第24話 枕返し vs アップデート②
まだ夢の中にいるのかと……起きた瞬間は、そう思った。
「これって……」
枕元に置かれていた最新機種を見て、ぼくは何度も目を擦った。CMでバンバン放送されている、あのスマートフォンの最新機種だ。信じられない。あれほど反対していたのに、一体どういう心境の変化なのかしら。
「おはよう、悠介」
「うわぁっ!?」
突然部屋の扉を開けられ、ぼくはパジャマ姿のまま飛び上がった。
「モーニングコールしたでしょう? 気づかなかった?」
「モ、モーニングコール??」
真新しい画面を見ると着信が残っていた。ぼくはびっくりして、何度も携帯の画面とお母さんの顔を交互に見た。
「お母さんが買ってくれたの!?」
「悠介が欲しがっていたでしょう?」
お母さんはニコニコしながらそう言った。ぼくはポカンと口を開けた。まだ信じられなかった。モーニングコール??
我が家でそんな洒落た起こされ方をしたのは初めてだ。いつもなら、近所迷惑なほどドスドスドス! と大きな足音を立て階段を登ってきて、ガンガンガン! と血に飢えた怪獣の如く扉を叩きまくるのに。
大体こんな朝っぱらから、お母さんが笑顔でいるはずがない。あり得ない。お母さんは毎朝血管が浮き出るほどイライラしながら「早く朝食を食べなさい!」と金切り声を上げるのが常だ。それなのに、今朝はまるで人が変わってしまったみたいだった。
「breakfastの時間よ」
「何それ?」
お母さんが、電話口でしか出さない猫撫で声でそう言った。てっきり新しい格闘技番組か何かかと思っていたら、朝食のことだった。一階に降りていくと、見たこともないほどの皿の山が、テーブルに所狭しと並べられていた。
「な、何これ……?」
「今朝はFrenchのCours completにしてみたの。Entrées chaudesはいかが?」
「何て??」
ぼくは豪勢なテーブルの前でぼう然と立ち尽くした。まだまだこれは始まりにすぎないようだった。キッチンに入ると、まな板の上でモゾモゾしているロブスターと目が合った。ぼくは言葉を失った。
「bonjour、mon fils」
突然流暢なフランス語で話しかけられ、驚いて顔を上げると、いつもお父さんが座っている席に、見知らぬ外国人が座っていた。
「だ、誰!?」
「アップデートしたのよ。あなたのお父さんじゃない」
「はぁっ!?」
「pas de surprises、Le monde est en constante évolution」
「何だって!?」
「良い子だから早く席に着いて悠介。冷めちゃうわよ」
まだ夢の中にいるのか。まるで狐に抓まれた気分だった。突然お父さんがフランス人になってしまったと言うのに、お母さんは何一つ動揺していない。謎のフランス人が、鴨肉を口に運びながら器用に白い歯をぼくに見せつけてくる。ぼくは急に恐ろしくなってしまった。
「どうしたの? お腹空いてないの?」
「い、いい……ぼく、もう学校行かなくちゃ!」
一体何がどうなっているのか。試しにぼくは頬をつねってみた。痛い。ということは夢ではないのか。出かける前、恐る恐るリビングを覗くと、二人がロブスターを挟んで食前のヨガに励んでいた。何て澄み切った目をしているんだろう。まるで何かの儀式か、悟りを開いたみたいだ。ていうかあのフランス人は誰なんだ……?
