遭難

滝岡尚素

本編

 猛吹雪の中、九死に一生だった。

 りつは足下が雪で覆われかけている山小屋のドアを押し開けた。後ろに聞こえないように舌打ちする。成り行きとは言えバックカントリーになど入るのではなかった。スキー板を失い、おまけに吹雪。雪深い中を出鱈目に歩いて、この山小屋に辿り着けたのは奇跡と言っていい。

 足を踏み入れると、入れ替わりに冷気が流れ出ていく。

 小屋の中は閑散としていた。暖炉はあるも他には何もなかった。壁の窓が細く開いており雪が吹き込んでいる。一切手入れがされていないから、放棄された小屋に思えた。

「ああ、助かったね、先輩」

 菜穂なほが律に続いて小屋に入り、背中の荷物を下ろした。

「いいわけあるか、何もないぞここ」

 律は駆け寄って窓を閉める。ごおお、と鳴っていた吹雪の音が一歩退しりぞいた。振り返ってそこに居る菜穂を睨む。薄暗い中で彼女の表情は殆ど分からなかった。

「大体、何だ、先輩って。お前、俺のことそんな呼び方してなかっただろ」

「ええー? いいでしょ、先輩は先輩なんだし」

 まるで遅刻してきたことを詫びるような緊迫感のない声。だからこいつと滑るのは嫌だったんだ、内心で悪態をつく。大学のサークルのスキー合宿で、律は菜穂とコースに出ていた。スキー場の管理区域外、バックカントリーに菜穂が入り込み、追いかけている内に二人とも遭難してしまった。

 律は小屋の中に軽く積もっている雪を出来るだけ部屋の隅に寄せる。板張りの壁が軋んで吹雪の勢いがいささかも衰えていないことを知らせる。乾いている部分を選んで座り込んだ。

「まあまあ、苛々しても仕方ないって」

 隣に菜穂が腰を下ろす。二人とも吐く息が白い。床板の冷たさがスキーウェアを貫通して腰から背に、首へと上がって来た。身体の芯が冷え、律は制御出来ない震えに支配される。よく見れば菜穂も同じだった。両膝を引きつけて腕を太ももの裏に回し、背中を丸めて顎をうずめた。

「寒いのか」

「当たり前でしょ。あんまり頭の良くない質問だね、それ」菜穂が笑った。何かに気付いたように律の頬骨に軽く触れる。よく見ればうっすらと黒ずんでいた。

「この前の殴られたところ? ごめんね、うちのお父さんが」

「気にするな。もう済んだことだし」

 自ずと二人で寄り合う。小屋の中では風雪が身体に直接かからないだけましだったが、それ以上の効果はない。とにかく、火を熾さなければならない。

「はいこれ」

 菜穂が持っていたリュックからライターと雑誌が二冊出て来る。板チョコも二枚。

「お前、こんなの背負ってスキーやってたのか」

「え? えへへ」

 曖昧に笑ってごまかす。まるで遭難することを見越していたかのような菜穂に律は怪訝な目を向けた。雑誌を受け取り、暖炉に入れるとライターで火をつける。幸いにも乾いていてすんなり燃え上がる。二人は安堵して暖炉の前でしゃがみ込んで両手をかざした。火に触れている面から熱がしみていく。

「ああ、生き返る」

 菜穂は板チョコの紙帯を破り、中のアルミ箔も剥がしてかじりついた。律も空腹を覚えて彼女と同じ動作をする。火を見つめながらチョコを食べる日が来るなんておかしなものだと律は苦笑した。

「どう? 私のおかげで死なずに済んだでしょ」

 全くその通りなので律はもぐもぐと頷いた。その素直さが予想外だったらしく菜穂は隣を見たまま吹き出してしまう。二人は小屋の中央に移動して向かい合って胡座を掻いた。火のおかげで身体はある程度ぬくもっていた。

