22.『福は内、鬼も内。腹のうち』
「悪い子はいねがァ!」
「……それ、たぶん節分ちゃいますなあ」
人間のけろりとした返しに、大きな赤い顔がひっくり返った。文字通り、頭から後ろへ転んでいた。
あらわになった草鞋の裏の広さに、改めて目をしばたく。さっきは少し驚きすぎて、叫ぶに至らなかっただけなのだ。
鬼はその巨体を床の上でばたつかせ、再び二本足で立った。土埃やらなにやらが服の袖から落ちたので、部屋の中でなくベランダに立ってくれて良かったなぁと思った。
「これ、節分の言葉ではねぇのけ?」
「今のはなまはげの台詞だな」
「節分では聞かんか」
「おう」
「そうか。じゃあなんて言うがか?」
色んな方言の入り交じった、妙な話し方をする鬼である。鬼のくせしてろくに節分のことも知らぬようであるし、なにもかもが取ってつけたようだ。それでいてその大きな身体と真っ赤な顔は妙に生々しいのだから、鬼は極めてアンバランスであった。
「うーん。そもそも節分は、あんまり鬼側の出番ないっていうか」
「なんだと? でも、スーパーには鬼の面がやたらと飾られていたぞ」
「鬼もスーパー行くの?」
じゃあ豆も見なかったかと問えば、鬼は嗚呼と大様に頷いた。
「ありゃいかんな。あの袋さ入った豆見てると、肌がゾワゾワする。あんなもん売り物にするべきでね」
「やっぱり鬼に豆って効果あるんだ。節分ってのはさ、その豆を『鬼は外ー、福は内ー』つって、家の外だり中だりに撒く行事なのよ」
「追っ払うってのか!? 人間てやつァ……!」
「ほらこれ」
「ギャッ!」
未開封の豆袋を見せてやると、またまた鬼はひっくり返った。今度はみっともない叫び声と共に。豆まきが本当に鬼を退ける効果があるとは、実に驚きである。形式にも意味があったのだ。袋を開けると、散らばるような弱々しい声を上げた。
しかしこう素直な鬼が怯えてベランダに転がっているのもなんだか不憫だ。
豆をひとつまみ、鬼に向かわせ──手首を返し、部屋の中へ投げる。
「鬼はーうち。福もーうち。……ま、うちだけは鬼も、中ってことで」
寒々としたベランダにつっ転がっていた鬼が、異様に大きく爛々とした両目をぱちくり。無言になってしまった。
「はい、鬼もうち鬼もうち。ほら、寒いんだから早く中入ってくれ」
「お、おお」
豆袋を適当に置き去って、中途半端な位置で停滞している鬼の腕を掴む。人間のちっぽけな力でも鬼さんは案外ひっぱられてくれるらしい。また新たな発見があった。着物の袖は冬そのものの如くツンと冷えていたが、その下に包まれた腕には肉の分厚さと通う血の熱さがあった。人間とは比べ物にならない大きな足が、腕を引かれ、一歩、部屋の中へと立ち入る。片手間にベランダの窓を閉めた。
「おい、鬼を中に入れていいんけ?」
「いいんだよ。あー、さむさむ。こんな日にはあったかいもんが食べたいよな」
「そうだな。なにか食うといい。豆以外だぞ!」
「ああ、そうする」
窓が閉まり、カーテンが閉じられ。
バクン。
隙間からLEDの眩しい明かりが漏れる部屋の中で、大きな音がした。なにか大きなものが、まるっと口の中に収まり、喉を通る音だった。その音から想起するのは、卵を丸呑みする蛇である。
窓が少しだけ開かれ、そこからにゅっと人間の手が伸びた。手には大きすぎる草鞋があり、それをぽいとベランダに放った。
「あーうまかった」
再び窓が閉じられる。福と鬼をうちにしまい、節分の夜は再び何事もなく更けていく。
『福は内、鬼も内。腹のうち』/終
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