第三話 誰だ苦労は勝手でもしろだなんて言ったのは

3-1

「兄貴がさぁ」

 どうやらこいつには兄貴がいるらしい。

「はい」

「最近になって皿洗いのバイトを始めたのよ」

「そうなんだ」

「その前はコンビニだったんだけどさ」

「働き者だね」

 そこで名梨は、よっ、とぼくの方に身体を向けてきた。

「どうもどっちともめちゃくちゃ性格の悪いババアがいるみたいなのよ、同僚に」

「運が悪いね」

「まあ要するにコンビニの方はそれで辞めちゃったわけ。まあ大学の方でちょっと忙しくなってきたからそれもあってなんだけどね」

「人生いろいろ」

「そうそれはそうだと思うの」

 でも、と、名梨は身を乗り出した。

「兄貴が姉貴に相談してるのを見かけたのよ」

 どうやらこいつには姉貴もいるらしい。

「ふうん」

「そしたら姉貴のやつ、他人は変えられないから自分を変えること、なんて言ってたわけ」

 ぼくはちょっと考える。

「それはそうなんじゃない?」

「そう思う?」

「とにかくそういうふうにした方があらゆる局面において便利だとは思う」

「でもさあ」と、名梨は考え込んだ。「おれはふと考え込んでしまった」

「どうやらそんな感じだね」

「他人は変えられないから自分を変えること、っていうのって、それはそれで真理だとは思うのよ。フジの言うようにいろんな局面で役に立つ思考だと思うわけ。でもなんかさぁ、それだと無神経で傲慢な人間は努力の必要がなくなると思わない?」

 それはそうだと思う。

「だろ? 学校とか職場の困ったちゃんは変えられないしどうせ変わらないから私たちの受け止め方を変えましょうっていうのって、なんか理不尽っていうか、困ったちゃんにとって都合のいい結論だなぁって思っちゃったわけさね」

「う〜ん」

「あれ、なんか思うとこある?」

「っていうか」と、ぼくは少しずつ言葉を選びながら発言してみた。「それはそうだと思うんだけど。でも、世の中そんなものなんじゃないの」

「そんなぁ」

「いやだって、困ったちゃんは自分が悪いって思ってないから困ったちゃんなわけじゃない。たぶんわからないわけじゃない。わからせてもわからないわけじゃない」

「あ〜」

「そうなると……っていうのは思うよ。お姉さんの言ってることは正しくはないような気はするけど、妥当なような気はする」

「う〜む」

 しかし難解かつ複雑な話を名梨がしているのはわかる。であるので、いまのぼくの手にはちょっと負えないように思えてぼくはさらりと話題を変えてみる。

「それにしてもずいぶんお兄さんが好きなんだね」

「うん、上から三番目の兄貴でさ」

 なんだかぼくはそっちの話題の方が気になった。

「名梨は何人兄弟なの?」

「五人だよ」

「この少子化の時代に、親御さん頑張ったね」

「なんかエッチだなフジって」

「えっ」

 ぼくは別にそういうつもりでそういうことを言ったわけではない、と弁明しようと思ったが、話がどんなふうに流れていってしまうかもわからないため名梨の次の言葉を待った。

 すると名梨は気を利かせたのかその件はそのままにした。

「まあ兄弟が多くて大変なことはあるけど助かってるとこもあるよ。おれもいつかバイトなり何なり、仕事なるものをするわけじゃない? そういうときに先輩のアドバイスがあるのはいいことだと思う」

 相変わらず素直なやつだ。しかし、五人兄弟ね。

「名梨は末っ子だろう」

「末っ子っぽいでしょ。それはともかく、あ〜、おれも早く稼ぎてぇなぁ〜。金だ、金が欲しい。ていうか金持ちになりたい」

「お金持ちはお金持ちでお金持ちの苦悩があるんじゃないの」

「そんなふうに言ってみたいぜ。ていうかそれならいらない分をくれって言いたいね」

「誰に?」

「お金だけが全てじゃないだのプライスレスだのいう芸能人とか?」

 ところでいまはホームルームの直前である。もうクラスメイトたちは全員集合してそれぞれに談笑したり読書したりしている最中だ。ふとぼくは相沢さんの方を見る。すると彼女は女子たちとなにやらくすくすと笑いながら小声でなにかを話し合っている。まあ名梨の言うところの芸能人の話題でもしているのであろう。決して陰陽連の話でも鬼哭アルカロイドの話でもないことだけはわかるぼくは視線を名梨に向けた。すると彼がチラチラとドアの方を見ていることにぼくは気づいた。

