第九十一話:『源氏』立つ~検証㊲~
※※ 91 ※※
灼がキッチンの
「お義父さん、大丈夫?」
返事はなく途方に暮れる灼は、
「お父さん、ここで寝たら風邪
ガブリと残りのワインを乱暴に
二人を見送り、姿が消えると、灼は
「……すまんな。両親の
俺は頭をガシガシ
「うちのパパも似たようなもんだし。気にしないで」
元々それほど
「平良。テーブルの上にある
「あいよ」
そんな
『頑張ってね! 灼ちゃん。愚息を押し倒して襲っちゃえ』
瓶のラベルに
(あ、あたしが平良を……するなんて、ありえないッ! でも、平良があたしを……するなら――って、何考えてるのよッ)
その俺がキッチンの隅で空瓶を手に、じっと自分を見ている、と灼は気付いた。
「こ、ここ……これは『モスト・ドゥーヴァ』といって、イタリア・モデナ地方の赤ぶどうを皮ごと
不自然に
「な、何よ……。黙ってて悪かったわッ」
背けた顔から、つっけんどんな声だけを受けた俺は急に起きた不可解な出来事を深く悩まずに、思ったことのみを
「まあ、それは別に構わないが……急にお前が動きを止めて、顔を真っ赤にするからどうかしたのかと心配しただけだ。ん? 何か瓶に付いてるけど――」
俺が目の前で
「あ……あ、あんたが気にすることじゃないわ。お義母さんからの
灼のいつものような声。僅かに頬を
「また、お前を困らせるようなこと書いてたんだろう。お袋には後で言っておくから見せてもらっていいか?」
「っダメ!」
と鋭く拒絶を口にした。
(い、いったい何なんだ!?)
軽い親切のつもりで何気ない声掛けを、厳しい態度で返された俺は驚くほかない。
(何かマズいこと、言ったかな?)
首を
「ご、ごめん。それよりもご飯を食べましょう。すごぉーく、お腹すいちゃった」
俺は灼が用意した赤ワインで煮込んだパスタ『ペポーゾ』
「ありがとう」
言いつつ灼は深めのスープ皿を二つ持って入ってきた。生クリームとチーズに混ざってジャガイモの匂いが食卓に広がり、俺の腹を
「言われた通り向かい合ってではなく、横並びにしたが……これでいいのか?」
ドラマで良く見る、男女が向かい合って乾杯するワンシーンのイメージが強い分、奇妙な違和感を覚えたが、灼はスープ皿を置き、改めて食卓を
「これでいいのよ。とにかく座って」
と、柔らかく
「
灼も隣に腰を落とし、『モスト・ドゥーヴァ』を注いだ。ワイングラスに透けて見える赤い水面が傾いて満ちてゆく。
「では……」
俺は脚を持ち、灼は両掌で包み込みようにお互いのグラスを突き合わせる。チンッと小気味良い音が響いた。そして
「うまいッ」
「……美味しい」
一気に気持ちが
「これは初めて食べるスープだな。丸い味でポタージュスープみたいだが、ソーセージが入ってるし……う、苦い野菜もあるぞ」
俺は思わず顔を
「それは『ズッパ・トスカーナ』というイタリアンソーセージと野菜のスープよ。苦い野菜はケールといってトスカーナ地方では家庭料理によく使われるわ。古代ケルト人が良く食してたから『ケール』と呼ばれるようになったくらい栄養価の高い野菜だから、しっかり食べてね」
「……まあ、お前が作ったものだから美味いし食べるけど。ケールって『マズい! もう一杯』のやつだろ?」
「うふふ。そんなに気に入ったのなら、また作ってあげるわ。それはそうと――清盛を本気にさせた小侍従の『
いざ改まって問われてみると、どこから話したものかと思いを
灼とは最近、いや二人の時は大部分の話題が歴史の話だ。今日ばかりはもっと気の
「どうしたのよ、平良」
と、先をせっつく灼に俺は
「っん。……じゃあ、始めるか」
思わず、
「定説では、頼政の嫡男・
その後、以仁王は『
俺はワイングラスを傾け、
「しかし平家の策は
以仁王と頼政・仲綱は大和国までの撤退防御戦を立案したが、宇治の橋合戦を含めて平家の追撃は激しく、宇治平等院で休息を取ろうとしたが、防御線を維持できずに討ち取られてしまう」
灼は感心しつつ、グラスの中の液体を飲み干した。再び注ぎながら、
「『平家物語』や『源平盛衰記』『吾妻鑑』にある内容だわ。
声だけは穏やかに、厳しく追究する。
「以仁王の乱は歴史的な評価として大きく取り上げられるけど、あんたが『定説では』と前振りするぐらいだから、歴史の影響に相違があるということかしら? 例えば――『源平盛衰記・佳巻』中の
