【三題噺 心・沼・声】忘れ沼

 私の故郷だった村の外れには、淀んだ水で満たされた、家一軒分ほどの広さの沼があった。「沼にはまる」「沼に落ちる」との言葉から多くの人が連想するような、黒い汚泥が水面近くまで折り重なった生き物の気配もしない沼だ。そこらで拾った枝を差し込んでみればずぶりと沈み込み、かき回そうとすれば枝が耐えきれず折れてしまうような、そんな沼だ。


 沼にはが潜んでいると言われていた。正体は分からない。沼の汚泥の奥深くに籠っているからだと言う。


 私の村は沼に――その何かに呪われていた。


 村に住む者が村の外で暮らし始めると、決まって同じ夢を見るようになる。夢には汚泥を泡立たせた沼が現れ、そして男か女か、そもそも人間かも形容しがたい声が、夢を見ている者の名前を何度も何度も繰り返し呼びかける。ふつふつと汚泥をかき分け浮かんでくる泡は、まるで奥に潜む何者かの呼吸のようであり、日を追うごとに声は近づき泡立ちは大きくなる。最終的に夢がどのような結末を迎えるのかは誰も知らない。その時が来るより前に、皆恐れをなして村に戻ってくるからだ。


「もう二度とあの夢を見たくない」


 村に戻ってきた者は、色を無くしながら口を揃えて言う。

 とはいえ目まぐるしく技術発展が進む現代において、時代から取り残された村で生涯を終えるという事は耐え難い拷問だ。成人を目前にした若者を中心に、村を出ていこうとする者は後を絶えなかった。

 

 かくいう私もその1人である。正直なところ、私自身は村での暮らしに一定の満足感を覚えてはいたのだが、せっかくなら一度村の外に出てみるのも良い経験だろうと3つ上の兄に唆されたのだ。兄はもちろん“夢”を見ており、あの恐ろしい思いを弟も味わうべきだと思ったのかもしれない。


 しかし結果から言えば、私は今に至るまでその恐ろしい夢とやらを見た事はない。夢で見ずとも、現物がすぐ側にあるからだろうか。

 村から離れ、適当な下宿を借りて一夜を明かした後、朝の風を浴びようとベランダに出た私が見たものは、下宿の裏庭の真ん中にさも当然かのように鎮座するあの沼だった。

 

 故郷に手紙を送ると、数日経たずに名主の老爺が下宿を訪れ、喜色満面の笑みで以下のような事を語った。


 曰く、この沼は不定期に移動を繰り返しており、その契機となるのが“沼に気に入られたものが沼の縄張りの外に出る事”だそうだ。どのような人物が沼に気に入られるのかは一切分かっておらず、前回の移動で沼が故郷の村に来てから、およそ数百年経っている事からもその気まぐれさが分かるだろう。

 しかし私が気に入られた事で、ようやく村は沼から解放された。村民一同を代表し、心からの感謝を申し上げる……との事だった。


 私と、この周りに住んでいる人はどうなるのですか、と聞いた。


 老爺は喜色満面の笑みを浮かべたまま、


「また沼に気に入られる者が出れば、あなたも皆さんも自由の身ですよ」


 と答えた。



 あれから何十年も時が経った。沼は相変わらずあの場所にある。下宿はとうに壊され、今はそこから少し離れた一軒家が私の終の棲家だ。

 

 つい最近、近所に住む恵美が3人目を生んだらしい。たしか父親は5軒隣の健人だったか。子供の頃よく私に悪戯を仕掛けてきた正幸は、遠い町の女性と遠距離恋愛の末に結婚する事になったのだとか。相手はここに住む事を了承してくれたのだろうか。こうして幼い頃から知っている者たちの育った姿を見ていると、1人の人間の成長を追える事は1つの利点なのではないかという邪な考えが浮かんでしまった。


 近頃、そろそろ生きるのにも飽きたという感じがする。こうも変わり映えのしない毎日は、どうにも心を沈ませてたまらない。沼をちょっと覗き込んでみると、濁った黒い水面に疲れ切った顔をした私が映る。時折泥の中からあぶくが出でて、何とも表現しがたい声が私を呼ぶ気がするが、結局は疲れた心が作り出した幻想なのだろう。


 どうせ悼んでくれる人もいない身だ。最後はあの沼に身を投げて泥の中に沈んでいくのも悪くない。もしかすると底に潜む何かに遭えるかもしれないし、私自身が沼の何かだったというオチも、それはそれでいいように思う。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る