第17話 イタ念

(さっきのって、別に私は必要なかったよね……?)


 自分の席に戻る途中、イサは首を傾げていた。


 ユッタとのおしゃべりを怒られるかと思っていたのに、雷が落ちるどころか昨日の出張案内の報告書について話したいと言われたからだ。そのうえ、着いていったは良いが、実際はほとんど何もすることが無かった。報告書はすでにジャンが完璧に仕上げていたし、イサがやったことと言えば目を通して頷いただけである。


そもそも昨日の出張案内についてはジャンが同行していたので、上司である彼が書いたものにイサが不可と言えるはずもない。


ジャンが公明正大なのは確かだが、正直イサの必要性は感じなかった。

その後はジャンに言われて彼の補助的業務をしたものの、それも特にイサでなくとも誰でも良かったように思う。


(そういえば、やけにユッタのこと聞かれたなぁ……)


 作業の合間にジャンからいくつかユッタの事について聞かれたのを思い出す。


 といっても簡単な質問ばかりだ。


 彼とは仲が良いのかとか、休みの日も一緒にいるのかだとか、世間話といえば聞こえは良いが、普段のジャンからは考えられないプライベートな話題を振られて少々困惑してしまった。


 まあ特に聞かれて困るようなこともないので普通に答えたが。


(ユッタは単なる同僚ですって言ったら、何だか嬉しそうだったような……?)


 そればかりでなく、休みの日は寮の部屋に籠もって知識不足補填のための勉強をしていると言ったら驚くほど褒められた。それは正直嬉しかったものの、どちらかというとユッタについて答えた時の方が喜んでいたように見えたのは、イサの気のせいだったのだろうか。


 イサにはジャンの機微がてんでわからなかった。


 ―――そんなこんなで、夕方。


 あと一時間ほどで業務が終了になろうかという時、イサはようやく自分のデスクへと戻った。


 すると、ちょうどユッタが他の案内人と話していた。一つ上の先輩案内人だ。


 ユッタは人懐っこい性格で話しやすいのもあってか、同僚や先輩からよく声をかけられている。念話の着信が落ち着いた時や休憩時間になると、他の案内人達が彼の席によくやってくるのだ。


 今はどうやら着信が落ち着いたところらしい。


 イサの席は二つ隣なので、一応先輩案内人に向けて会釈をしてから席へ座ろうとした。間に座っているはずの同僚は、きっとトイレ休憩だろう。


 しかし、イサが戻ってきたことに気付いたユッタに声をかけられ、顔を上げる。


「イサ! なあ聞いてくれよー。俺もう三回連続でイタ念なんだぜ。流石に飽きてきたわ!」


 ユッタはやれやれ、と首を左右に振りながら、呆れ顔でため息を吐いた。話していた先輩案内人はイサに気付くと挨拶代わりに片手をひらりと上げ、それじゃあと一言告げてから自分のデスクへと戻っていく。イサも軽く頭を下げた。


(なるほど。イタ念か)


 どうもユッタと先輩案内人はイタ念について話をしていたらしい。


「三回連続はすごいね。それに他の人の迷惑だし」


「だよなー。緊急の人だっているかもしれねーのによ」


 席に座りながらイサが同意すると、うんうん、とユッタが頷き愚痴を零す。


流石の彼もイタ念は楽だが業務に支障をきたしかねないと危惧していたようだ。人の命も関わる業務だから当然だろう。


 今のように暇な時間帯ならまだ良いが、魔物の活動が活発になる夜に近づくほど着信数は増えていく。


 けれど、イタ念の犯人はそんなことおかまいなしだ。夜だろうがそれこそ朝だろうが関係なくかけてくる。


 イタ念一本分、短時間とはいえ案内人が一人塞がってしまうのだ。

 一刻を争う事態の場合、その短時間すら命取りになる。


「ついこの間までおさまってたらしいんだけどなぁ。ここ二、三日くらいで復活したらしいんだよ。さっきの先輩がそう言ってたぜ」


「そうなんだ。あれ? でもなんで復活したんだろ?」


 受信の準備をしながらイサが言うと、ユッタは肩を竦めてみせた。


「さあな。一応イタ念は受信記録で限度数を超えたら術で弾かれるようになってるらしいけど、わざわざくぐり抜けてまでかけてくる奴がいるってことなんだろ。すげえ執念だよまったく」


