- 第弐之伍節 - 「会談」
勢いの衰えない連日の猛暑は、人々の体力や気力を否が応でも奪っていく。
千葉都市モノレールで県庁前駅に到着した藤本と工藤の二人が、列車からホームに降りると、もわっとした熱気が包み込み、二人の体力を奪いにかかろうとする。
足早に改札を抜け、焼き付くような暑い日差しの中を歩き、駅の目の前にある県庁の建物に入ると、省エネのため抑えられた冷房とは言え、ひんやりとした空気が包み込み、二人ともホッとする。
受付で知事との面会を伝えると、二人は知事室の応接間まで通された。
「先生、遠いところわざわざお越しいただき、ありがとうございます。」
二人が応接間に入ると、40代半ばの知事が二人を出迎えてくれた。
「昔に比べたら、随分早く来られるようになったから、気にせんで良いよ。」
「そうおしゃられましても、先生と我々若輩の時間感覚は異なりますから、気にしてしまいますよ。」
そう言って2人を招き入れた知事は、
「取り敢えずは、冷たいものでもいかがですか。それとも温かいものになさいますか。」
と聞いた。
「いや、冷たいものが良いな。こう暑いと冷房が効いていてもさすがに堪える。」
藤本の返答を聞いて、知事は秘書に冷たいお茶を用意するよう言い付けると、二人に着座を促して、
「確かに暑い日が続きますからね、今日も35度を超えてるそうですから。お身体の調子はいかがですか。相変わらずお元気そうに見受けられますが。」
そう言って、藤本の体調に話題を振った。
「ああ、お陰様で調子は良いよ。暑さに堪える以外はね。健康診断でも、特段病気らしいものは見つかってないし、医者にも40代か50代ぐらいの身体だとお墨付きを貰ったからね。」
藤本がそう応えると、
「それは、良いですね。先生にはまだまだ我々を導いていただきたいので、いつまでもお元気でいてくださいね。」
知事が少し心配そうな表情で言った。
「ありがとう。健康には人一倍気を遣ってるつもりだし、この工藤がまた口うるさくてな。」
藤本が悪戯小僧のような表情でそう言うと、
「会長、私を出汁に使わないでください。」
ピシャッと工藤に言い返されて、藤本は大きな声で笑い、ほらなっと言う視線を知事に送った。
冷たいお茶が運ばれてきて、二人が口を付け、一息ついたところで、
「早速ですが、先生、今度の観光プロジェクトについて、色々ご意見をお伺いしたいのですが、よろしいですか。」
そう知事が切り出した。
「もちろん、そのつもりで来てるからな。ただ、知事さんが望むなら健康談議で終わらせても構わんよ。」
そう言って藤本は笑う。
「またまた、ご冗談を。」
知事は笑顔で返しながら続けた。
「今回のプロジェクトは、南房総のリゾート再開発となります。
再開発と言いましても、状況は現在頭打ちで、予算も人員も大きくは割けない状態です。その原因の一つは感染症の蔓延による経済的、社会的打撃が大きいためで、回せる予算が大幅に減ってしまいました。」
そこで、知事が二人に数枚の資料を手渡して、話を続けた。
「こちらの資料をご覧ください。」
資料にはプロジェクトの概要と、千葉県の予算概要や、人口推移、人口流動動向に、観光客需要などの統計資料がいくつか記載されていた。
「先生もご存じの通り、少子高齢化は我が県でも喫緊の問題でありまして、県の人口推移は、平成23年度に初めて減少に転じたことを皮切りに、増減を繰り返し、現在も横ばいが続いています。
これを踏まえ、〔独自の自然・文化を生かした魅力ある千葉の創造〕と銘打って、地域振興に100億円からの予算を取り、市町村や関係団体と連携して、移住、定住を促進する情報発信を、インフルエンサーなどにお願いしています。また、その移住、定住の支援として、企業と労働者のマッチングや、子育て支援情報の発信、そして地理的、文化的な千葉の魅力を発信することで、地域振興の一助になればと考えて、この予算を活用しています。
ところが、残念なことに、現状皆さんのご協力やご努力が実を結んでおらず、今後県の人口は更に減少傾向に推移し、このままでは、25年後に10万人が減少すると予測されています。
しかしながら、幸いにもここ数年、社会増減数に関して言えば、1万人ほどの転入超過で推移しておりまして、一条の
ただ、その超過分の半数近くが外国人の転出入によるものなので、長期的な定住者という意味では、実質的な増加傾向とは言いがたく、一抹の不安も残っています。
そこで、この現状を打開すべく、移住、定住に至らないまでも、千葉の魅力に触れてさえ貰えれば、その波及効果を期待できると考え、一時的にでもビジネスや観光などで来訪して貰えるよう、働きかける必要があると思っています。
大型リゾート施設やメッセなどを有するベイエリアや
この現状を打開するためにも、