「それにしてもここからどうするか」

「まあなるようになるよ。取り合えずば暖かいから焦んなくてもいいじゃん」

 律は上着のポケットからスマホを取り出す。この寒さでとっくにバッテリーは干上がっていた。菜穂もスマホを取り出して確認している。そちらも残量はないようだった。

「それに充電器は入ってないのか」

 リュックを指すと、彼女はにこやかに首を振った。

「あとはね、チョコが残り二枚、だけかな」

「何で雑誌やライターを持ってきてるんだ?」

「や、休憩の時に読もうかな、って。ライターは知らないよ。お父さんのが勝手に入っちゃってたのかも」

 けろりと答えられては何も言えない。助けられた手前、律はそれ以上の言葉を飲み込むしかない。ひときわ大きな音が鳴ったかと思うと窓が軋んで小屋が揺れる。短い悲鳴を手土産に菜穂は律にしがみついた。

 怖いのか、と問うと、

「だから、その質問は頭が悪いってば」

 律は菜穂の腰にぎこちなく腕を回した。二人の身体は自ずと近くなる。

「何だか子供の頃を思い出すね、先輩」

 胸元に、肩に、成長した息遣いを感じる。

「そうか? ずっと前の話で覚えてないよ」

 とは言え律は思い出す。小学生の頃、二人で色んな場所に冒険に出かけた。校区外のショッピングモールや学校近くの山、川。あの頃はただ、何も考えずに遊んでいられた。

「そんなこと言うの?」

 菜穂は離れ、胡座に戻って頬を膨らませる。

「ああ、くそ。いつまでこうしてりゃいいんだ」

 律は窓の外を見た。白く塗り潰されすきま風は肌に刺さる。小屋の外では吹雪が猛威を振るい、恐らく入って来たドアの前には雪が降り積もり、とっくに開かなくなっているに違いない。

「明日の朝、吹雪が止めば何とかなると思うよ」

 律は腕時計を確認する。午後七時、まだ先は長い。暖炉を見ると、くべた雑誌は燃え尽きかけており、早くも冷気が漂い始めている。菜穂が持ってきた雑誌はあと一冊、さっきの燃え尽きるまでの時間を考えれば全量を一気にくべるのは軽率だと思えた。

「ね、大学を出たら一人暮らしするの?」

 それ、今必要な質問なのかよ、律は一旦取り合わないことにする。それよりもいかに寒さを凌ぐかの方が大事な問題だった。

「私、訊いてるんだけど」

「お前ねぇ、今の状況わかってんの」

 律の唇から白い息が大量に漏れ、それはさっきよりも分厚かった。

「分かってるよ。でも、答えて」

 律は眉をひそめる。菜穂は答えを聞かねば納得しない顔だった。

「一人暮らしねぇ……ま、出来るならしたいかな」

「そうなったらさ、私、先輩の家に行っていい?」

 こいつはどうしてそんなどうでもいいことを寄りによって今確認するのか、律は寒くなってきた身体から少しでも熱を逃がさぬように背中を丸める。

「別にいいけど、あんまり頻繁には来るなよ。もし彼女が出来てお前と鉢合わせたら面倒臭いことになる」

 菜穂はくすりとする。既にかなり暗く、二人は互いの表情さえ判別が難しくなる。


 残りの雑誌の半分だけ火にくべる。

「悪いな、お気に入りの雑誌だったりしないよな」

「大丈夫だよ。読みたくなればまた買えばいいし」

 紙の量が足りておらず、さっきまでより明らかに火の勢いが弱い。二人でマントルピースを囲んだ。顔を炙る火が心地良い。

「小学生の頃、キャンプに行ったの覚えてる?」

 律は記憶を辿るようにしゃがんだ姿勢のまま、首だけ上に向けて視線を彷徨わせる。十年ほど前か。

「覚えてるよ、みんなでキャンプに行ったことは」

 五年生の夏に地域の児童会で長野の高原に泊まりに行ったことがある。菜穂は四年生で、十人くらいの同級生や下級生達と川遊びをした。すねの辺りまでの川面で、律たちは互いに水をかけたり、追いかけっこをしたりした。