「迷惑な執念だね……イタズラにそんな労力かけなくて良いと思うんだけど……」


 うへえ、と嫌そうな顔でイタ念相手を別の意味で賞賛するユッタにイサが苦笑すると、彼はああ、と何かに合点がいったように顎に手を当てた。


「まあでも、執着する理由があるからだろうな」


「……理由?」


 ユッタの含んだ言い方にイサが問いを投げた時、ちょうど彼の念話受信機がプルルと鳴った。


「おっと。噂をすれば、かな」


 ワンコールが鳴り止む前に魔石マイクをオンにしたユッタが定型の口上を述べている。


 イサもそれにならって自分のデスクで受信待機の体勢になった。


「お客様、恐れ入りますお客様ー? あ〜……くっそ、またかよ」


 苦々しさを滲ませるユッタの声からして、どうやら本当に当たったようだ。これで四度目とは流石に気の毒になる。


「またイタ念?」


「そそ、本当しつっけーよなー」


「何が楽しいんだろうね」


「あー、まあ、大体目的はわかっちゃいるけどなぁ」


「え、そうなの? っと」


 話している途中で、今度はイサの受信機が鳴り始めた。どうやらユッタはイタ念犯人の目的を知っているらしいが聞く暇はない。イサは魔石マイクをオンにして、少し息を吸い込んで口上を述べ始めた。


「お念話ありがとうございます! シュトゥールヴァイセン案内所、イサ・ビルニッツでございま、」


「ちょっと! さっさと出なさいよ!!」


 すべてを言い終える前に怒鳴られて、イサは思わずうわっと顔を顰めた。甲高い女の声が耳を突く。


 慌ててスピーカーの音量を下げた。


「も、申し訳ありませんっ」


 そして思わず謝罪を口にする。これはきっと日本人としての性だろうな、と思いながら、さっさと出ろと言われたがイサはちゃんとワンコール鳴り終わる前に出たし、今はまだ受信も少ないためコール待ちも無いはずなのになぁと内心少しだけ愚痴った。


「はあ? 何その声。アンタ、まるで女みたいな声してるわね……だけど案内所は女は駄目なはずだし。ちょっと! 声変わりもしてないお坊ちゃん! アンタに用はないからジャンを出しなさい!」


 すると、相手はイサに難癖をつけたかと思えば、なぜかジャンを呼びつけた。


「えっ!?」


「え、じゃないわよ! ジャン・ムールよ!! いるんでしょう!?」


 どうしてジャンを名指ししているのか、しかもフルネームで? とイサが戸惑うのを無視して、念話の女性はがなり立てる。イサの異変に気付いたのか、ユッタの視線を感じた。


「あ、あのっ」


「早くしなさいよグズね!! 客の言うことが聞けないの!?」


 イサの声に女性は聞く耳を持ってくれない。困り果てたイサはひとまず上司の判断を仰ぐべきかと考えた。しかし、相手はジャンを名指ししているが、いきり立った様子からどう考えても要警戒人物に思える。


  ジャンの友人にしては態度が横柄過ぎるし、業務関係などにしても念話があるならば全体周知がなされている筈だ。しかしそういった連絡は無かった。ということは、もう少し踏み込んだ方が良いかもしれない。時折いるのだ。案内人目当てにしつこく念話をかけてくるストーカー紛いの客が。


「あのお客様、本日はどういった―――」


 ひとまず用件を聞いてみようとイサが口を開いた時、唐突に女の金切り声が聞こえた。


「五月蠅いうるさいうるさいいいい!! アンタに用はないつってんでしょおおお!? 出さないつもり!? ジャンを出さないつもりね!? だったら覚悟なさいゴミ屑!!」


「え」


 怒鳴り声のすぐ後、ぞわ、とイサの背中が怖気だった。その瞬間。

 頭に付けていたヘッドセットの重みが消えた。


 驚いたイサが目を瞠った先、すぐ真横でジャンがそのヘッドセットを床に叩きつけていた。ガシャン!と盛大な音がして、ヘッドセットがばらばらに砕け散って破片が飛んでいく。


 同時に、ヘッドセットの残骸からおかしな黒い靄が立ち上っていた。それはうぞうぞと生き物のように蠢き、まるで真っ黒な蜘蛛が這い出してきたかのように触手をあたりに伸ばそうとしている。


(な……!?)


