最終話 異世界に行っても数学はあった
医師の話によると、病院に運ばれてきた俺は、ほとんど死んでる状態だったらしい。だが俺はそこから奇跡的な生命力を見せ、手術から二日後に意識を取り戻した。そこからメキメキと回復し、一週間後には退院となった。
あまりに早い回復に、医師はまるで魔法のようだと言っていた。
事故の後遺症もなく、俺はすぐに高校へも戻れた。朝から登校して授業を受け、放課後は四人で数学をする。今までと何も変わらない、楽しくて充実した日々が戻ってきた。
そうやって元通りの生活を過ごすうちに、だんだんとあの世界の記憶が薄れてきた。
背理法のない不思議な世界。
あの世界は、本当に存在したのだろうか?
死の間際の俺が見た夢だったのではないだろうか?
目の前の出来事が現実だと証明することは、実は不可能だ。それが記憶となればなおさらだ。あの世界が夢や幻であった可能性を、俺には否定することができない。
なにしろ俺は、あの世界から何も持ち帰ってきていない。素数の一般項も、リーマン予想の証明も。ぼんやりとは覚えているが、細部はすっかり忘れている。覚えないようにしていたからだ。
せめて素数の一般項くらいは覚えておくべきだっただろうか。そうすれば、あの世界が実在したかどうか、わかっただろうに……。
そんなもやもやとした想いを抱えながら、俺は平和な日常に慣れていった。
気にはなる。でも、気にしたってどうしようもないことでもある。あの世界が夢でも現実でも、今のこの生活には大して影響しないのだから。
退院からしばらく経った。
俺は、事故に遭ったあの交差点で、工事が行われているのに気づいた。道路脇に高い棒が立っている。
「これ、なんだろう?」
俺は一緒に下校していた三人に聞いた。
「仮設中の信号機だろうな」
賢一がすぐに答えると、有梨も同意した。
「だろうね。立て続けに事故が起こったからね」
「え?」
いま、気になることを言わなかったか?
「立て続け? 俺のとき以外にも、ここで事故があったのか?」
「そうだよ。知らなかった?」
「たしか中学生の女の子が車に轢かれて……」
「その子は亡くなったんだよ。可哀想にな」
中学生の女の子……?
胸騒ぎがした。
「それは、いつだ? その子の名前は?」
「名前は知らないけど……」
「楯太郎が事故に遭う三日前だよ。五月八日だ」
五月、八日!?
俺は覚えていた。
美法が事故に遭ったのも、俺が死ぬ三日前。五月八日だった!
「三人とも、先に帰っててくれないか?」
「え、いいけど……」
「どうしたんだ?」
「ちょっと用事を思い出した」
俺の適当な嘘を、三人は信じてくれた。
ひとり残った俺は、必死に記憶を探った。
たしか美法は、学校に行く途中で事故に遭ったと言っていた。そして美法は中学生だった。
ここから一番近い中学校は、この交差点から坂を上った方角にある。なら、美法の家は、逆に坂を下った方角にあるんじゃないか?
俺は坂を下り始めた。この先は住宅街だ。
一軒一軒の表札を確認しながら練り歩く。
ここらに家は無数にある。道だって複雑だ。そんな中から、場所も知らない目当ての一軒を見つけるのはほとんど不可能だ。
だけど、俺の足は何かに導かれるように、自然と分かれ道を曲がっていた。
そしてあっさりと、「大鉾」と書かれた表札を発見した。
珍しい苗字だ。同じ苗字の家が、何軒もあるとは思えない。
俺は確信に近い気持ちで、インターフォンを鳴らした。
数秒後、無造作に玄関が開いた。
「はい。……どちら様?」
出てきたのは、気怠げな中年の女性だった。俺を見て、不審そうな目をした。
「あの、ここ、大鉾美法さんの家であっていますか?」
「そうですけど……あなたは?」
「俺、立神楯太郎といいます。美法さんの友人です」
「あの子に友人が?」
美法は不登校の引きこもりだった。友人と呼べる相手はいなかったに違いない。ましてや俺は高校の制服を着ている。怪しむのは当然だ。
「美法さんに会いに来たんですけど……」
「あの子はいません」
きっぱりと言って女性はドアを閉めようとした。
「あの、わかってます! お線香をあげに来たんです!」
女性は手を止めた。そして数秒迷ったあと、俺を家に入れてくれた。
女性は美法の母親だと名乗った。どこで知り合ったのかと聞かれたので、インターネットだと答えておいた。数学の議論をするサイトだと言うと、納得したようだった。
俺は二階の洋室に通された。
六畳ほどの子供部屋だった。ベージュ色のベッドと、木製の勉強机、そして洋服ダンスが置かれている。小さい本棚には、数学や科学の本がみっちりと詰まっていた。
そして、勉強机の上に、仏壇が置かれていた。
開きっぱなしの観音扉の奥に、遺影が飾られている。
そこには、ひとりの少女が写っていた。
生意気な顔をした、俺がとてもよく知っている少女。
間違いなく、美法だった。
その瞬間、あの世界で過ごした数十日間の記憶が、鮮明に蘇った。
俺の両目から、大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちた。
「美法……イリハ……」
嗚咽とともに、俺は二人の名前を呼んだ。
「夢じゃなかったんだ……。美法もイリハも、本当にいたんだ……!!」
その場で泣き崩れながら、俺は決意を固めた。
俺は、数学者になる。
数学者になって、この世界の数学を少しでも前へ進める。
いつか、イリハと美法に再び会ったとき、胸を張ってこの世界の数学を紹介できるように。
異世界に行ったら背理法がなかった 黄黒真直 @kiguro
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