第1話 物語 裏


 ロブリュッセル領の主要都市――ロマンタでは、今、空前の物語ブームが巻き起こっていた。


 きっかけはとある貴族であった。

 ある日、ロマンタを治めるドミニク伯爵のもとにお抱えの商人、カールがやってきた。彼は数か月に一度やって来ては伯爵に品を納める。そのほとんどが娯楽の類であった。


 ドミニクは娯楽に飢えていた。一部の富裕貴族のあいだでは剣闘士を闘わせてその血沸き肉躍る戦いに酔いしれる者もいるようだが、ドミニクの性には合わなかった。


 それよりも、もっと広い世界が見たい。彼は常々そう考えていた。


 彼は無類の物語好きであった。幼き頃から世界各地の冒険譚、逸話、伝承を掻き集め、公務のあいだに読み耽るのが幸せであった。それゆえ、彼はカールに各地の物語を収集してくるように命じたのだ。


 何十年と続けても飽きが来ない趣味であった。しかし、ドミニクに際限がなくとも、物語は有限である。もはや王国中の物語を収集しつくしたといっても過言ではない彼の執務室は、ぎちぎちに詰め込まれた本棚で壁が埋まっていた。


 四方を物語で囲まれたドミニクは、もはや何度読んだかわからないお気に入りの物語に目を通す。何度読んでも面白い。それは変わらない。だが、新鮮さはとうの昔に失われていた。


 そんな折、館にカールがやってきた。

 彼はドミニクの同好の士であった。暇を見ては物語を読み漁るドミニクにとって、各地の物語を供給してくれる彼は生命線といっても過言ではない。


 しかし、かつては頻繁に通っていたカールも、ここ最近はずいぶんと頻度が落ちていた。

 今までは面白そうな物語を仕入れると真っ先に駆けつけてくれていた。だが、それも今となっては昔の話である。


 ここ最近、カールの表情は晴れない。持ち込む物語も微妙なものばかりである。彼もその自覚があるのか、後ろめたさを隠すようにいつもの仏頂面を三割増しで固くする。


 今日もそうなのだろう。そう思ってドミニクはカールの顔を見る。


 しかし、そこには、少年のような笑みを浮かべる彼がいた。


 カールは有無を言わさずドミニクに紙の束を押し付けた。


「読んでください」


「な、なんだ?」


「いいから、黙って読め」


 ポカン、と呆けるドミニクに、明日また来ます、と。

 彼はそう続けると館を去った。


「な、なんだったんだ......?」


 ドミニクは困惑した。彼の豹変っぷりは異常であった。彼とは長い付き合いであるが、あそこまで礼を失するやつではなかったし、なにより、あんな表情は見たことがなかった。


 押し付けられた紙束を見る。粗末な紙だった。公務で使われるような真っ白の紙ではない。ザラザラでほのかに茶色がかった安物だ。下町で重宝されるようなそれに、びっしりと文字が綴られている。


 カールが渡してきたということは物語であろう。だが、彼がドミニクに献上するものは、決まってある程度の体裁が整ったものがほとんどだった。


 口伝しかされてないものは綺麗に書き取り、辺境の地で読み伝えられていたものは新たに製本し、と。それが通例であった。


 しかし、手元の紙束はまさしく紙束でしかなかった。薄汚れていて小汚い。道端に落ちていたらそのまま誰に見られることなく朽ちていくばかりだろう。


 だが、それゆえに。


 ドミニクは興味が湧いた。

 なぜ彼がこんなものを押し付けていったのか。なぜあんなにも興奮した様子だったのか。


 この紙束に目を通せばなにかわかるというのか。


 なに、どちらにしろ読むものもなくなって途方に暮れていたところである。友人のよしみで少しくらい目を通してやってもよいか。


 そんなことを考えて、彼は公務に戻る。

 彼が物語を読み始めたのは、すべての仕事が終わった寝る直前であった。


 ――そして、気が付けば朝になっていた。


「......」


 その日、彼は朝早くから館の玄関で仁王立ちしていた。

 目がギンギンであった。充血している。鼻息が荒く、隈も凄い。明らかに徹夜をしていた。


 給仕たちもそんな主人の様子を不審に思いながらも近づけないでいる。執事が自室で休むように宥めるも、ドミニクは彼の諫言を黙殺した。


 彼は待っていた。いつ来るかは定かではない。だが、そう遅くないうちに来ると確信していた。守衛には即座に通すように言ってある。彼が来たらなんの障害もなく、すぐにここまで辿り着くであろう。