 八月で、とにかく暑かったのを覚えている。律はそれにやられてしまって、川べりに腰を下ろし、足を入れて他の子供たちの様子を眺めていた。

 陽光に飛沫がきらめく。一体、太陽には幾つ表情があるんだろう。子供たちの顔を、身体を、まばゆく照らして幼い虹を纏わせる。

 菜穂の姿が見えないことに違和感を覚えて立ち上がった。水面は足の甲のすぐ上でたゆたう。それほどの浅い場所。彼女の姿だけ見えないのは間尺に合わない。首だけ忙しなく巡らせて左手の、そこだけ色の違う川面を見た。かすかに飛沫が上がっているのが見えた。

 律は駆け出した。川には浅いところもあれば深いところもある。充分気をつけるようにと大人が言っていた。躊躇いなく境目から飛び込んだ。律の予想よりも視界はクリアだったが深い。泳ぎには自信があったから潜って菜穂を捜す。彼女は目と鼻の先で力尽きたように沈んでいくところだった。律の口から鋭く吐き出される空気の泡。菜穂の名を叫んで必死に手を伸ばした。

 そこから、律の記憶は曖昧だ。

 後から聞いた話では、結果的に二人とも溺れたと言う。子供らの悲鳴に気付いた大人たちが助け上げ、介抱し、どうにか事なきを得たのだという。

「お前が菜穂ちゃんの手を掴んで離さなかったから、二人とも無事に引き揚げられたのよ。本当にありがとうね」

 母に言われても実感はなかった。ただ、手の中に菜穂を感じた。


 その日の夜、律と菜穂は同じテントに寝かされた。他のテントでは落ち着いて眠れないだろうと言う判断だった。

 オレンジ色のテント。中で照明を点けても透けず、律は夜空も見えない天井を見つめて静かに横たわっていた。

「ね、怒ってる?」

「別に。僕も菜穂も死ななかったから」

 内心では恐ろしかった。自分も、菜穂も死んだらどうなるのだろうとあの刹那に考えた。それを言っても菜穂を困らせるだけなので強がるしかなかった。

「何で、あんな深いところに行ったんだよ」

 だって、律を捜して、と菜穂は言った。皆が遊んでいる中に居なかったから、ひとりで泳いでるんじゃないか、って。川縁に居たんだよ、と律が言うと、菜穂は少し頬を膨らませた。

「言ってよ。捜したじゃん」

「無茶言うなって、疲れたんだからしょうがないだろ」

 隣り合った寝袋。声を立てて笑った。

 周囲のテントは既に寝入ったのか、随分と静まりかえっていた。夜気には吸音効果があるのかも知れない。

「ね、そっち行っていい?」

 それぞれのシュラフは一人用だ。夏、それなしでも寒さを感じることはない。

「いや、そっちで寝ればいいだろ」

「まあまあ、そんなこと言わずに、ね?」

 菜穂はシュラフから這い出し、同じ動作を律にも促す。お願い、今日だけ、根気に負けてため息混じりに寝袋から出た。二人分のシュラフをくっつけて、その上に律と菜穂は身体を預ける。化繊特有のしゃりしゃりした音と、冷たさが心地良かった。

 菜穂が無言で律に寄り添った。彼の身体の線に合わせ、ぴったりと貝のように。律は、押し返そうとした少女の、小刻みに震える身体で思い留まる。怖かったのか、なんて、頭の悪い質問しないでよ、菜穂は途切れがちに声を送り出した。息遣いが律の喉元にかかる。

 律が腕を回す。それで幾らか震えがましになる。

「律も怖かったの?」

 言われて自分の震えを自覚する。何も答えず、そのまま力を込めた。

「私達、このままで朝まで寝ちゃったら、皆に何て言われるんだろうね」

「勘弁しろよ。寝る前には戻すからな」

 口調とは裏腹に震えは波が引くように収まっていく。互いの恐怖を互いに分け合って平均化して、馴染ませていく。

「大人になったらさ、結婚しようよ、律」

「菜穂、僕達まだ子供だし、それはちょっと考えさせて」

 おかしさがこみ上げた。

 そのまま二人は寝入ってしまった。


 吹雪の音で目が覚める。

 いつの間にか暖炉の火が消えていた。そればかりか、自分が少し眠っていたことに気づいて律は戦慄する。隣で肩を寄せていた菜穂は目を閉じ、動かない。慌てて揺さぶるとまどろみから抜け出せないままの目が開いた。