観光資源の環境整備による再開発と、情報発信の強化による入込客数の増加を目指し、南房総地区をまずは重点的に再開発し、底上げを図ろうと言う計画になります。
集客力のある大型施設のマザー牧場やドイツ村、鴨川シーワールドからの波及効果を、周辺地域に行き渡らせるのが、この計画の目標になりますが、旧来のような箱物に頼った集客ではなく、むしろ何もないをコンセプトとした、房総の自然や景観を前面に売り出していこうと考えています。
例えば
〔房総再発見〕のような形で、あまり人が訪れていなかった場所、観光地としてまだ認知されていない場所にスポットを当て、観光客を呼び込もうと言うのが、このプロジェクトのコンセプトになります。
今挙がっているのが、ハイキングコースやサイクリングコースの整備で、海岸線を歩いたり、自転車に乗って散策できる場所を提供し、周辺の飲食店などに集客しようと言う案です。
ただ、職員からは、観光地に行っても、『ふーん、こんなところか』と一瞥して終わってしまい、すぐにとんぼ返りしてしまうことが多い、と言う意見も挙がっていまして、単に集客をしても、経済的な活性化には結びつかないのではないかと言う懸念もあり、滞在時間の延長や経済的な活性化を再開発とどう結びつけていくかが、今後の課題になると考えています。
そこで今回、是非先生のお知恵を拝借し、よりよいプロジェクトにしていきたいと愚考している次第です。先生のお考えをご教示願えますでしょうか。」
知事の説明を聞いた藤本は、腕を組み、テーブルに並べた資料を眺めながら、しばし考えを巡らせて、おもむろに口を開いた。
「人口減少時代が到来して、確かに箱物観光の時代は既に終了したと言うのは頷ける。
それに対し、自然景観を観光資源にと言う考えは、確かに理にかなっているのかも知れない。SNSの普及でいわゆる〔映え観光〕は右肩上がりと聞くし、消費行動そのものが〔モノ〕から〔コト〕へとシフトしているなかで、体験を売りにするのはまさに時代に沿ってるとも言える。
しかし、他県のような集客を見込める自然景観が、我が県にあるとお思いか。それこそ二番煎じ三番煎じになっていないと言えるか。
鋸山は確かに珍しい景観として、比較的成功している方だろう。地獄のぞきでは外国人観光客もよく見かける。フェリーやアクアラインを利用すれば気軽に東京や神奈川から来られるのも、魅力の一つかも知れない。海ほたるとセットのツアーも良く目にする。
しかし、それだけだ。知事のおっしゃるとおり、それを起爆剤とした周辺への波及効果、特に南房総への波及があまりに少なすぎる。
後押しするとおっしゃったが、何を後押ししようと考えているのか。周辺の飲食店の紹介で、後押しした気になっていないか。
そんなのは、一般人のSNSや、観光地とか飲食店の紹介サイトなどに譲るべきで、県のやることではないでしょう。
さらに言えば、周辺への波及効果を望むなら、地元だけではなく、周囲の観光地にまで波及しなければ、何のための波及効果か。
むしろ、県が考えなければならないのは、そう言う細かな部分ではなく、別のところ、マクロ的視点にあるのではないのか。
予算や人員が確保できないというのであれば、民間ができることは民間に任せて、県にしかできないことをやるべきだと思うが、いかがですかな。」
藤本のありふれた、そして的を射た指摘に、
「確かにおっしゃるとおりです。ご指摘の通りで、我々が考えていたのは、まさに地域の飲食店や宿泊施設の紹介で、観光ポータルサイトの立ち上げなども念頭に置いておりました。やった気になっているつもりはありませんが、確かに民間に委ねるべきことだったかも知れません。
ただ、お言葉を返すようですが、県内の民間企業による情報発信は、やはり遅れているようですし、情報の偏りも目立ちます。誰かが手綱を握る必要があり、それはやはり県の仕事であると愚考します。」
知事はそう応えて、探るような目で藤本の意見を待った。
「確かに、知事の仰ることも、ごもっともでしょう。引率者がいなければバラバラになる、それはその通りだ。しかし、今県がやろうとしていることは、手綱を握る
民間企業やインフルエンサーを単なる乗客にして、箱に押し込めようとしている。箱物が時代遅れだと言いながら、箱を用意する。あまりにお粗末ではないのか。
発信したい情報があれば、民間は自ずと発信する。遅れや偏りがあるのは、それだけ発信したい情報がないからに他ならない。
厳しい物言いになるが、おんぶに抱っこの民間が自立して、主体でやらなければこのプロジェクトは成功しない。」
「我々は関わりすぎだと、そうおっしゃるのですね。」
「いや、関わり方の問題だと言っておるのだ。良いアイディアはどこから出てきても構わない。それが職員からでもだ。しかし、そのアイディアを民間に押しつけるのは、手綱を握るとは言えない。それは単に鞭を入れているだけだ。
