第8話



 丸沢家兄妹と別れた後、天川はバスに揺られながら、弘人の事を考えていた。浩詩の家で会った弘人とはまるで別人のようだった。あんなに素直に友人認定されるとも思ってなかった。今まで散々敵視されていたし、完全に嫌われているのだと思っていた。


弘人は天川が浩詩の近くにさえいなければ、それで良いのかもしれない。つまり弘人は浩詩が好きなのだろう。そうか、お兄ちゃんを取られたくないブラコン心理だと思えば、可愛く思えなくもない。今までの意地の悪い発言も愛嬌だ。


口元だけで笑った後、天川は左手で右腕を擦った。小指と薬指側が少し冷たい。何度か摩擦して熱を起こすと僅かだが動かしやすくなった。


指が動かなくて、描きにくいのは言い訳だ。どうやっても描きたいやつは描く。腕のない人だって描いて個展を開いている。要はやる気があるかないかだ。弘人に言ったように、怠惰で描いていないだけ。気力がなかった。たけど、暗闇の中に生まれる花を繰り返し観て、天川の中に何かが芽吹いた気がした。


 真っ暗な中で育っていく花は、散っていくのに、美しかった。枯れてもまた新たに芽吹き、命を紡いでいく。死んでも、また生まれる。


自分の絵が死んだみたいに思っていたけど、本当は死んでないんじゃないだろうか。心が削がれ続けた日々も、糧となって、また何か生まれるんじゃないだろうか。ふとそんな風に思えて無性に筆を持ちたくなった。


 バス停から走って家に帰った。今この感情に火を焚べてやらないと、消えてしまう気がしたのだ。


帰ってすぐにキャンバスに向かった。いくつもの色をパレットに出して、青の混じったマゼンタを作る。


 消えゆく命。名残惜しい時間。失ってしまいそうになるからこそ、掴みたくなる刹那。自分が本来得意としてきた残像の描写を一心不乱に描き始めた。手首を折り曲げる動作は痺れも誘発し、右手は痛みで震えていたが、そんな事どうでもよかった。


 小刻みに震える筆の動きを逆に生かして、不思議な残像をキャンバスの中に生みだした。惜しまれながら海に沈みゆく太陽の揺らぎ。光が水平線に零した涙の色。

 

「はは……」


 一気に描き上げた絵を眺めた。お世辞でも上手いとは言えない。でも色遣いや作風は天川の物だと分かるものだった。自分を少しだけ取り戻した気がする。右手が思い通りに動かないのだから、以前と全く一緒というわけにはいかない。けれど、技巧や常識に囚われない、枠に収まらない、基本を知らないからこそ描ける自分らしい作品だ。


 丸沢浩詩は違う世界に住んでいる。彼に近づきたかった。彼のように描きたかった。到底出来るはずもない事を切望して、勝手に絶望していた。


 自分は自分でいいという事が分からなかった。天川は、あーあと溜息を吐いて、ベッドに寝ころんで絵を見た。


「相変わらずへたくそだな」


 自分で自分に悪態を吐いた。でも、悔しくない。頭を起こしてもう一度見た。愛おしい。自分の絵だ。


『描けよ』


 浩詩の言葉は乱暴に聴こえた。でもそれは絵描きに送る最大のエールだった。


 浩詩さんにはどうやっても叶わないな------。


 いつぶりだろうか。こんなに時間を忘れて絵を描いたのは。窓から見える空には、いつのまにか朝焼けのマゼンタが燃えていた。



 

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