21.『木雨』
雨はやんでいた。
しかし降っていた。
「困ったものだよ。ここ数日、ずっとこうだ」
この地域はしばらくの長雨に見舞われていたが、一週間ほど前、ようやくそれが明けたそうだ。空はからりと晴れ、ぞんぶんに泣いただけに今は爽やかな青色を広げて、雲を転がしている。山中に建てられ水捌けのあまりよくないこの神社も、通常の景色に戻ろうとしていた。
しかし、これはどういうことか。
「ああ、今日も降っている」
境内を埋めるほどはある木の中の一本。桜の木だそうだが、今の時期は葉が青い。その多分に茂った葉が、風の吹くたびさわさわと涼し気な音階を奏でる。葉が揺れ、こすれ、そして水滴を落とす。一斉に、雨のように。
これがやまない雨なのだとか。
ふとした瞬間に、このたった一本の木は身を震わせて雨水を降らすのだ。長雨も終わり、木の葉の露などどうに落ちている頃だろうに、どうしてかこの木はそれを繰り返した。
「近くの建物の屋根から落ちた水が溜まっているのかとも思ったんだよ。けどね、そんなことはなくて。葉っぱ自体にも水なんてこれっぽっちも溜まっちゃいない。だのにあれは毎日……気味が悪いだろう」
本当に困ったと、再びため息をこぼす権禰宜の頭を悩ませる事柄は、他にもありそうだ。
「あれを知った参拝客の一部がね、『神様のお力だ』とか言い出したんだ。そう、今もうちの方に問い合わせが相次いでいる。しかし原因不明だなんて正直に言ってしまえば、それこそ神通力だと騒がれてしまうだろう? 全くもって迷惑極まりない。適当な理由をつけて誤魔化してはいるけれど、もうそれも限界だ……」
だから、切ることにしようかと。
ふつと見上げた先は、今も雨の最中。
なかなかに立派に成長した枝からしたたる無数の水滴は、まるでカーテンのように、向こう側の景色を隠している。周囲と隔絶されたそこは、小さな異界だった。鳥居をくぐらずに社を眺めているような、爪先に関守石が置かれているような、妙な心地になる。
「一思いにやってしまってください。ええ、もちろん心残りというか、葛藤はある。なんせ桜の木だし、ソメイヨシノだもの。けれどこれが続くのは耐えられない。神社としても、私個人としても」
桜の木の伐採。これはこの権禰宜の一提案ではなく、神社からの正式な依頼だ。
揺らぐ気持ちはないのかと尋ねるつもりだったが、先んじて「やってくれ」と言われてしまった。
正午の鐘が鳴った。
街のチャイムが境内にうすらぼんやりと響き渡る。木から意識が逸れた権禰宜に、伐採の為に木を視るから、と話をつけ、先に戻ってもらった。他に仕事があったか、一刻も早くこの場から離れたかったか、権禰宜は遠慮も少々に背を向けた。
さて、どうしようかと尋ねる。
祀り上げられている神ではないだろう。しかし八百万の一柱であるのだろう、その力は此岸まで及び、現に神通力を連日あらわしているのだから。
桜の木の下、降る異界の内側で、濡れた土がこもりと持ち上がり、人の形に成る。土くれは――この表現は不敬に余りあるが――目鼻のない首を横に振った。
曰く。
ソメイヨシノは人の手でのみ生きる木。
人が拒むのなら、伐採を望むのが人であるならば、それに従うとのこと。
雨をやませることはできないのかと問う。可能ならば、切りたくはない。存在を知覚できてしまえば心が傾くし、意思疎通ができてしまえば情も湧く。
神は土くれの身体で立ち上がった。いまだ降り続く雨水を吸って重くなった土がみるみると胴、脚を作り、やがて完璧な人間の形を模すると、どんよりと辺りが暗くなっていることに気が付いた。
なにか、と思って顔を上げた矢先、まなじりに一滴。
途端。身を貫かれるような土砂降りとなった。
天気の急こう配に呻くと、神は異界から一歩踏み出し、雨の降る境内へ身を躍らせた。
ああ、そうか。神の言わんとすることを悟る。
雨はもうやんでいるのか。
『木雨』/終
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