 そして、その時が来た。

 館の扉が開く。その先に彼はいた。カールであった。


「おい、答えろ」


 ドミニクは問い詰めた。


「なんだこれは」


 その手に握られているのは粗末な紙束。

 ただならぬ雰囲気にあたりは騒然とし始める。


「お読みになりましたか」


「読んだ。読みすぎて気がついたら朝になっていた」


「私もそうでした」


 カールは続けた。


「それは辺境の村に住む、一人の少女が書いた物語です」


「なんだと......?」


 ドミニクは愕然とした。

 この物語を、田舎の少女が書いた。それは到底信じられるものではなかった。


 だが、目の前の男は物語に対して真摯である。それはドミニクも認めるところであった。ゆえに、導き出される。すなわち、その話は嘘ではないということ。


 ドミニクの脳裏に蘇るのは昨日の、されどもう何年も前に感じられる夜のひと時。


 粗末な紙束に綴られた物語に目を通した瞬間、ドミニクの脳裏で世界が弾けた。


 まるでビックバンのように膨れ上がった空想は、瞬く間に世界を侵食する。


「なんだ......!?」


 一瞬の出来事だった。まるで意識が飲み込まれていくような感覚だった。

 そしてすべてを理解する。まるでそれが当たり前であるかのように受け入れる。


「そうか......私は、騎士だったのか」


 次の瞬間、ドミニクは騎士になっていた。


 ――否、ドミニクはこの世界の主人公となっていた。


 ドミニクは己が竜の群れに故郷を焼かれ、天涯孤独の身であることを理解した。悲しみが胸の内より溢れる。だが、挫けたままでは死んだ家族に顔向けできない。そう奮起して立ち上がった。


 騎士になって数年。ある時、傷だらけの竜を見つけた。復讐心に駆られる。今すぐにこの手負いの竜を殺そうと思った。しかし、そこで気が付いた。その竜は子供だった。そして、子竜は切なそうにある方向を向いて鳴いている。


 そこには、傷だらけの大きな竜がいた。体のいたるところに武器が刺さっている。人間に襲われたのだろう。息絶えている。


 子竜は血まみれの体を引き摺り、大きな竜に寄り添った。


 家族なのだ。そう理解した。

 その瞬間、胸の内で渦巻いていた復讐心が萎んでいくのが分かった。


 振り上げた剣を捨てて、子竜に近づく。威嚇するように、子竜は弱弱しく鳴く。それが痛々しくて、まるで母に助けを求める子供のように思えた。ありし日の、家族の亡骸に縋りつく己に重ねたのだ。


 子竜を保護した。最初は敵意を剝き出しにしていた子竜も、次第に心を許していく。


 決して楽な道のりではなかった。互いを理解するには相当の時間を有した。何度も傷を負った。だが、子竜が、子供が泣くところをもう見たくない。その一心で向き合った。


 そうして、人と竜は心を通わせた。互いの復讐心を理解しあい、寄り添う。友のようで、家族のような、最高の相棒となった。


 その過程でいくつもの困難を乗り越えた。世界の危機も救った。

 すっかり大きくなった竜の背に跨り世界を駆け抜けた。


 気が付けば、竜騎士と呼ばれていた。


 ドミニクは一夜にして世界の英雄となったのだ。


 ――感動に涙する自分に気が付いて、ドミニクの意識は戻ってきた。


 ふと、横を見る。

 そこに逞しく成長した竜の、己の相棒の姿はない。

 視界に入った手は小綺麗で、手のひらにはマメもない。酸いも甘いも嚙み分けた精悍な騎士のものではなかった。


 そこでようやく、ドミニクは己が何者であったかを思い出した。


 茫然とした。あまりに衝撃的すぎる出来事に言葉がなかった。

 窓の外に見える空は白くなっている。


 おかしい。私はつい先ほどあの紙束に目を通し始めたというのに。いつの間にか寝てしまっていたとでも言うのか。


 そう思って、紙束に目を通す。

 文字が綴られている。下手な字だ。まるで子供が必死に書いたような、そんな稚拙さだ。


 だが、そんなことは気にならなかった。

 そこに書かれている内容は、たった今ドミニクが体験した世界だった。


 この紙束に書かれている物語が、ドミニクに竜騎士の世界を追体験させたのだ。


 そうして、ドミニクは夜が明けるまで何度も物語に目を通した。


 すべてが愛おしかった。すべてが鮮烈だった。こんな感動は味わったことがない。そう断言できた。


 確かに、粗はある。誤字脱字だって無視できない。展開だって使い古されたありきたりなものだ。だが、そんなことは全く気にならないくらい、この物語は素晴らしかった。


 臨場感あふれる描写。まるで目の前で見てきたかのような現実感。心打たれる登場人物の心情。手に汗握る戦い。それらが丁寧に紡がれている。


 今までの淡々とした、目の前に起こったことを描写しただけの冒険譚にはなかった、まったく新しい革新的な物語の形だった。


 この物語の前では読者はみな、この世界の主人公になれる。

 ドミニクは魔法のようなこの物語に感動した。


 これならカールのあの様子も納得である。ドミニクは得心が言ったように頷いて、彼に事の次第を問いただすべく、館の扉の前に陣取ったのだ。


 そのままドミニクとカールは昼過ぎまで語り合った。

 どのシーンがお気に入りか。どのキャラクターが魅力的か。主人公と竜の関係性がいかに尊いか。

 同じ世界を共有した者同士である。話は尽きなかった。

 