「なんかある?」

 少なくとも鬼哭アルカロイドではないし、名梨に霊力はなさそうだ。ぼくはまだ相沢さんやレッドさんのように霊能力者たちがなにもしていないときに彼らから霊力を感じるほど感知能力が鋭くはないが、とにかく名梨に霊力はなさそうだ。根拠? 特にはないが、それならぼくのようにスカウトされるはずだ、と思い、なるほど、とぼくは自分の出した瞬時の結論に自分で納得する。

「いやさ」

 と、名梨はヘラヘラと笑う。

「さっき職員室に行ったのよ」

「何の用で?」

「部活の用で」

「それで?」

 名梨はちょいちょい、と、至近距離にいるはずのぼくに小声で呼びかける。どうやら耳を貸せと言っているようなのでぼくはお望みのままに応えてやる。

「今日、転校生が来るんだよ」

「あ、そうなの?」ということは。「女の子かぁ」

「え、なんでわかるの?」

「男の子だったらそんなにヘラヘラしないでしょ」

「失礼な。おれがゲイだったらどうするんだよ」

「別にそうなんだで済ませるだけだよ」

「まあとにかく女子なんだけどさ。それがさぁ」

 名梨の笑顔はここでヘラヘラからニコニコになった。

「ハーフかなんかのすっげー美少女だったのよ」

「“ハーフ”はいいの?」

「その辺まだ時代が明日を照らしていない証拠だな。とにかく金髪のロングヘアで、フランス人形みたいなスーパー美少女だった」

「うちのクラスに来るといいね」

「それが、そうなるのだよ」もう満面の笑みである。「なぜならうちの担任と話してたから」

 そこまでの美少女となるとぼくも気になるところだ。しかしそこまでの美少女となるとそれはそれで日常生活が大変なのだろうなという想像をぼくはしてみる。面倒な男に絡まれる日々を送ってきたとか。月並みの顔のぼくには想像もできないような悩み事を抱えていたりもしているのだろう。

 ぼくは訊ねてみた。

「名前は?」

「そこまでは」

「じゃあまあ、もう予鈴が鳴るから間もなくだね」

 別にぼくの言葉に学校の設備が反応したわけでもないだろうがそのときチャイムが鳴り響いた。名梨は前を向く。間もなく担任が現れ、そしてそのフランス人形のような美少女転校生が現れるのだろう。

 しばし待っているとドアが開いた。

「起立」

 委員長の声と共にぼくらは起立する。

「礼」

 特に大人に対する反逆心もないぼくは礼をする。

「着席」

 起立・礼・着席、というのは文章として美しいなぁという気がぼくはなんとなくした。

「おはよう。今日は転校生を紹介するー」

 と、担任がそう説明し、いま閉じたばかりのドアを再び開ける。すると。

 クラス中が騒然となった。

 これはこれは……と、教壇へと静かに歩みを進めるその少女にぼくはぼくで名梨のようになんだか興奮してしまった。確かに美少女だ。そしてフランス人形のようだ。金髪のロングヘア。青い瞳。深窓の令嬢って感じだなとぼくは思う。ぼくが海外の俳優に詳しかったら誰々系だと言えるだろうがあいにくぼくに海外芸能界の知識はない。とにかく、「すっげー美少女」という名梨の言葉は間違っていない。確かに彼女はすっげー美少女である。

 担任が黒板に彼女の名前を書く。

 霧島きりしまイリス、というのが少女の名前らしい。

「霧島イリスくんだ。みんな、仲良くな」

「はーい!」

 と、男子も女子も一斉に大きな声で返事をする。男子はもちろん、女子たちもこの霧島さんという少女に興味津々のようだ。女の子はかわいい女の子に対して嫉妬深い反面かわいいものが好き、ということだろうか? まあとにかくクラスメイトたちはおそらく次の休み時間でこの少女に群がるだろう……などと思い、ふと相沢さんを見ると、あれ、相沢さんはなんだか真面目な表情で霧島さんを眺めている。

 どうしたんだろう。

「霧島、なにか挨拶を」

 すると霧島さんは教室中を一瞥し——。

 ぼくと目が合った。

(ん?)

 ような気がした。即座に彼女は、相沢さんの方を向いた……ような気がしたが、気がしただけである。

 相沢さんはというと——なんだか軽く肩をすくめたように思える

 なんだ? どうした?

 ……と、この時点で、ぼくもそこまで鈍くないことに我ながら気づく。

 霧島さんは黒板を向く。黒板消しを手に取り「霧島イリス」という名前を消した。ん? と、みんなが一瞬静まり返る。

 そして彼女はすぐにチョークで「Iris KIRISHIMA」と美しい筆記体でそう書いた。

 チョークを置いて、彼女は振り返る。

 そして生真面目な表情になり挨拶をする。

「イリス・キリシマです。どうぞよろしく」

 そのとてつもなくドライかつシビアな声に、教室中がピタッと止まった。

 ぼくの彼女に対する感想としては——。

 圧倒的威圧感を覚える、ということだった。

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