第24話 翻訳作業

 気が付くと、俺の周りには紙の塚ができていた。

 小さなテーブルに座って紙の束を読んでいたが、いつの間にか、俺の後方にどんどん紙が溜まっていた。

 周りの人たちは、もっと良心的な……もっと少ない量の紙を前に格闘しているが、俺だけがこのありさまだ。


「いやぁ、すまないね」

 小柄な数学史家のトドルトさんが、すまないと言いつつ、とてもワクワクした表情でまた紙の束を持ってきた。

「ひとまず、いま頼めるのはこれで全部だ」

「これ全部やるんですか」

「別に今日中にやれって話じゃないよ。それに、本当はもっとたくさん……いやなんでもない」

 まだあるのかよ、と俺は辟易した。



 チャンスというのは突然訪れるが、俺の場合は昨日訪れた。

 イリハと美法が、帰って来るなり俺に言ったのだ。


「数学史家のトドルトさんって、覚えてるか?」

「ああ、あの……最終試験のとき、背理法を知ってた数学者の人?」


 あのとき、試験官を務めた数学者五人のうち一人だけ、背理法を知っている数学者がいた。彼は数学の歴史を調べている数学史家で、最近研究していたクユリ人の文献に、奇妙な論法が使われていたと言っていた。それが背理法だったのだ。


「今日、城の廊下でトドルトさんに偶然会ったんだ。で、楯太郎を連れて来てくれないかと頼まれたんだ」

「え、俺? まさか、討伐隊に入れるのか!?」

「いや、違う」

 美法は俺の期待を一蹴した。

「古文書を読んで欲しいんだそうだ。クユリ人の残した、大量の文献のな。彼らには読めない部分もたくさんあるらしいが、翻訳魔法と背理法だけは得意な楯太郎なら読めるだろうと考えたようだ」

「だけって言うな」


 しかし、これは朗報だ。城に入り込めるなら、魔王についての情報を得る機会もあるかもしれない。そしたら、俺が先回りできるかもしれない。

 それに、クユリ人の文献なら、魔王について書いてあるかもしれない。もし、まだ誰も知らない魔王の情報を得られたら、それを材料に、討伐隊への登用を交渉できるかもしれない。

 俺は二つ返事で承諾した。



 で、いま、俺は紙の塚に囲まれている。

 この紙は、クユリ人の文献をコピーしたものらしい。いつぞや美法がやっていた、本を丸々コピーする魔法に似たやつだ。


「それじゃ、口述筆記を始めようか」


 テーブルの向かいにトドルトさんが座り、紙を出した。これは魔法の紙で、俺が喋ったことが記録されていくらしい。

 つまり俺は、クユリ人の文献を目で見て、翻訳魔法で変換された文章をただ読めばいいということだ。そうすると、俺が喋った日本語が現代ライデ語に翻訳され、紙に記録されていく。

 この魔法の製作はそれほど簡単なことではなく、結構苦労したらしい。研究者の一人がめちゃくちゃ得意気に早口で仕組みを説明してくれたが、俺には全くわからなかった。


 とにかく、仕事を始めよう。俺は紙に書かれた文章を日本語で読み始めた。


「第一章。まずは本書で用いる語を定義する。数とは、本書では特に断りのない限り、1以上の整数とする。素数とは、……」


 正直、内容はあまり頭に入っていない。間違えずに正確に読むことで頭がいっぱいだからだ。もし間違えたら一度止めて、トドルトさんが修正する。なるべく間違えない方が効率的だった。


 本一冊分読むと、喉がカラカラになる。俺が水を飲んでいる間に、トドルトさんが内容をざっと確認していた。


「この本には背理法は使われていなさそうだね」

「そうっすね」

 俺には内容の精査はできなかったが、背理法が使われているかどうかくらいは、なんとなくわかった。


「よし、次に行こう」

 とトドルトさんはすぐに次の紙の束をテーブルに置く。まるでコピー機かタイプライターになった気分だ。


 幸いと言うべきか、クユリ人の文献は、一冊一冊は薄かった。そもそも太古のものなので、一冊丸々残っている本は多くないそうだ。渡された紙の束も、中途半端なところで終わっていたり、途中から始まっていたりするものが多かった。


 そうして何冊目かの本で、ついに背理法が登場した。

 その部分を翻訳し終えると、トドルトさんは文面を何度も読み返しつつ、うなった。


「ううむ、やはり時々出てくるね、背理法」

「割合としてはどのくらいなんですか?」

「あまり多くはなさそうだ。ここ数日でわかってきたけど、背理法を実際に使っていたのはほんの数人……せいぜい五人ってところじゃないかな」

「五人?」


 俺が聞き返すと、トドルトさんは楽しそうに答えた。


「表紙が残っていない本は著者がわからないけど、筆跡とか文章の特徴とかから、どの本とどの本が同じ著者のものかわかったりするんだよ。背理法を使っている本は今までひとまとめにしてたんだけど、少しずつ分類を始めててね。どうやら五人分くらいありそうなんだ」


