第226話
夢というものは
丸ごと忘れていないと思っていても、それさえも破片のようなものである。
ああ、そうか、なんだ夢だったのか――願望を夢の中で実現して満喫して起床してから、ひどく喉が渇きを感じたり、尿意を催す。
逆さ刻印の赤錆び銀貨を片手に握って寝ると、夢の中で起床するところから一日が始まる。
握っていた銀貨をベッドの上に放り出して、窓からのまぶしく暖かい日の光を浴びて、まだほんのりと眠気が残る体でベッドから起き出す。
おまじないの噂は嘘だったのかと思い、水瓶から木のカップで水をすくって飲む。
全裸姿なのは昨夜、泊まっていかないで眠っている間に帰った恋人と楽しく過ごしたからだと思っている時、赤く錆びた銀貨を握って眠ったことは、すっかり忘れている。
昨夜、恋人はいつになく情熱的で、それに自分も大胆になって、恥ずかしいのに快感にたっぷりと溺れて何をしていたのか思い出すと胸がどきどきして顔が赤らむ。だからもう一杯、水を飲んだ。
服を選ぶ時、今日は何を着ようか迷う日と、迷わずに選べる日がある。迷わずに選べた日は気分がいい。
少し乱れていた髪を整え、着替えを終えて、小腹が空いていて、きゅぅと腹が鳴る。
広場の露店に行くと、朝食目当ての人たちがちらほらやはり来ている。
数人並んでいる露店がちょうどよく人が離れて、並ばずに朝食のサンドイッチを買うことができて今日はとても運がいいと思う。
広場でそのままサンドイッチを食べたあと、他の店で果実を買って部屋に戻ってきた。
「おかえり、なんかいいものあった?」
買って来た果物を見せると、恋人がおいしそうだねと笑顔で話しかけてくれる。
出かけた時に部屋には恋人はいなかったのに、帰りを待っていてくれている矛盾もおかしいとは感じない。
恋人と半分ずつにして、一つの林檎を食べる。シャリッとかじると小さな音がして、爽やかな香りや甘さと歯ごたえが口に広がる。
恋人に抱きついて甘えたくなった。林檎の味のキスをする。
(なんか、ちょっと欲求不満なのかもしれないなぁ)
ふたりっきりのはしゃいだ甘い時間を裸になって過ごしてベッドで少し眠ったあとは、夕方になっている。
恋人が起き出して、ベッドにカップに入れた水を持ってきてくれる。受け取って飲んだあと、恋人に空きになったカップを渡した。
手がふれて見つめ合うと恋人が顔を近づけてきて、目を閉じた。
これは何度目のキスだろう?
そこで目を覚ました。
まだ夜明け前で部屋は薄暗い。
手に握っている銀貨が熱を帯びていて、手のひらが汗ばんでいるのを感じた。
恋人がいたのは、もう四年前のことだ。
夢の中の恋人はとても優しい。思い出の中の恋人は、情熱的に何度も求めてくれたりはしなかったし、林檎を渡せば半分ずつではなくて一個を一人で食べてしまう人だった。
再び銀貨を握って眠る。
起き出すには早すぎる時刻だ。
昼間、広場に行ってみた。
林檎が売っていないか気になったからだ。林檎といっても、夢の中の林檎と、広場の店で見かける黄色や青い林檎とは色がちがう。
バーデルの都で売られている林檎だと父親が子供の頃に手渡してくれた赤い皮の林檎は、手が小さかったから片手で持てなかった。
夢の中の恋人と半分ずつ食べた赤い林檎も、大きな林檎。
そんなものあるはずないのに、もしかしたらと思ってしまったのは、なぜだろう?
赤い銀貨の噂は半分は本当で、半分は嘘だった。
握って寝ると恋人ができるという噂だった。けど、甘えて何度もキスをしたくなる人とは出会えない。赤い銀貨はあるけれど、赤い林檎は見つからない。
子供の頃に父親だと思っていた人は、本当は母親の恋人で父親なんかではなかった。
赤い林檎というのも、夢か勘違いなのかもしれない気がする。
いつから林檎が好きなのは、思い出せない。
思い出したらいけない、そんな気がする。
本当のパパの顔を知らない。ママの恋人たちの人の偽物のバパの顔や声は思い出せるのに。
母親を一人ぼっちで村に残して街に来た。それから、一度も村へ帰っていない。
シェアハウスで一緒に暮らしていた同じぐらいの年齢の
少しの間だけ恋人気分だけを感じさせてくれる人もいる。
約束した金貨一枚を手渡して、甘い恋人ごっこが終わって、何か気まずそうな顔でお客さんに戻ってしまい、そそくさと立ち去っていく。
宿屋の部屋を使うよりも安いから、声をかけてくる遊び慣れた人たちは簡単についてきた。
おずおずと声をかけてくる遊び慣れた人も、裏路地で立って待っている人もいなくなった。
どこか新しい別の穴場でもあるのかもしれない。
家を貸りて同居していた娘がいなくなっても、しばらく二人分の家賃を払って暮らさなければならなかった。二年間の契約にしたのは失敗だった。
声をかけてくる人でも、一人ぼっちがつまらない同じような人が恋人になってくれると期待したのに、伴侶がいることを隠していた嘘つきの人に、しばらくだまされただけだった。
大好きな林檎を半分ずつ分けてくれなかった人だった。
恋人ごっこの報酬はちゃんと払ってくれた。でも、それが負担になったからと家に訪ねて来なくなった。
家賃をなんとかするつもりで、本当はやっちゃダメだってきまりは知っていたけど、びくびくバレないか心配しながらやっていたことで、普通に働くよりもたくさんお金が荒稼ぎしたので貯まった。
大きな声で自慢できるようなことじゃないけれど。
子供連れの夫婦が林檎を買って店の前にいた。
(そういうことだったのね、パパに林檎を買ってもらって、あの子はとてもうれしそう)
子供に林檎を買うことを、こっそり伴侶の人に嘘をついて。恋人ごっこをするのを止めてあの人は選んだらしい。
(悪い恋人ごっこをしなければ、たくさんの林檎を子供にあげられたはずなのに)
幸せになりたい。街に来て働き始めた時期よりは、自由な時間とちょっとはお金があるけれど、何か足りない。
赤い銀貨を握って、今夜も一人ぼっちで眠ることにしよう。
片手に一個の林檎を持って歩いている元素人娼婦だった人は、考え事をしていたので、エリザの占い屋があることに気づかず通りすぎていく。
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