普通の人で悪い人ではなさそうというのはわかった。だからきっと悪いようにはならないと思う。私も師匠も記憶を消すようなことはできないしね」
燎護は単純に住んでいる世界が異なっているのだろうと認識した。
そしてその言葉を現実だろうと受け止めた。
「お前も大変だな」
「別に。ただ初めてだったからちょっと困ってるだけ。あっ、そうだった」
女はスカートのポケットから携帯電話と小さなボタンのようなものを取り出した。
「連絡先を交換するかこれ付けられるのどっちが良い?」
「――連絡先にしてくれ」
説明もなくわからないものは怖いからやめてくれと続けた。
燎護と女は連絡先を交換した。
「私が呼び出したらすぐに出ること。じゃないと地獄まで追うわ」
「物騒なこと言うな」
「追いかける身にもなって欲しいわ。面倒ごとを押し付けられるのはごめんだからちゃんと電話には出なさいよ、それがただで帰すための条件」
一方的な決め事に燎護は両手を上げる。
じゃあね、と言って女は踵を返した。
そのままひょいと学校の柵を飛び越えた様子を目で追って、どこかへ消えていったことを確認した。
燎護はまた面倒ごとに巻き込まれたと肩を落とした。
最近は碌な目に遭っていないとため息までついていた。
そのうえ夏休みは今日で終わりだというのに、何もかもが憂鬱な気分になってしまうには十分な出来事ばかりだった。
明日は筋肉痛で授業をサボってしまおうかと悩んだが、とりあえずそれらの選択は明日の自分に投げることとした。
呼吸が整っても身体がうまいことついてこなかった。思考と遅れてやってくる身体を立ち上がらせて、少しばかり伸びをした。家に帰ってから軽くストレッチをしなくてはいけないと考えつつ、のんびりと家路に着くことにした。
歩きながら交換した電話番号の名前をゴリラ女と登録してこの激動の日を終えた。高城燎護はこの日、初めて魔法という神秘を眼にした日だった。
アンドリバース 富良野なすび @utaiutai
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