「あ……ごめん、寝てた」

「寝るなよ。死ぬからな」

 残り半分の雑誌を暖炉で火にくべる。束の間の暖かさに二人で息をついた。時間は午後十時。夜明けはまだ遠い。菜穂は胡座を掻いた律の膝に上半身をのせてうつ伏せで寝転がり、揺らぐ火を見つめる。火の勢いがそのまま、自分達がいま置かれている危うさそのものだと律は思う。球を抱え込むように背中を丸め、菜穂の背中に腕を置いた。

「そう言えばさ、あの朝、大変だったね。ほら、溺れた日の」

 ああ、あれかと律は自嘲気味に息を吐いた。翌朝、抱き合って眠っていた律と菜穂は、他の子共達にさんざん冷やかされ、大人からはきつめに説教された。

「あの時の先輩、可愛かったな」

 遠い目と声。まだ眠りの中なのか。菜穂には夢見がちなところがある。きっと、自分とは立ち位置が違っていて、同じものを見ているようで別の何かを読み取っているのだ。

「先輩ってさ、いっつも優しいよね」

 自分としては当たり前に菜穂と接してきたつもりだ。それこそ彼女の言うように先輩、後輩として。

「そんなことない。俺は普通だよ」

「本当に? そう言い切れるの」

 確かに自信はない。それ故に無言になってしまう。

 ま、そう言うことにしとくよ、先輩。菜穂は暖炉の火から視線を逸らさずに呟いた。

 暖炉の火があっさりと消える。それまで火とせめぎ合っていた冷気が容赦なく律と菜穂に纏わりつく。それでも、体温は二人分だ。

 寒さが奪うのは体温や身体の自由だけではない。思考力を奪い、判断力を殺ぎ、心をへし折ってくる。我ながらこんなに体温が恋しくなるだなんて。いや、菜穂の体温だからこそ求めているのか。

 馬鹿馬鹿しいと律は振り払う。とは言え、小学校からの付き合いだ。視界のどこかに菜穂のある暮らしをずっと続けている内、とっくに彼女は自分に馴染んでいる。明日から離れ離れでも大丈夫かと自分に問うてみた。即座に答えられる自分が居ないことに律は軽い驚きを覚える。

 地鳴りの音、窓や板壁はがたがたと無遠慮な音を立てて山小屋の中の二人を恐懼させる。時間が進むにつれて外気温はずんずんと下がっていき、鋭い寒さが小屋の壁を軽々超えて律と菜穂に襲いかかる。寒さで息が荒くなる。自身の吐き出す白い息で視界すら曇るようだ。体内の、温度を管理する器官がバグって駄目になり、もはや律は寒いことを寒いと認識することすら不可能になりつつあった。

「菜穂……?」

 彼女が身じろぎする。顔を上げた。窓から射し込む雪の光で、菜穂の表情がくっきりと浮かび上がる。優しく微笑んでいた。寒さなど感じぬように。

「ここで死んでもいいよ? 生きててもさ、私達って前に進めないじゃん」

 律は菜穂の上半身を乱暴に抱き寄せた。自分の身体にめり込まそうとするかのように、彼女の背中が軋むまで力を入れたのは、律の寒さが限界だったからか。

「痛いよ、先輩」

「死なせない。と言うか、俺が死にたくない」

 下がりきった体温が二つ混ざり合うことで新たな力を生んで熱を帯びる。

「ねえ、知ってる?」

 直接、肌を合わせた方が温かいって言うよ――菜穂が律の耳元で、夕暮れ時に長くのびる影のように妖しく囁いた。

「直接じゃなくても、こうやって温めていれば大丈夫だって聞いたことがある」

 律は咄嗟に答える。実際にはどうだか知らない。菜穂の肌に直に触れる自分に恐れをなしただけだ。

「そっか、残念」

 菜穂は律の身体に手を回す。最大限、お互いの身体を接着させる。テントでの夜、あのとき感じた菜穂のそれと、今の彼女を比べてしまう。そうなったら戸惑ってしまって、律は何も話せずにいた。


