静寂が燃える/高城燎護

 お盆の時期が終わり、夏休みの終わりがすぐそこまで迫っていた。

 大した量もない宿題は一日徹夜をしてさきほど終わらせたのだが、すでに陽射しが横から突き刺している。時計は六時前を示していた。澄んだ空にこの疲れは合わないことをしみじみと実感しながら、水で喉を潤そうと階段を下りてリビングへ向かった。


 この時間はさすがに両親も起きてはいないかと、物音を立てないようにコップにいっぱいの水をグッと飲みほした。

 朝早くからこうして動いていると普段通りとはいかないもので、爺ちゃんが過ごしている和室の襖が勢いよく開いた。


「なんだ、燎護か。こんな時間に珍しいな」

「おはよう、爺ちゃん」


 オレはリビングのソファに勢いよく座った。

 爺ちゃんは襖を開けたまま、老眼鏡をかけて和室の真ん中でじっくりと新聞を眺めていた。

 足を投げ出して、浅く座って何をするわけもなくボーっと年季の入った振り子時計の動きを追っている。

 徹夜をしたせいで頭の中がぼんやりとしている。

 時間が経つほど瞼が熱く重くなってくる。

 気分転換にと思い冷たい水を飲んだが、すっきりとするはずもなくどうやら睡魔には勝てないらしい。


 三十分程度、呆けた後にようやくそこで部屋に戻ろうという決心がついた。

「燎護ちょっと良いか?」

 そこで爺ちゃんに呼び止められて、虚けた頭を稼働させようと努めた。

 大柄な身体で上の縁にぶつからないように屈みながら訊いていた。


「まだ夏休みだろう? 時間があるなら爺ちゃんと散歩でも行かないか?」

「散歩? たまにはいいよ」


 たまの付き合いも悪くはないだろうと思い、重たくなった身体を動かした。

 どうせ朝早くの時間には知り合いに会うわけもなかったから、雑な格好をして爺ちゃんと外に出た。

 晴れた朝方の外の空気は冷めていて気持ちがよかった。

 生活音が少なく、住宅街といえど風の流れが穏やかだと感じる。

 自然と眠気も飛んでいき爽やかな朝となっていた。


「なにか――やりたいことは見つかったか?」

「やりたいことか――まだ、わからない」

「そうか」

 自然と爺ちゃんのゆったりとした足並みに合っている。

「そうそう見つかるもんじゃないよな」

 納得したように唸りながら歩みを進めていく。


「お母さんは口うるさく言ってくるだろうが、お前がやりたいようにやれば良いさ」

「そんなの別に気にしてないよ。どうせいつものことだから」

「お前は真っすぐな性格だからな。嫌なことは嫌って言えるだろうな」

 爺ちゃんはにこやかに言った。


「女性は子に対してあまりに現実的だな。ロマンってものを知らない。男はいくら年を食ってもロマンに憧れるもんだ」


 時代劇でよく見るような武士みたいにまとめあげた髪の毛が透き通るような夏風に流されて、オレも爺ちゃんみたいな人になれたら良いと憧れを抱いていた。子供のころとそこまで変わってはいないと思うが、昔は強面だったらしいその面立ちもすっかり衰えてしまったようで今はすっかり優しいおじいちゃんという印象になっていた。


「やりたいことってのは、別に仕事にする必要はないんだ。立派な人間になる必要もない。愛する人と一緒に居たいとか人に夢を広めたいとかそんなもんで良い。どんなに小さくてもやりたいことを見つけると良い」

「そう?」

「あぁ、お前は逃げることをしない立派な人間じゃないか。後退という二文字がない、誰もが憧れる男だ」


 自分のことを褒められると思っていなかったから、どう答えるべきか困った。

 そんな立派な人間じゃない。

 別に逃げない男でもない。


「オレは爺ちゃんみたいな人になりたいよ。かっこいいし」

「爺ちゃんみたいな人か」

 そこから先は少しだけ沈黙が続いた。

 爺ちゃんの耳はほんのり赤くなっているような気がする。

 そこからしばらく経ってから続けた。

「それならもっと強い男にならないといけねぇな」

 どこかに想いを馳せるように爺ちゃんは言った。


 それから少しして爺ちゃんは疲れたようで公園の椅子に座った。

「お前のことだ、爺ちゃんも誇れるくらい立派な男になってくれるだろうよ」

「オレのことを期待しすぎだよ」

「なにを言う。爺ちゃんの孫だ。そのくらいしてもらわないと困る」

 ふん、と鼻を鳴らす。


「爺ちゃんが生きていた時代は狂瀾怒濤の世の中だったから、燎護のようなひたむきさと不動の様は憧れなんだ。良い意味でも悪い意味でも流れる時世を見極めながら一つずつ選んでいかなきゃいけなかった。結局、最後は決まっていた」


 眼を細めながら空を見上げていた。

「そう云った人間が大成していった。人々の憧れとなった、あの時代にしかありえなかった価値観なのかもしれんな。男の羨望というのはその歩みに現れていた。すまないな、過ぎた話はするべきではないと分かっているが、自分の孫には現代の男の子にはない生き方を知っていて欲しいと思ってのことだ」


 感傷に浸るように腕組をしながら爺ちゃんは言った。

 期待されることは嫌いだけど、爺ちゃんの期待は嫌いじゃなかった。


「なれるのかな」

「なれるさ、お前は決して道を外したりせん」

 さて、と言って重い腰をゆっくりと持ち上げて家路に着くと告げた。

 誰よりも大きな背中が、また大きくなったような気がした。

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