第18話 上司の問い
ジャンを追いかけたイサが辿り着いたのは、案内所の中庭だった。
医務室や寮へ向かう通路の間にあるもので、丸く円を描いた白い大理石の噴水と、ゆうに三十メートル以上はあろうかという楠に似た巨大な樹木がシンボルとなっている。足下には緑の芝生が広がり、そこに巨木によって生み出された木漏れ日が注いでいた。
天気の良い今日のような日には、ここでお昼を食べる案内人も多い。イサもその一人だ。
けれど噴水の縁に座り深く項垂れているジャンには景色など見えていないようだ。
彼は膝の上に両肘を置いて、組んだ手に額を預けている。そのため表情は窺えない。
ジャンの長い銀髪が力なく落ちて、今にも地面に触れそうになっていた。
「ムール統括長……!」
イサはジャンに駆け寄り、数歩先で立ち止まった。常には見ることのない上司のつむじを見つめながら、次に言葉を用意してなかったことに気付きどうしたものかと思案する。
噴水の水音を聞きながら、微動だにしないジャンを見つめた。
自分でもどうしてジャンを追いかけたのかはわからない。けれど、今ジャンを一人でいさせてはいけない気がした。絶対に、今彼を一人にしてはいけない。イサの直感が、そう物語っている。
「ムール統括長……そちらに行ってもいいですか?」
イサが尋ねてもジャンは答えない。こんなことは初めてだ。
いつも堂々と部下を見る彼の瞳が向けられないことに、イサは焦燥感を覚えた。ジャンがどうしてこんな風になっているのか理由は予想すらできない。しかし、きっかけが先ほどの念話にあることだけはわかる。何かがジャンの痛みの琴線に触れたのだ。
おそらくその理由は彼が呟いた一言にすべて凝縮されている。
(俺のせいだ、って……言ってた)
イサは考えた。
承諾を得られずとも構わずそっとジャンに近づき、彼の隣に静かに座りながら考えに考えた。
イサとジャンの間で、涼やかな風が通り抜けていく。
ふわり、とジャンの銀髪が揺れた。
(私……ムール統括長のこと、何も知らない)
案内所に来て間もないのもあるが、先日の出張案内と秘密がバレたことでほんの少し彼に近づいた気がしていた。けれど、実際のところはイサはジャンのことをほとんど知らないのだ。
仕事上では知っていても、プライベートなことは何も知らない。ジャンがどんな風に生きてきたのか、どんなところで生きてきたのか、まったく。
今断言できるのは、先ほどの念話がジャンを狙ったものであったということと、イサの身を彼が守ってくれたという、二つだけ。
(だったら、私が言えることは……決まってる)
ジャンが言った自分のせいだという言葉は、彼目当てでかかってきた念話によってイサが呪われかけたことにあるのだろう。自分に責任があるとジャンは思っているのだ。
しかしこれにはイサは全く同意できない。実際、元の世界でもストーカー紛いの電話を受けた事があるが、あんなもの達の悪い客のせいでしかないと知っていたからだ。
ジャン目当てだろうが何だろうが、そこに責任は一切無い。それだけは、イサは強く主張したかった。
たとえジャンのあの一言に、どれほどの深い重みが隠されていたのだとしても。
「……違いますからね」
イサはジャンの隣で、銀髪に隠れた彼の横顔を見つめて告げた。
「ムール統括長のせいなんかじゃ、ないですからね……!」
言葉に力を込めて、強く、伝われと念じながら諭すように告げる。
「わ、私は何も知らないですけど、それでも、あんな念話かけてくる相手が悪いんです! 呪いって何ですか呪いって! 私がいた世界でも変な人はいましたけど、輪をかけて変ですよ! なのでおかしいのは相手です! お客様を悪く言いたくはないですけど、私が言っちゃいけないかもしれませんけど、悪いのはあのお客様です……! というか、呪ってくるような人なんてお客様じゃありません! 私の世界じゃ、ああいうのは「一昨日来やがれ」って言うんです!」
ジャンが返事をしないのを良いことに、イサはここまで全部一息で言い切った。
少々鼻息が荒くなってしまった自覚はあったが、思い出すと段々腹が立ってきたのだ。問答無用で呪ってくるなど客ではない。魔物だ。あの黒い靄もそんな感じに見えた。
「だから……本当に、違いますから。ムール統括長のせいじゃ、ないですから」
もう一度、今度はゆっくりと語りかけた。そして一瞬躊躇ったものの、嫌がられたらすぐに引っ込めようと覚悟してジャンの肩口にそっと触れた。肩は僅かにぴくりと反応したが、引かれたりはしなかったのでそのまま遠慮がちに数回、擦るように撫でてみる。
昔、元の世界でイサが泣いているときに兄がこうしてくれた事があったのを思い出したのだ。
手当て、という言葉のもう一つの意味をイサが理解したのは、きっとあの時だった。そう思いながら、心で念じつつ繰り返す。
(良くなれ、良くなれ……)
上司に取るべき態度ではないとわかっていたものの、何もせずにはいられず子供をあやすようにジャンの肩を撫でた。