 どのくらい時間が経ったのか。

 意識が遠ざかったり、近付いたりしながら結局はじりじりと遠くなる。それでもどうにか保てているのは、お互いの身体の温かさによってだ。律は菜穂から離れて腕時計を確かめる。午前四時。冬の夜明けは遠く訪れない。

「まだ、吹雪いてるね」

 小屋の真ん中で二人、前後になって座り込んでいた。菜穂は律の腹の前に収まり、律は彼女の頭頂部に頭を置いて後ろから抱きすくめる。

 雪明かりで小屋の中は明るいほどだ。外にはどのくらいの雪が積もったのだろう、例え吹雪が止んでもここから出られるのだろうか。

「大丈夫か、菜穂」

「先輩こそ、大丈夫?」

 声の震えはどちらも隠せてはいない。

 多分、このままでは朝を迎えられない。にもかかわらず律は震える指を使って菜穂のほつれた前髪を払ってやる。見上げた菜穂は気持ち良さそうに目を細めた。覚悟の決まった仕草だと律は感じてしまう。まあ、最後はこいつとなら悪くないのかもな、下がりきった思考力が誤答する。

「ごめんね、先輩。私、わざとバックカントリーに入った」

 唐突な告白だった。

「何でそんなことしたんだよ」

 律の声に咎める色は含まれていなかった。

「だって、律、来年卒業だし、遠くへ行くかもだし」

「先輩呼び忘れてるぞ。あと、このままだと二人とも別の意味で遠くに行ってしまうんだが、それは考えなかったのか」

 あ、そうだねと菜穂は笑いさえする。

「まあいいじゃん。マジでこのまま死ぬのも悪くないよ」

 背後からは菜穂の表情は見えない。今の科白をどんな気持ちで言ったのか、律には分からなかった。

「俺は嫌だな」

 端的に言い放つ。ぴくりと菜穂の気配が揺らいだ。

「俺は、お前と生きていたい」

「それは結婚とか?」

「そうじゃなくて。お前と、生きてここを出て、それから、二人とも生きていくって意味だよ」

 なあんだ、つまんない。律が咳き込んだ。冷え切った身体が悲鳴を上げている。肺が凍り付いて呼吸が止まるような幻覚を持った。

「大丈夫? 先輩」

 心配そうに菜穂が律の顔を振り仰ぐ。

「死のうと言ったり、大丈夫かと訊いたり、忙しい奴だな」

 途端に菜穂の顔がしゅんと萎んだ。

「律はさ、ずるいよ」

 本当に子供みたいだ。いや、まだ子供のままなんだ。何度か咳をした。菜穂の肺も冷たくなっているに違いない。

「ずるいって何だよ。俺はお前に」

「つき合ってやってる、って言うんでしょ」

 そうだよ。今もこうして、死にかけてるけどお前につき合ってるだろ、律は無言で毒づいた。

「だから律はずるいんだよ。思わせぶりでさ、私をはっきり遠ざけもしない。いま、ここで、死にかけてるのに、まだ」

 律には特に感想はない。強いて言うなら長く共に生きていたからか、菜穂を切り離した人生など考えられないだけで、それをずるいと言われればそうなのかも知れないけど、それならずるいままでいいと律は思ってしまう。それは、親にいつまでも甘える子の関係にも似ていた。菜穂のことを大事には思っているが現実を考えたら出来るだけ保護者のように接するしかない。でも、菜穂からの好意は失いたくなくて。そうか、それがずるいってことか。

「悪かった。俺は菜穂を苦しめてたんだな」

「違う、違うってば。ああもう、このばか先輩」

 上体を捻って律にしがみつく。律の頬に菜穂の涙が飛んだ。

「教えてよ。どうして律は私の先輩じゃないの」

「俺だってお前が後輩なら良かったよ」

「でもここには私達しかいないよ。今だけは本物の先輩と後輩でいいでしょ?」

「ああ、お前がそうしたいならそれでいいよ」

 寒さは募る。どうしようもなく二人は体温を交換し、温め合うしかなかった。


 静かに、空気の流れは止まっていた。

「吹雪、止んだね」

 午前八時、窓から射し込むのは雪の白さと、待ち望んだ陽光だった。律は立ち上がって窓の、びっしりとついていた霜を払い落とした。触れたガラスの面がただ冷たいのではなく、僅かに温まっていく。