 ふと、ドミニクは考えた。

 こんなにも素晴らしい物語である。皆にも読んでもらいたい。そしてこの物語の素晴らしさを共有したい。

 その考えにカールも賛同した。


 ドミニクとカールはその日のうちに物語を製本して世に出す算段を立てた。


 カールは己の人脈をフル活用して一刻も早く物語が世に知れ渡るように努力した。


 ドミニクも普段は出席しない舞踏会に顔を出し、貴族から豪商に至るまで片っ端から布教した。


 その反応はおおむね上々であった。

 わかりやすい冒険譚ということもあって、普段は読書をしないお歴々にもとっつきやすかったのだ。

 中にはドミニクと同じくドハマりする人々も現れ、彼らの協力もあって製本に関する作業は瞬くまに完了した。


 あとは世に出すだけである。

 ドミニクはこの物語が王国に熱狂の渦を巻き起こすのを確信していた。


「よし、ではお前に最後の仕事を申し付ける」


 すべての準備は整った。

 今日も今日とてカールと語らっていたドミニクは、対面に座る彼に最後の指令を出した。


「この物語の作者を館にお連れしろ。もちろん、花のように丁重にな」


「御意」


 物語は素晴らしい出来だった。まさしく王国史に名を刻むであろう。

 果たして、そのような大傑作を書いたのはどのような傑物なのだろうか。


 ドミニクの胸は高鳴っていた。

 できれば創作秘話とか聞きたかった。いや、もしかしたら迷惑かもしれないし、せめて一目顔を見せてもらうだけでも良かった。なんなら次の物語が書きあがるまで衣食住のすべてを支援してもいい。否、したい。


 そわそわと視線をさまよわせるドミニクは、はたから見て挙動不審であった。


「して、物語の売り出し方なのですが、どのようにしましょう」


「そこらへんはお前に任せる。内容が内容だ。どんな新米商人でも、市場に出しさえすれば瞬く間に売れてしまうだろうからな」


「たしかに」


「......いや、そうだな、今までの物語とは一線を画すものであることは間違いない。ここはひとつ、新たなブランドを考えてみるのもいいか」


「と、言いますと?」


「......小説、というのはどうだろうか。小さく、誰でも手軽に読める説話。これまでの古典文学とは一線を画す、新たな物語の媒体だ」


 その提案にカールは賛同の意を表した。











 ――こうして、ロマネスク王国に全く新しい物語の形として小説は生まれた。


 小説は瞬く間に人気を博し、上層階級から市民階層にまで幅広く愛された。

 黎明期において特に人気を博したのは、始まりの小説とされる『竜騎士の冒険譚』である。


 ありきたりな舞台設定でありながら、これまでの王国文学の設定を踏襲しつつも緻密に組み上げられた物語は読者を空想の世界に誘い、人々に騎士という職業へのあこがれを抱かせた。小説が刊行された年の王国騎士団への入団希望者は例年の数倍を超えたという。


 その影響もあってか、昨年、新たに王国騎士団に竜騎士部隊が設立された。

 竜騎士など空想の産物である。そう反対する周囲を押し切って意見を通したのは王国騎士団団長であった。彼もかつて『竜騎士の冒険譚』にあこがれて騎士団に入団した口であった。


 彼は反対する者たちの前で、ひそかに手なずけていた竜の背に跨り縦横無尽に空を駆けて見せたのだ。これには周囲も黙らざるを得なかった。


 そうして竜騎士部隊は設立に至る。

 市井はその話で持ち切りだ。少年たちは目をキラキラと輝かせて剣に見立てた木の棒を振るい、青年は来るべき入団試験に向けて体を鍛えぬく。


 たったひとつの物語が、人々のあこがれを駆り立て、王国の軍事にまで影響を及ぼした。

 それはまさしく偉業であった。


 だが、そんな物語『竜騎士の冒険譚』の著者は、今をもってしても不明である。


 果たして今でも筆を執っているのか、否か。

 王国の文学者が前者を切望しているのは言うまでもない。











「伯爵、すみません。少女に逃げられました」


「な......に......ッッッ!?」


 敬愛する物語の作者に逃げられたショックでドミニクはしばらく寝込んだ。

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