別にあたしは
その全く純粋でない笑顔に俺は内心
「灼……、おまえには
実は
「いいわよ、しっかりと
何事にも挑戦する闘気を大きな栗色の瞳に宿らせ、
(なーんか、灼のテンション高いなァ。今日は
俺は軽い
「こ……、ここからは九条兼実の『玉葉』を
灼はワイングラスを抱くようにして赤い顔を伏せたまま、
「か、
声を抑えて
「俺の意訳だが――『玉葉・治承四年<1180>五月十五日条:晴天。……今夜、三条高倉宮<以仁王>が
噂が噂を呼び、話が大きくなったようだな。この時点で噂の
そして『同十六日条:一日中、晴れたり曇ったり。晩には小雨が降った。家司の
源以光、(本御名以仁、忽賜姓改、名云々)宜
右大臣の兼実ですら知らない事態が既に異常だ。この後、宣下が出るが不可解な出来事はまだ続く。
――『……始以光王可配土左國之由、宣下云々。而後被改仰
事態が見えない兼実の
聞きつつ灼は『クロスティーニ』の上に生ハム、チーズを
「それは、もう
モグモグ食べるついでの問い返しに、俺も皿の上へ手を伸ばす。
「続きはこうだ。
『――伝え聞いたところでは、昨夜<15日夜>、検非違使が到着した時には、以仁王は既に三条高倉邸を抜け出して、密かに三井寺の方向へ逃げた後だったという。実は三井寺と延暦寺は以仁王を奉じて謀反を
しかし事態を知った若宮が女院を救い出そうと、わざわざ潜伏先から戻って来たらしい。
……<中略>……後に聞いたところ、女院は連れ出されることはなく、
この辺りは内容が濃いので極力
――『吾妻鑑・同十六日条:今朝、検非違使が宮の御所を囲んだ。天井を壊し、板の間を
成立年代は鎌倉末期で北条寄りの歴史書だが、この記述は興味深い。検非違使が乗り込んだ『宮の御所』は以仁王の『三条高倉館』と解釈できるが『玉葉』と時系列を合わせると恐らく八条院御所ではないか、とも推定できる」
灼はパスタの上に添えられた『ペポーゾ』をフォークで差し、小さな口に運ぶ。
「平良の私見は後者なのね。あんたはさっき、小侍従の政治工作である『以仁王・臣籍降下』と、後白河院の身辺警護の強化を源氏で固めようとする『反平家・武装勢力』に対し、
俺は
「うん、そういう一面もある。八条院の女房たちは
重く深い声で言葉を継ぐ。
「とにかく率直に言って、小侍従の策が裏目に出たわけだ。だが、清盛の最終目的は以仁王の殺害ではない」
「と、言うと?」
灼の単純な問いかけに俺は再びチビリと、赤い透明な液体で
「つまり、八条院領の解体だ」
明確な答えを灼はもっと単純にする。
「平家一門による全荘園の独占。確かに分かりやすいわね」
『モスト・ドゥーヴァ』をグイッと一気に
「詳細な私見を述べる前に、最後の一つ。かなり長いが
――『玉葉・五月十七日条:晴天。伝え聞くところによると、昨日の巳の刻<午前十時頃>に八條宮<
だが、寺の中には入らず、周囲を武士が固め、先に八條宮の使者が迎えの書状を持って寺に入った。しばらくして使者が戻ってきて、本日の日没前に僧徒三十人ばかり連れて京の御所へお渡りになった。早々にお帰りになったほうが良いと伝えた。
時忠の使者と武士はそれを聞き、八條宮へ参り事情を問うと、宮が答えるには、(以仁王を連れて来た)僧徒と三井寺の僧徒が京都を出る相談をしていたらしいが、三井寺の僧徒が心変わりをしたようで(以仁王を連れて来た)僧徒が心変わりした僧徒を斬って寺を出たのだと。今となっては力が及ばないことだが、これよりは法に任せ、御沙汰を待とうと。
それを聞いた時忠の使者と武士は、時忠と宗盛に報告したが、その後、取り沙汰されたという話は聞かない。おおよそ武士の
それにより比叡山は八條宮が監督する地であるので、僧侶たちは以仁王には助力しないという内容の
だが、しかし巷の武士は諸国に散在する源氏の多くが以仁王に味方し、また近江の国人たちも同じく味方すると言う。世間の近況は全く収拾がつかず、真偽のほどは定かではない』
ここまでの内容を『歴史検証』していきたいと思うが――」
俺は灼自身気付いていない渋面に、軽い
「そう言えば、料理に口を付けてなかったな。腹も
フォークを差すと、ホロホロと
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