「あー、死ななかったなぁ」

 背後で、残念そうな声を発した菜穂も腰を上げた。小屋の中は明るくなっていく。

 律はしゃかしゃかと衣擦れの音を立てながら小屋のドアノブに手をかけた。思ったほど冷たくはない。試しに力を入れると、それはあっさりと回った。かちりと鈍く鳴る。

 ゆっくり、薄皮を剥がす慎重さでドアを引いてみる。軋んで開き、出来た空間に真新しい雪が音を立てて流れ込んだ。瞬く間に踝の辺りが雪で埋まる。とは言え、これなら外に出られそうだ。視界が晴れていれば、きっと皆のところに戻れるだろう。

「ほら、行くぞ」

 振り返って手を差し伸べる。菜穂はリュックを背負い直し、律の手を掴む。

「レンタルスキーって弁償どのくらいなんだろ」

「さあね。大したことはないんじゃないか」

 それよりも捜索隊とか出てたら、そっちの費用が大変そうだ、律は彼女の手を引っ張ったが動かない。菜穂はその場で留まり、歩き出そうとはしなかった。ここを出たら、と呟く。

「ここを出たらさ、また戻るんだよね」

 そうだなと律が返す。

 律と菜穂はここを出たら戻っていく。同じ大学の先輩と後輩である前に、の関係に。

「それでも出るんだよ。俺達は今までもそうやってきただろ」

 菜穂の足が少し前に出た。律は菜穂と目が合う。彼女の瞳の奥に、諦めと、悔しさと、切なさと、絶望を見る。

「ねえ、どうして私達は付き合っちゃいけないんだろうね」

 送り出された言葉に、律は答えを持たない。

「だって元は他人じゃん。親の再婚で」

 幼なじみが兄妹に変えられたのはいつだったか。川で一緒に溺れた後か。大人はそれで結婚するのも自由だろうが、子供達はたまったものではない。今日からあなたの妹よと言われて納得できるはずがない。

「おかしいよ。いとこ同士だって結婚出来るのにさ、私達は――」

 兄妹でも血縁関係がなければ法律上は結婚できる。試しに二人で頼んでみると、律の母も菜穂の父も決して許さないと言った。理由を聞けば世間体だと言う。尚も食い下がると律は殴られた。世間体など、形のないものに立ち向かう術はない。法律で縛られているから結婚出来ないと言われる方がまだましだった。

 菜穂の手を強く引いた。バランスを崩した彼女のよろめきごと抱き留める、それ以上を喋らせまいとするように。菜穂の手の温かさも息遣いも、何もかも溶かして自分に取り込みたかった。

「生きよう。俺もお前も」

「言われなくても分かってる。私だって律と生きたいよ」

 泣きじゃくる菜穂の頭を強く撫でた。

「でも、律の妹は嫌なんだよ」

 ああ、吹雪があと一日続けば危なかったな。いや、吹雪があと一日続けば菜穂と死ねたのか。

 矛盾した感想が同時に腹の底に落ち、粉々に砕け散る。破片が混ざり合い、律は本当は自分が菜穂とどうなりたかったのかが分からなくなって、いっそ清々しくなり笑った。

「こうなったら離婚させるか」

 そうなれば世間体どころではなくなるだろう。

「お、いいねそれ。最高に頭が悪くて」

 菜穂も笑う。涙は凍らず、真っ直ぐにその頬を滑り落ちる。

「じゃあ、まずはお袋の不倫でもでっち上げるかな」

「いや、だったらうちのにして。お母さんいい人だもん」

 菜穂は本気で言っていて、ああ、そう言うところが菜穂なんだよな、と律は思って、胸の奥に熱が生まれるのを感じると、握った手に思わず力を込めていた。    〈了〉

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遭難 滝岡尚素 @takioka_honest

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