2024年作

 鏡に映る私に、恐る恐るキスをした。


 特に意味はない。

 ただただ愛情が、唇に欲しかった。



 自分を愛せるのは私だけだと、詩人は唄う。

 ヒンヤリとした鏡面は、物淋しさだけを跳ね返した。


 他人(ひと)は鏡だと、誰かが言った。

 そんなのは真っ赤な嘘である。

 「固い友情」も「淡い恋」も、報われたことはない。



「よぅ、そこの辛気臭い顔した嬢ちゃん。鏡見てみな、ひでぇ顔だぜ」


 薄汚れた安っぽい手鏡を押し付けてきた見知らぬ老父に、間に合ってます、とだけ冷ややかに返答した。



「なんでぇ、ずいぶん冷たい子だね。 せっかく綺麗な顔立ちなのに、勿体ねぇ」


 その歳になれば、若い子なんてどれも一緒くたに可愛く見えるものでしょ、と内心 呆れて毒を吐く。



「知ってるか? 鏡は先に笑わないんだぞ」


「……は?」


 何を当たり前のことを、と思わず怪訝な顔で老父を見れば、「やぁっとこっち見た」と欠けた薄黄色の前歯をニカッと覗かせていた。


 お世辞にも綺麗な笑顔とは言えないのに、深く刻み込まれた笑いジワには、晴れやかなシアワセが映っている。


 なんとなく居心地が悪くなって、私は初めに確認せねばならないことをようやく問いただした。


「ところで貴方、誰なんですか」



 そう尋ねると、老父は突然ビクビクとしながら遠慮がちに口を開いた。


「……君の未来の姿、って言ったら怒る?」


「当たり前でしょうふざけないでください」


 何を言い出すのかと思えば、こいつは。

 語気を強めて、怒りを露わにする。



「まぁ『私』なら、こんな話を聞いても信じないだろうけどなぁ──年老いたオレから言わせれば、オンナもオトコも、カコもミライも、境界線なんてものは曖昧なもんよ」


「……大きなお世話です」



 同性の友人に、恋をした。


 私のことを好きだと毎日言ってくれていたものだから、思い上がって告白して玉砕、そして疎遠になった。



 物心ついた時から、拭えぬ違和感。

 何が私を、私たらしめる?



「そろそろ帰ろうかね……それじゃ、達者でな」


 老父はそれだけ言い残して、振り返らず去って行った。


「あっ……忘れ物」


 ベンチに置き忘れられた、あの汚らしい手鏡。

 思わず手に取ると、妙な既視感を覚えた。



 それは人気(ひとけ)のない昼下がりの公園で、独り虚しくキスを落とした、手持ちの鏡。


──愛しいあの子がくれた、あの鏡。



   2024/08/18【鏡】

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