異星人がぼくの家を乗っ取りに来たと言われても納得できる。何だか薄気味悪くなってきて、ぼくは逃げるようにして小学校へと走った。ぼくの手の中で、狐色のスマートフォンが、嬉しそうにキラキラと輝いた。
「おはようございます、悠介様」
「おはようございます、悠介様」
「誰だよ」
教室に行くと、舞踏会にでも行くような煌びやかな正装で、健太と秀平が恭しく頭を下げてきた。ぼくは普通に引いた。
「今度は何の悪ふざけ?」
「悪ふざけ? 冗談でしょう!」
「アップデートですよ、悠介様。私たちは常に、世の中を良い方向へと改善し続けています。最高の環境で最高の教育を受ける。それが私たちに課せられた義務なのです」
「何だか落ち着かないなあ」
ぼくはそわそわと教室を見回した。健太たちだけでなく、他の生徒たちも何故かビシッと正装でキメている。切れかかった蛍光灯はいつの間にか豪奢なシャンデリアに、窓ガラスは七色のステンドグラスに変えられていた。ハロウィンの飾り付けだろうか? ぼくは首をひねった。昨日は確かに、こんな装飾はなかったはずだけど……。
「またぼくをからかってるんでしょう?」
「からかう? とんでもない!」
「嘘だあ。いつもぼくをいじめてるくせに」
「いじめてるだなんて!」
突然健太と秀平がポロポロと大粒の涙を溢し始めたので、ぼくはギョッとなった。
「ど、どうしたの!?」
「ああ、悠介様、お許しください!」
「へぇっ!?」
「そんなつもりはなかったんです! そんなつもりはなかったんです!」
「どうか私たちの日頃の無礼を! その寛大な心で!」
「分かった! 分かったから泣くのをやめて!」
一体何事かと皆がこちらを興味津々で覗き込んだので、ぼくは恥ずかしくなって二人を制した。健太と秀平は床に頭を擦り付けんばかりの勢いで、何度もぼくにお礼を言った。ぼくは背筋が寒くなった。随分と手の込んだイタズラだった。何かがおかしい……今朝目が覚めた時から、まるで違う世界に迷い込んでしまったみたいだった。
授業が始まっても、不可解なことだらけだった。伊藤先生は、普段宿題をしてこない生徒には厳しいのに、その日はニコニコしたまま小言一つ言わなかった。それどころか
「宿題をしてこない、それも立派な個性じゃない。今は多様性の時代よ。アップデートしなきゃ」
などと訳の分からないことを言っていた。給食で嫌いな野菜を残した生徒がいても、ガミガミ言わないし、当てられた算数の問題が分からなくても叱ったりしない。
ただ一言、
「アップデートよ」
と言って、なんとその生徒たちを早めに家に帰らせた。そして次の授業の時間帯には、椅子にクマのぬいぐるみが座っているのだった。中には早く帰りたいがためにわざと失敗する生徒も出始めたが、ぼくはどうも薄気味悪くて仕方がなかった。
「来なさい、アップデートよ。分かってるでしょ」
「はい……」
そうやって一人、また一人……と教室から生徒が減っていった。その日の午後。体育の授業中、『全員で一緒に一位になる』と約束していたのに、不注意で一人だけ遅れてしまった生徒がいた。するとたちまち職員室中から先生が飛び出してきたのには驚いた。
「なんてことをしてくれたんだ!」
「時代に逆らう気か!?」
「アップデートしなきゃならん。こりゃアップデートしなきゃ」
先生たちは泣き出す生徒をぐるりと囲み、深刻な顔で囁き合った。
「お願いします、私を消さないでください……」
「ならん。弱い部分は改善せにゃ。弱さは要らないんだよ。これからは新しい時代だ、君はアップデート対象だ」
「お願い……やめて! お願……」
遅れた生徒は先生たちに引きずられ、何処かに連れて行かれた。その間も、運動場にはずっと泣き声が響き渡っていた。
「どこに行くんだろう?」
「何のことですか?」
「え?」
ぼくは先生たちの背中を指さした。だけど健太たちは、いや他の生徒の誰も、連れて行かれた生徒のことを心配していなかった。
「何で悪い部分を気にする必要があるんですか?」
「え……?」
「良いじゃないですか、別に。これで僕らは『全員一緒に一位になる』って目標が達成できたんですから。これでアップデートできたじゃないですか」
「あいつのせいで目標が達成できなかったんでしょ? じゃあ消されて当然じゃないですか」
「気にしなくて良いですよあんなの。ああいうバグは、いずれ取り除かれる要素だったんです」
「そんな……そんな言い方ってあんまりじゃないか。あの……」
そこまで言って、ぼくはハッとなった。
ついさっきまでクラスメイトだった生徒の名前を、ぼくはなぜかすっかり忘れてしまっていた。
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