「貴方のせいじゃない……ムール統括長は、悪くない……だから、大丈夫。私も、大丈夫です。守ってくれてありがとうございます。ふふ、二度目ですね。昨日の出張案内の時も合わせたら、私もう二回もムール統括長に命を救われてます……って、あ。これ、どうやって恩返ししたら良いんでしょう? この世界って恩返しの方法とかってありますか? 私の世界だと笠地蔵っていう恩返しで代表的なお話があるんですけど、扉の前に野菜とか果物とか、食べ物を沢山置いていくっていう感じで―――」
蕩々と思い出した話をしゃべりながら撫で続けていたら、ふと手の甲に温もりを感じた。
は、と気付いた時、視線が合った。顔を少し傾けたジャンが、流れ落ちる銀髪の隙間からじっとイサを見上げていたのだ。
「あ―――」
少しだけ声を漏らして固まるイサの手に、ふわりと暖かいものが触れている。
それはジャンの手だった。上にそっと優しく重なった手が、次の瞬間にはぎゅうと強く、しかし痛くない程度に握りしめてくる。
透き通った氷色の瞳が、イサの時間を止めていた。
「……野菜は間に合っている」
「そ、うですか」
「果物もな」
「は、い……」
イサの取り留めのない話を聞いていたらしいジャンから返事をもらって、イサはどぎまぎしながら答えるのがやっとだった。何しろ、手を握られているのだ。そのうえ穴が空きそうなほどじいと見つめられている。ジャンはゆっくりと顔を上げ、身体をイサに向けたが、その間もイサの手を握ったままで、視線もイサに向けたままだった。イサは一体全体何が起こっているのだと少々混乱しながら、美しい上司の顔を見返すほかない。
「取り乱してすまなかった」
「いえっ! 私こそ押しかけて申し訳ありません……!」
「いや……君が来てくれて助かった。本当に」
謝るイサの言葉をジャンが否定する。そして、イサの手を握る指に少し力を込めて、真っ直ぐにイサを見つめふわりと微笑む。
(ひえ)
それを見た瞬間、イサの心臓が大きくどきりと音を立てた。
「身体は本当に大丈夫か」
「え、あ、はい。何ともありません」
聞かれて、正直に答える。ジャンは呪いの影響が無いかどうか再度確認しているのだ。
「少しでも異変があれば俺に言ってくれ。それと……ありがとう」
やはり手は握ったまま、ジャンは身体も顔も視線も全部をイサに向けて感謝を述べた。その際の、ジャンの表情は―――今まで見たことが無いほどに優しく、柔らかに、笑んでいた。そのあまりの美しさにイサは自分からジャンの隣に座っておいて、上司との距離が近過ぎる事に内心悲鳴を上げていた。心臓がやけに五月蠅くて、なぜだか顔まで熱い気がする。輝かんばかりの上司の微笑み。これはいけない。
イサは瞬時に思ってしまった。何より手、手が、まだ離れていない。ジャンとイサの右手と右手が繋がっている。イサの右手は掴まれているのだ、ジャンに。握りしめられているのだ、ジャンに。
そして二人噴水の縁で向かい合って座ってしまっている。
(なななな、何だろう、すごく焦る……!)
イサはどうして自分が内心慌てふためいているのかわからなかった。
上司が美形過ぎるせいかもしれない。あともうひとつ。
(どうしてそんなに、心底嬉しいみたいな顔をして、笑うんですか……!)
ジャンは木漏れ日の下、噴水の水音が涼やかに響く中でイサだけを真っ直ぐ見つめていた。
優しく微笑む姿はまるで精霊のように神々しくて、イサは自分の目が潰れてしまうのではないかと錯覚した。それくらい、ジャンの笑顔は目に眩しかったのだ。
「フロアの者達にも迷惑をかけたな。もう少ししたら戻る。ビルニッツ、君は先に戻っていてくれ」
「え、でも……」
固まっているイサにジャンが少しだけ表情を戻して言った。まだ薄く微笑んでいるので心臓に悪いのだが、言葉は普段通り業務にちなんだものだったのでイサの意識も何とか平常モードに戻ってくる。
しかし様子のおかしかったジャンを一人にするのが忍びなくてイサが躊躇うと、彼は握ったイサの手の甲を親指ですり、と撫でてきた。
(ひええ……!)
「もう大丈夫だ。君のおかげでな」
恐ろしく甘い仕草にイサが衝撃で目を白黒させていると、ふっと笑ったジャンが続けた。
「そう心配そうな顔をするな。すぐに行くから、フロアのみなにも伝えておいてくれ」
「わわ、わかりました……!」
イサがこくこく頷くと、ようやっとジャンが手を解放してくれた。慌ててイサは立ち上がり、数歩後ろに下がってからジャンに頭を下げて礼を取る。
「じゃあ、お先に失礼します!」
そう言ってから場を立ち去るためくるりと彼に背を向けた。
「―ー―ビルニッツ」
「はい?」
けれど、数歩進んだところで背中に声をかけられ振り返る。ジャンはまだ噴水の縁に座っていた。
噴水の水音と葉擦れの音が響いている。ジャンが口を開いた。
「イサ。君は………元の世界に、帰るのか」
小さく呟かれた言葉を、イサが捉えることは出来なくて、イサは振り返ったまま首を傾げた。
「え? あの、今何て」
「いいや。何でもない」
聞き返したものの、ジャンは首を横に振って片手を上げて先に行けという身振りをした。
イサは頭に疑問符を浮かべたまま、ひとまず言われた通りフロアに戻った。
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