「っビルニッツ! 無事か!?」


「ムール統括長?」


血相を変えたジャンがイサの両肩を掴んでいた。ゆさゆさと揺さぶられて、イサはわけもわからないままこくこく頷く。


「だ、大丈夫です……!」


 そう返事をすると、ジャンは心の底から安堵したように大きく息を吐いた。そして、痛みを堪えるかのような表情で小さくぽつりと「良かった」と呟く。


(な、何? 一体どういうこと?)


「またしても……!」


 混乱するイサを余所にジャンが憎々しげに履き捨て床のヘッドセットを睨み付けた。そしてイサを離して向き直ると、片足を上げてヘッドセットを黒い靄ごと足で踏み潰してしまう。


(ええ!?)


ばきばき、と盛大な音を立ててヘッドセットがより無残に壊れていく。同時に黒い靄が「ぎぃぃぃ」と硝子を爪で引っ掻いたような耳障りな悲鳴を上げて消えていった。


「エキディウス! あの女の回線は切り離してあったはずだ! なぜ受信している!!」


 ジャンが他の案内人達が念話中なのも無視して怒鳴り声を上げた。ただでさえ驚いていたイサは、常では考えられないほど激高しているジャンを見てあんぐり口を開けたまま固まっていた。


「また抜けられたみたいだな。一体どうやったんだか……あー……うちのプロテクト破れそうなのっつたらまあ、あの馬鹿どもくらいじゃないか」


「くそ……っ」


 フロア前方奥から歩いてきたエキディウスが苦々しげに答えると、ジャンは床で砕けたヘッドセットを睨み下ろし悪態をついた。その姿に、フロアにいる誰もが驚きを隠せずにいる。しかし念話は常にかかってきているため、みな業務を続けながらちらちらと驚きと困惑でもってジャンやイサ達に注目していた。


(ムール統括長が……こんなに怒るなんて)


 ヘッドセットの奇妙な様子から、おそらく自分が危なかったのであろうことはわかった。あの黒い靄は決して無害ではなかっただろう。あの女性の客から、イサは念話越しに危害を加えられる寸前だったのだ。それを、ジャンが止めた。そして彼は部下が害されようとしていたことに激怒したのだ。


(でも……何というか、怒っているだけじゃ、なくて)


 イサには、ジャンがなぜか酷く傷ついているかのように見えた。歯を食いしばり、怒りに目を鋭く吊り上がらせているというのに、燃える氷色の瞳の奥に、不思議な痛みを見た気がしたのだ。


「い、イサ……無事で良かったなほんと……あれ付けたままだったら、お前今頃……」


 壊れたヘッドセットを睥睨するジャンを見つめていたイサに、ユッタが声をかけた。振り返ると、青ざめた表情のユッタが恐々としながらジャンの足下にあるヘッドセットに目をやる。彼につられて視線を向けたイサは、そこで始めて忘れていた恐怖がせり上がってくるのを感じた。


(そ、そうだ。私、統括長が助けてくれなかったら……)


 ヘッドセットをジャンが壊してくれなければどうなっていたのか。

 あの黒い靄は出てきてイサに何をするつもりだったのか。


 耳に入り込んでいたら? 首を絞められていたら? 口から入っていたとしたらどうなっていたのか? 死んでいたのだろうか? どれほど苦しんでいたのだろうか? 


 そう思うと、今更ながら恐くなり肩が小刻みに震え始めた。


「あ……」


 イサはざあっと全身の血液が降りていくのを感じた。体温が下がり、ぶるぶると全身が震え始める。これほどまでに他人からの強い悪意に晒されたのは初めてだった。命の危険をこうも感じたのだって。


(出張案内の時は、ムール統括長がいたから気にしないでいられたんだ……)


