第1話 不幸のどん底

彼は、言葉がうまく話せなかった。

「オイ、なんか言えよ。」

同級生にそう言われても、彼は無言を貫く。

なぜなら、なんと言えばいいのか分からないから。

「チッ、こっち見てんじゃねーよ!!」

相手の方から彼に構ってきた筈なのに、彼等は因縁をつけて少年を袋叩きにした。

「……ッ!……ッ!?」

少年は必死に痛みに耐えた。

そうすることでしかやり過ごす方法を知らなかったからである。

「もう行こーぜ。」

少年を殴るのに飽きた彼等は、倒れる少年を置いてどこかへ行ってしまった。

(クソッ…!)

地面に蹲る少年は唇を噛み締めたが、そんなこと誰も気付きもしない。

なぜなら、この世界において少年の存在など微々たるものだから。


「……。」

ただいまも言えず、少年は帰宅する。

「おう、帰ったか。」

酒臭い匂いと共に、少年の父親が声をかけた。

少年は眉間に皺を寄せる。

「なぁ、金持ってねーかな?」

父親は玄関に立つ少年の肩に腕を乗せ、そう聞いてきた。

「…持ってない。」

何か答えねば殴られることを知っていた少年は返事する。

「チッ、使えねーな―。」

そう言うや否や、父親はさっさと少年の傍から離れて、また元の位置でテレビを見始めたのである。

(クソ親父…。)

少年は言葉は話せないが、心の中ではしっかりと話す。

そんな少年には趣味があった。

それは、絵を書くこと。

彼の頭の中で思ったことをそのまま絵に描き写してしまえば、それは現実となる。

言葉がうまく話せない少年でも、自分を表現できる唯一の手段だった。

少年は自分の机へと行き、描きかけの絵を出そうと机の引き出しを引いた。

だが…、

(あれ…?)

描きかけの絵が無くなっているのである。

少年が慌てて引き出しの隅々まで探っていると、

「あ、そーだ。」

父親が一枚の紙をヒラヒラさせてきた。

「お前、へったくそな絵を描いてんなー。」

そう言って父親はゲラゲラと笑った。

少年は父親に絵を描いていることを教えていない。

知られたくもなかったので、ずっと描き終わった絵は破いて捨てることにしていた。

けれども、昨日はちょうど気に入りの絵が描けてしまい、でも時間が無くて明日描こうと引き出しの中に閉まっておいたのである。

それをよりによって今日父親が引き出しを開けてしまうなんて。

「……ッ」

少年の目が血走る。

今まで受けてきた数々の酷い仕打ちが脳裏を横切り、少年はいよいよ我慢できなくなった。

「…お前ェエエーーー!!!」

少年は生まれてからこの方叫んだことのない声を出して、父親に飛びかかった。

横向けになって寝っ転がる父親の上に、少年がのしかかる。

「うぉ!?なんだ!!?」

父親は驚き、少年に抵抗した。

が、どちらも瘦せ型であるが、やはり少年の方が若く、しかも上にのしかかっていたのである。

少年は父親の首に手をかけた。

「ぐっ…!?」

父親が少年の下で呻き声を上げる。

それでも少年は手を緩めない。

「くっ…そガキが!!!」

父親は近くにあった酒瓶を手に取り、少年の頭に思い切りぶつける。

酒瓶が割れた。

少年の頭からは大量の血が流れる。

ぽたぽた…、と滴る血の音は、少年にとってとても心地よかった。

それでも少年は手を離さない。

目を開いたままその目は父親を見つめ、更に手の力を強める。

「ぐぇっ…!?」

蛙の鳴くような声を出し、いよいよ父親の顔は青白くなってきた。

それでも少年は手を緩めない。

父親が割れた酒瓶で少年を攻撃しようとした。

少年はそれに気付く。

だから、酒瓶を掴む父親の手首を掴んだ。

自然と手は離れ、少年と父親の間に距離ができる。

その間に逃げようとする父親を、少年は酒瓶の割れた部分で刺した。

「う”っ…!?」

父親が濁った声を出す。

そして、口から血が噴き出した。

(汚い血だ…。)

