第7話


 咄嗟に感情が出てしまったのをごまかすように、天川は口元を手で覆った。気まずい空気が二人の間に流れ、子どもたちの声が妙に大きく聞こえる。先に喋ったのは天川だった。


「一人?」

「いや、桐子に誘われて。桐子の看護師も一緒だ」

「そう」


 壁の映像に視線を戻すと、桐子が後ろからやって来た。


「累さん、来てらしたの。嬉しいわ、こんなところで逢えるなんて」


 佐田は壁をちらちら見ながら、桐子の後ろをついてきた。桐子は天川の横に立ち、今回のアートの感想を嬉しそうに一頻り話すと、チラリと弘人を見てから言った。


「一緒に回りません? そんなに大きな展示ではないけど」


 びっくりして弘人は空かさず止めに入った。


「桐子、天川は一人で来てるんだ。放っておいてやれよ」

「またそんなつれない事を言う。兄さんの悪い癖だわ。すぐに一人がいいなんて思うの。同じものを見ながら、違う感情や感想を抱くのは普通の事よ。その違いを友人同士で語るのも、アートを観る醍醐味の一つだと私は思うわ。一緒に回って、違う感覚を知って、感受性を養うの。ね、ご一緒に」

「しつこいぞ、桐子。天川に迷惑だろう」

「僕は、別に構わないけど」

「ほら」

「いや、天川、そこは断るところだろ。桐子の誘いに乗ってたら一生一人で何も観れないぞ。それにお前、俺と回るなんて嫌じゃないのか。いつも厭味を言うやつだぞ」

「弘人兄さん、認めるのね」

「自覚があるのか」

「あるに決まってるだろ」

「なら、これからはそれ、やめてもらったら大丈夫」

「何が大丈夫なんだ」

「うふふ」


 しまったと弘人は桐子を見た。桐子の合いの手についむきになって本音を零してまった。弘人は眉根を寄せる。


「天川が迷惑じゃないというなら構わないが……」


 天川と一緒に行動するのは本意ではない。だがここで断るのは、あまりにも子どもじみて見えるし、受け入れることにした。それにしても、天川も弘人に会って顔をゆがめたくらいなのだから、嫌なはずなのに、なぜ同意したのか真意が測れなかった。


 楽しそうに話しながら足を進める桐子は、佐田の袖を引っ張って、月の満ち欠けの映像が映る壁の前へと移動した。一緒に回るんじゃなかったのかよ、と不服に思ったが、何も言えなかった。


 月のアートの周りには何故かカップルばかりで、何もしていないのに、そこにいるだけで邪魔をしているような、いたたまれない気分になる。天川と弘人は自然と足を速め、次のアートゾーンへと入り込んだ。


 真っ暗な闇の中に、一粒の種が落ちる。ゆっくりとまるで早送り再生を見ているように発芽し、茎が伸び、真っ青な桔梗の花が咲いた。その花がゆっくり枯れて、種を作り、その種が零れると、零れた種の分だけ、また花が咲いていく。


 何度かその周期を繰り返すと、壁一面全てがその花で埋め尽くされた。同じ色の花びらが一気に咲き誇り、風に乗って全て散っていった。少しさみしくなるのに、深く美しい。


「すごいな……」


 弘人の横に立っていた天川がぽつりとつぶやくと、ああ、と弘人も素直に頷いた。


 壁の花が全て散り枯れると、今度はまた真っ暗な状態に戻り、また種が落ちてきた。同じ映像が繰り返されると思っていたが今度はひまわりが咲いた。その後は薔薇、藤の花、ブーゲンビリア、ユリ。延々と続く。全部の種類が終わるまで見たい気もしたが、少し疲れてきたので、先に行くと天川に告げると、天川も足を動かしてついてきた。後ろから天川が話しかける。


「君の事、苦手だった」

「俺もだよ」

「僕の事、嫌いみたいだし」

「別に。嫌ってはいない。嫌うほどお前の事を知ってるわけじゃない」


 俺の方が絵が上手いはずなのに、お前ばかり兄さんに褒められて、腹が立つ。そんな子供みたいなことは言えない。


「色々言われて、嫌われてるのかと」

「兄の仕事の関係上、注意しただけだ」

「そう……」


 天川が立ち止まったので、気になって振り返ると、天川は弘人の目をじっと見ていた。多分天川にこんなに真っすぐ見られたのは初めてだと思う。アートの光が反射して、瞳が青く光り、神秘的に映る。累さんは麗人よ、と評した桐子の言葉の意味を、弘人は今初めて知った。心の素直さが、顔に現れている。泣きそうな顔をしていた。悲しいのか。それとも、アートに感動したのか。言葉を待っていると、天川は言った。


「僕、もう浩詩さんのアトリエには行かないから」

「え?」

「もう行かない」


 弘人の諫言に耳を傾けたからそうするのか、それとも浩詩と喧嘩をしたのか。今までだって、腹が立つたびに口煩くしてきたが、弘人の言葉には何の力もないように思えた。何を言っても天川は浩詩のアトリエを訪問してきた。なのにいきなりどういう変化だ。


「それでいいのか」


 訊いてしまって、バカみたいに思えた。自分で散々来るなと言っておきながら、それでいいのかなんて。


「決めたんだ。どうせ、こんな右手じゃもう描けないし」

 

天川は上手く動かなくなった右手を、ぷらぷらさせた。


「ただのスランプだと思ってた。ちゃんと動かないのか」

「動くよ、生活に困らないくらいには。でも筆は……」


何度か手のひらを開いたり握ったりして、首を横に振り、言葉を呑んだ。


「……僕が怠惰なだけだよ」

「痛むのか」

「やる気がある人間なら痛くたって、描くさ」

「兄さんは、知ってるのか」

「浩詩さんは、絵のことしか頭にない人だから。描けるって」

「あの人は、絵が一番だから」

「うん、そうだね。絵が命だ」

「腹立たしいほどに」

「同感」


顔を見合わせて、二人は初めてお互いの前で少し笑った。


後ろから遅れてやってきた桐子は、二人を見つけると、勝ち誇った顔で言った。


「友人同士で語る醍醐味、分かったでしょ」

「友人、なのかな」

天川が訊いた。

「あら、違ったの」

意外そうに桐子が問う。

「友人てことにしておこう」


少しぶっきらぼうに言った弘人は、顔を隠して出口へ急いだ。

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