馬の声を聞き、調子を推し量り、無理をさせず、危険から守り、行きたい方向に導くのが、御者であり、手綱を握ると言うことではないのか。
民間の意見を集め、情報を分析し、連携させることが肝要ではないのか。
私の個人的な意見、民間人の一人として、一つ言わせて貰えれば、交通網の連携がまったく取れていないことが問題の肝だと思っておる。
例えば知事は、鋸山に登山した後、次にどこに向かう。」
かなり厳しいことを言われ、意気消沈していた知事は、藤本からの突然の質問に、頭がついていかなかったのか、えっと言う表情を浮かべ、
「やはりドイツ村かマザー牧場でしょうか。子供たちが一番喜ぶと思いますし。ただ、季節が合えば
少し考えた後、そう知事は答えた。
「まあ、その辺りが妥当なところだね。養老渓谷の紅葉は私も好きだ。山一面に色づかないところが、奥ゆかしくて、散策していて見つけた時の感動は一入なんだ。」
藤本がそう言うと、
「そうですよね。あの感じ私も大好きです。」
知事も同意し、硬かった表情がほんの少し
「話を戻すが、そこに向かう足はどうする。」
藤本は更に質問を続けた。
「私たちは、やはり車ですね。子供たちもまだ小さくて、電車やバスでは移動に苦労すると思いますので。」
逡巡しながら知事は答えた。
「娘さんたちですよね、いくつになりましたか。」
「上が中2で、下が小5ですね。」
子供の話に、知事の表情も父親の顔になり、少し笑みがこぼれた。
「来年は高校受験か。それは大変だな。下のお嬢さんがまだ赤ん坊の頃に会ったきりだから、また機会があれば会いたいね。
まあそれは置いておいて、移動の話に戻すが、確かにその年頃のお子さんたちがいるなら、結局マイカー頼みになるんだよ。
私が言いたいのは、そこ。
千葉に訪れる、特に南房総に訪れる、ほとんどの人がマイカーでの移動になっている。だから、週末や休日には大渋滞し、移動するだけで、運転手だけでなく家族全員が疲弊する。疲弊するから足が遠のく。そういうスパイラルに陥っている。
公共交通機関が破綻していなければ、そんなことは起こらないだろう。子供の手を引かなければならない家族が、マイカーを使用するのは仕方ないだろうが、そうでない世帯には、公共交通機関を使って貰った方がどれだけ良いか。そうは思わないか。」
藤本の言葉に、
「仰るとおりです。」
そう頷くしかない知事の表情から、また笑顔が消えた。
「この問題を解決するには、やはり連携が重要だと私は考えている。例えば入場券などとバス乗車券をセットで予約販売すれば、定期路線を作らなくても、コストを抑えてバスの運行ができるでしょう。空きがあれば当日販売をすれば良いし、予約状況によって車両の大きさを変更すれば、コストを抑えることは可能なのではないか。
車両や運転手のシフトがあるだろうから、一朝一夕にできる話ではないだろうが、観光地同士の移動が便利になれば、マイカー利用が減り、公共交通機関の利用が増える。そうすれば、バス会社にも大きなメリットが生まれると思うが。いかがかな。
さらに言えば、列車との連携がスムーズならば、バスと列車の併用も利便性が上がるのだろうが、現状特急列車を大量に廃止し、運行本数を減らしていることを考えれば、それは難しいだろう。
ならば、なおさらバスの活用を考えるべきだし、しなければならないと思う。
さらに言えば、若者の自動車離れが言われて久しいが、現在、運転免許保有率を年代別で見ても、10代が2割弱らしいが、それはまあ致し方ないとしても、20代が7割前後で、30代でも8割ほどになる。その上の世代が軒並み9割を越えていることを考えれば、やはり自動車離れ、免許離れが加速していると言わざるを得ない。
そもそも免許すら持っていない人が増えている中で、公共交通機関がないとなれば、自ずと足が遠のくのは自明の理。免許がないのだから、レンタカーという選択肢も当然なくなる。」
藤本の言葉を受けて、この日何度目かの
「仰るとおりです。」
そう言って知事は続けた。
「確かに、若者に向けた情報発信をいくらしても、足がなければ来たくても来られませんね。免許保有率が下がっていることは失念していました。
ただ、公共交通機関、特にバス路線の維持は、死守すべき課題であることは、我々も重々承知しておりますので、先生のアイディアを参考に各バス会社と協議していこうと思います。」
そう知事は応え、道筋を見出したような顔つきになった。
「まあ素人アイディアだから、どういう形が落としどころになるかは分からないが、それぞれの観光地を移動するのにストレスがなくなれば、自ずとV字回復が少しは望めるのではないかな。」
「そうですね。私もそう願います。」
知事は少し光明が見えたようで、表情に少し余裕の色も浮かんだ。
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