 なるほど、本が残っているとそんなことまでわかるのか。


「その紙、見せてもらっていい?」

「どうぞ」


 いま読んでいた紙をトドルトさんに渡すと、彼はまたうんうんうなったあと、

「これは『1番』さんかなぁ」

 と言った。


「1番さん?」

「正確には『は-1番』さん。背理法を使う五人のうちの一人だよ」


 ちょっと待ってね、と言って、トドルトさんは席を立ち、やがて1枚の紙を持ってきた。


「これが『は-1番』さんの書いた背理法。文章の書き方が似てるでしょ?」


 正直、俺にはよくわからなかった。

 でも、トドルトさんが楽しそうにしているのはわかった。太古の人々の様子が少しずつ明らかになっていくのが、嬉しくて仕方がないんだろう。


 研究者だ。

 数学者とは少し違う分野の研究者だけど、俺にもその喜びは少しわかる気がした。


 数学のことが少しずつわかっていくのは、嬉しい。今はまだ「勉強」している身だけど、これがいつか「研究」になったときも、同じように楽しいに違いない。

 ……だけど、俺にその資格はあるのだろうか。

 勉強が楽しくても、研究が楽しめるかどうかは、わからない。それに、本当にそこまでの情熱を持っているかも、わからない。


「トドルトさんは、どうして研究者になったんですか?」

 思わず聞いていた。

「ん、僕? そうだねぇ……正直、研究者になるつもりなんて、全然なかったんだけどね」

「え、そうなんですか?」

「そう。僕は元々、図書館員になりたくってね。公教育を終えたあとは図書館の訓練生をやってたんだけど……実は図書館員って、文献学をやってる人も多いんだ。訓練生の間に文献学の講義も受けて、気が付いたらそっちの道に進んでた」


 日本とは教育システムが全然違うから、俺の参考にはならない話だ。しかし日本にだって、同じような人はいるかもしれない。気が付いたら研究者になっていた、という人が。

 もしかして、俺もそのくらい気軽に考えていいんだろうか……?

 考えるほどよくわからなくなっていく。


 それに今は、帰った後のことより、帰る方法について考えなきゃいけない。将来のことは、帰ってから考えたって遅くないんだ。

 俺は休憩を終えて、次の紙を読むことにした。


 そして、その紙で、俺は驚くことになった。

 それはたしかに数学の本のはずだった。何かの証明の後ろの方だけが書かれている、ごく短い断片だ。

 だが、その証明の後ろに、こう付け足されていた。


『以上が、今では魔王と呼ばれる女性、オルセーア・アブサードが考案した別証明である』


「……えっ!?」


 魔王は女性だったのか!?

 いや、驚くのはそこじゃない。


「魔王の証明だって!?」


 俺の叫び声も紙に記録されてしまったが、トドルトさんにも修正する余裕がなかった。


「ほ、本当にそう書いてあるのかい? 魔王の証明だって?」

「は、はい」


 俺はもう一度、証明をよく読んだ。どうやら、三平方の定理の証明のようだ。俺の知っている証明方法ではなさそうだった。おそらくこの本では、三平方の定理が何通りかの方法で証明されているのだろう。


「続きは何か書いてあるかい?」


 トドルトさんが急かしたので、俺は続きを読んだ。

 文章の続きは、数学の話から逸れ、魔王の略歴が書かれていた。


「『最後に、我らが同志オルセーア・アブサードについて、わずかだが記録しておこう。

 恵みの天使の年に、信心深いアブサード夫婦の長女として誕生。「正しき者」を意味するオルセーアと名付けられる。

 両親は教育熱心で、1歳の頃から文字と神学を教え始める。

 3歳のとき、初めて魔法を使用する。

 8歳になる頃には初級魔法は一通り使えるようになる。

 10歳からは神学校に通う。成績は常に1位で、飛び級ののち、15歳で首席で卒業。

 3年間の修業を経て、18歳のときにセンメルヌ教会で史上最年少の神官となる。

 同時に、神学研究会「センメルヌス」を立ち上げ、数人の同志とともに神学を深める。

 22歳のとき、神の不在を証明する本を執筆。翌年、その罪で封印される。』」

(数はすべて十進法に直して読んだ)


 俺が読み終わると、トドルトさんは全身を震わせていた。

 いつの間にかに集まっていた他の研究者たちも、動揺していた。


「これは、ものすごい史料だ」

 震える手で、訳文が記録された紙を取る。

「他の文献から、もしかして魔王は神官だったのではないか、とは言われていたのだ。否定的な研究者も多かったが、この史料はその裏付けになる……。それだけじゃない。いったいなんだ、センメルヌスとは。他の文献には出てこない。数人の同志とは誰だ。いったいそこで、何をしていたんだ?」


 早口でまくしたてる。彼の目にはもう、俺の姿は映っていなさそうだった。

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