少年はぼんやりとそれを眺めながら、自分にも同じ汚い血が流れているのかと思うと辟易とした。

そのまま、父親は倒れる。

少年はそれをただ黙って見つめていた。

そしてこう思う。

(やってしまった…。)

これまで我慢してきた物を、一瞬でぶち壊してしまったのである。

少年は内心では焦っていたが、見た目ではそれが分からない。

感情表現の仕方を教わってこなかったから、というのが理由の一つだ。

だがそれだけではなく、これまで多くの辛いことを味わってきた少年にとって、今更この内側に流れる負の感情を感じた所で反応するだけの感性が衰えてしまったのである。

少年は、倒れた父親を放置して家の中から金を探し出す。

そして、家を出た。


彼は遊園地に来ていた。

一度も連れて来てもらったことがなかったから、一度は来てみたかったのである。

みんな楽しそうにしている。

(いいなぁ…。)

少年はそれを、まるで遠巻きに見るように眺めていた。

きっと自分も、何かが違えばああなれたのか、と。

何をどうすればいいのか分からず、とりあえず人が一番集まる所に行った。

列の先頭に行くと、

「オイ、並べよ。」

と後ろから声が聞こえてきたので、少年は大人しく列の最後尾に並んだ。

先頭まで来て、受付のお姉さんが

「何名様でしょうか?」

と言う際に、彼女は顔を顰めた。

きっと少年が臭かったのだろう。

こんなことは慣れっこだとでも言うかのように、

「1名です。」

と少年は答えて彼女からチケットを受け取った。

入場ゲートを通る際にも同様の反応をされたが、少年は無視して夢の門を潜った。

そこには、少年が予想もしない世界が広がっていた。

着ぐるみのキャラクターが歩き回り、子ども達がアトラクションに乗って笑っている…。

そんな光景を見て、少年は涙が出てきた。

(いいなぁ…。俺もこんな風になりたかった…。)

悲しみに暮れる少年は、まず先に観覧車に乗った。

昔から憧れていた乗り物だ。

どんどん上へと昇っていくその乗り物に、少年は興奮した。

(すごい…!)

まるで人が蟻のようだ。

小さな点になって歩く人々を見て、少年は(所詮自分もあんなものか。)と思う。

けれども彼等は人を殺していない。

それに比べて少年は実の父親を殺してしまったかもしれないし、そうでなかったとしても人生は絶望的であった。

(もう何も考えたくない。)

そう願っていた少年に同調するかのように、突然観覧車が止まった。

辺りの電気もすべて消え、静寂が訪れる。

「なんだなんだ!?」

「停電…?」

などの声が聞こえてくるが、少年はただ黙っている。

そして、人々の声にただ耳を澄ませていた。

(このままみんなが俺を忘れてくれればいいのに。)

誰も少年のことなど普段気にしていないが、それでも少年はこの他人の意識が余所に行く瞬間が好きだった。

暗闇も相俟って、少年の心を落ち着かせる。

「ハァ…。」

リラックスした少年は、観覧車の中で溜息を吐いた。

密室で音が少し籠る。

(これから先どうすればいいんだ…?)

と考えていた少年。

立って下を眺める。

ちょうど天辺で止まっており、地面が本当に遠くに感じられた。

(このまま飛び降りてしまおうか…?)

そうすれば、これ以上何も考えなくて済む。

と思ったが、少年は止めた。

まず扉は開かないし(外側から鍵がかけられているから)、飛び降りてどれだけの人に迷惑をかけるか…。

不特定多数の人間に避難される自分を想像して、少年はゾッとした。

少年はまた席に座ろうとしたが、その時、不測の事態が起こる。

巨大地震が起きたのだ。

観覧車の中にいた少年の体は揺れ、その拍子に扉へと勢いよく体当たりしてしまう。

すると、扉が開いた。

少年はなすがままに外へと出され、そのまま落下する。

(嘘だろ…?)

自分の様子を冷静に観察する。

まるで少年を追うかのように、観覧車全体が倒れ掛かってきた。

(欠陥工事かよ。)

難しい言葉を知っていた少年は、そのまま観覧車の下敷きになって死んだ。

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