 ドラゴンと対峙した時とは違う。先ほどのは、たった一人イサにだけ向けられた悪意だ。


 イサは思わず自分で自分を抱きしめた。恐ろしかった。始めて感じる底の知れない恐怖の感覚だった。


元の世界なら、電話越しに殺されるなんてことはなかったけれど、ここでは違う。

死の可能性があるのだ。それを、今になって実感する。


ここは日本ではないのだと知っていたはずなのに。もう四ヶ月近く暮らしているというのに、きっと本当の意味で理解していなかったのだとイサは自分でショックを受けていた。


「……エルトーラスが君の様子がおかしいと内線してきたんだ。女の声が聞こえると言っていたから、嫌な予感がして来てみれば案の定、君が呪われかけていた」


「呪われ……」


 慄くイサに、ジャンが説明をしてくれる。どうやらユッタが彼に知らせてくれたようだ。イサはユッタの方を見て感謝を告げた。


「ユッタ、ありがとう」


「いいってことよ」


 にかっと笑って答えてくれたユッタだが、彼の顔も青ざめている。それはそうだろう。普段彼も頭に付けているヘッドセットからあんな奇怪なものが出現したのだ。しかも、それは呪いだとジャンは言う。


「あの黒い靄は呪術師が使う呪霊シャ・パの一種だ。声が呪いとなって耳にした対象に取り憑き、自我を狂わせ死に至らしめる」


 死、という直接的な言葉にイサはぎくりと肩を強張らせた。それほどに危険なものだったのだと、なんとなく察してはいたが実際言葉にされると衝撃が違う。


「この案内所にはあらゆる外部術式の解呪式が組み込まれている。破壊さえしてしまえば後は勝手に浄化され、効力は消える」


「そう、なんですね……」


 確か新人研修の時にそういった講義を受けた覚えがある。だから比較的安全だし、出張案内など、イレギュラー以外では余程のことがなければ危険は無いと聞いていた。だが今回起こったのはその余程のことらしい。


「ビルニッツ」


「は、はい」


 説明を終えたジャンが唐突にイサを凝視した。そのあまりに強い視線の力にイサは一瞬驚く。


「あの女は」


「え」


「あの女は、何と言っていた」


 眉間に深い皺を刻み、鋭い視線のままでジャンがイサに問う。イサを責めているわけではない。部下を害そうとした相手にこそ怒りは向けられている。けれどイサは、ジャンの表情に混じる悲壮感をどうしてか感じ取っていた。ジャンは酷く辛そうだった。まるで、自分のせいでこうなったと言わんばかりに強い自責の念に駆られているように見える。


「とうかつ、長を……ムール統括長を、出せ、と」


「そうか」


 言って良いものかどうか、イサは瞬間的に悩んだ。しかし誤魔化すこともこの状況では出来なくて、ありのままを口にする。


 その瞬間、ジャンの氷色の瞳が暗く陰るのを見てしまった。


「そうか……やはり、俺のせいか」


(―――え?)


 言って、ジャンがぐしゃりと自分の前髪を掴んだ。銀色の真っ直ぐな髪が彼の手の中で乱れている。


「俺がここに、いるせいで」


 ぽつりと誰にともなくつぶやかれた言葉を、イサが拾ったのはもしかすると奇跡だったのかもしれない。


 けれどくるりと踵を返した白い背中を見る寸前、目に入った顔面蒼白のジャンの表情に、胸を貫かれた気がした。まるで、この世のすべての絶望を背負ったかのような虚ろな瞳をしていた。いつもの生気は無く、鋭さも消え、まるでこの場にいる誰も見えていないかのような空虚を滲ませていた。


 イサは一瞬彼がジャンなのかどうかわからなくなったのかと思った。それくらい、ジャンの様子が普段とはがらりと変わったのだ。


「おい……!」


 焦ったようなエキディウスの声がした時には、ジャンはすでにフロアを出て行こうとしていた。


 いつもの彼なら誰かが自分を呼んでいるのに無視するようなことはない。たとえエキディウスが冗談で彼を呼びつけたとしても、必ず返事だけは返している。なのに、ジャンは振り向かなかった。まるで幽鬼のように、ふらふらとした足取りでフロアを出て行く。誰も追いかけない。違う、追いかけられなかったのだ。


 ジャンの背中がすべてを拒否しているように見えたからだろう。


 エキディウスも、他の案内人達の誰一人としてジャンの背を追いかける者はいなかった。


が―――イサだけは違った。


「ムール統括長!!」


 エキディウスが振り返る。他の案内人達も声の方向を見た。


 イサが走り出していた。イサの靴の裏が見えている。イサは、ジャンが背を向けたと同時に彼の元へと駆け出していた。


 そして、ジャンがフロアの扉から消えると同時に、イサも扉の向こうへと消えた。


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