第1回「ひなまつり」


『或る男子大学生の場合』




「あたしの雛人形、すごいんだよ」


 学部一の美女、相川さんがそう言った。意味深な目つきで、まっすぐ俺を見ながら。雛人形というのが何かの比喩かと思うような口ぶりだった。場所が安居酒屋で、映画研究部の飲み会の席じゃなかったら、つまり安くてもレストランでふたりきりだったら、俺はコンマ秒で勘違いしたはずだ。


 春休みの間も、映画を見てはディスカッションするという名目で飲み会を開いているわけだが、話題はすぐに脱線し、フェリーニの「甘い生活」は「甘いあられの思い出」にすり替わっていた。


 サークル内でも突出して話の上手い井口の地元が茨城で、階段に雛人形を飾る町があるとか、そんなことを話してる最中だったと思う。隣に座っていた相川さんが、俺の肩を人差し指でチョンチョンとっついて、くだんの台詞を囁いたのだ。


 俺の頭は一瞬で真っ白になり、「へえ、そうなんだ。いいね」と、親指を立てるのが精一杯だった。


 それからの一時間、俺と相川さんに進展はなく、二次会始発コースの人と、終電余裕コースの人に別れて解散となった。


 都心は路線の選択肢がたくさんある。その他大勢とともに地下鉄の入り口へ向かおうとする俺の左袖を、数少ないJR組の相川さんがつまんで、引っ張った。


「さっきの……。見せたいんだ、きみに」


 彼女の潤んだ瞳は恥ずかしそうに俺と地面を行き来し、酒のせいか紅潮しているように見えた。俺が酒のせいで錯乱しているのでなければ。


「今日、親もいないし……」


 あとは何も考えられなかった。ただ「うん」と上擦った返事をして、彼女に手を引かれるまま知らない電車に乗り、知らない駅で降り、知らない住宅街を歩くしかできなかった。


「ここだよ」

と、相川さんは、大きな木々に隠れるようにして佇んでいる小さな鉄製の門を開け、砂利を踏んだ。


 古い日本家屋だ。昭和がみなぎっている。そりゃ立派な雛人形があるお宅だもんな。などと余計なことを考えていないと前をいく彼女の短いスカートに集中してしまう。


 待ってくれ、あんなに短かったっけ? 飲み会の時は全然意識してなかったけど、もしかして最初から俺狙いで勝負服ってやつを着てきたんじゃ?


「おじゃましまー……」


 沸騰する頭にクラクラしながら家に入った俺は、フリーズした。


 上り框に腰を下ろして靴を脱ぐ相川さんの背後に、巨大な鳥の骨格標本が、いまにもこちらに飛んできそうな姿でぶら下がっていたのだ。


「こっちよ、早く」

「あ、うん」


 逃げたほうがいい? 童貞卒業のチャンスが目の前に転がってるかもしれないのに? たかが鳥の標本でビビって帰るのか? お父さんの趣味かもしれないじゃないか。


 自分に言い聞かせながら、促されるまま廊下を抜けて和室へ。廊下から漏れる光で、部屋の奥に天井につきそうなほど大きな雛壇があるのはわかった。相川さんが部屋の中央で照明の紐を引く。


「わあ!」


 ぱっと明るくなった部屋で、俺は無様に尻餅をついた。


「だ、大丈夫!」


 慌てて助け起こそうとする相川さんの腕を、思わず振り払いそうになった。


 立派な雛人形の頭は、どれも鳥の骨だったのだ。


「あ、あの、これって……」

「雛人形だよ。ひなまつりだもん」

「いやでも……」


 気味の悪い雛人形から視線をそらすと、今度は床の間の掛け軸が目に飛び込んできた。


「と……トリの降臨?」


 ダルマ筆で書いたようなその力強い文字は、芸術的で、神々しいとさえ思えた。


「そうだよ? 上田くんも『とり様』って、聞いたことあるよね?」

「え?」


 視線を相川さんに戻すと、前屈みになった彼女の胸元が、神秘のパワーを放っていた。俺には見える。なにか、白いレースのようなものが、はっきり見える。


「『とり様』を信じれば絶対幸せになれるから、だから上田くんにも教えてあげたかったの。特別に……」


 俺は、相川さんの特別なのだ。そして彼女と、必ず幸せになる。



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