第3話 あいつ、人殺しだわ
芝生を荒らさないよう、ゆっくりと歩を進める。
ドアを抜けると、ふかふかの床が広がるロビーがあった。奥には無人のフロント。その手前には二台のソファと一台のテーブルがあった。
片方のソファで、太った男――
彼は私たちが入ってきたのにも気づいていない様子で、雑誌に目を走らせていた。私は井口から視線をはずし、周囲の顔を順番に眺めた。
私たちは、一時間ほど前に港で初めて落ちあった。その場で自己紹介をしあい、顔と名前を互いに把握した。船には四人までしか乗れないというので、恵子と真渕と井口の三人が先に別の船でやってきたのだった。
従業員はいない。嵐が来ると分かりきったうえでの宿泊なので、つけてもらえなかったらしい。こちらの都合だから仕方がないといえば仕方なかった。
ふとそこで、自分たちの荷物が見当たらないことに気づいた。恵子たちが先に持ち込んでくれているはずだ。恵子に尋ねるつもりで言った。
「あの、私たちの荷物は……」
「わっ!」
驚いて声のした方を見ると、井口が目を丸くしてこちらを見返していた。今さら私たちの存在に気づいたらしい。
恵子がフロントを指さしながら、私の質問に答えた。
「荷物はあの陰にまとめて置いてるわよ」
フロントを回りこむと、荷物が雑然と並べられていた。
何をしようか。読書でもするか。カバンに手を突っこんで鈍器みたいな本を取り出していると、美里の声が聞こえた。
「リフレッシュしたいからちょっと外出ーへん?」
「いいわよ。溝野ちゃんも行きましょ」
恵子に手招きされた。断ることもないので頷き返した。本は元の場所に戻しておく。
三人で庭に出た。庭には、外国産の珍しそうな植物が点々と植えられている。少し歩いてから、美里が小声で言った。
「正直ここの男たち、性格に難ありって感じせん? 何もそそられないっていうかさ」
私も近しいことを感じていた。恵子も深く頷いた。
「ろくに頼りにできないヤツばかりだものね」
不覚にも笑ってしまった。そのとき、低いドスの利いた声が後ろから響いた。
「てめえら、俺の悪口でもほざいてるのか?」
真渕の声だった。恵子はどこ吹く風といった顔で言い放つ。
「あら、おタバコは満足したの?」
「あん? 話をそらすな! オラァ!」
真渕が、突然恵子に殴りかかった。勝手に体が動いた。
気がつくと、私は真渕を地面に叩きつけていた。彼は腰を派手に打っていた。受け身の取り方を知らないらしい。
「あ、ごめんなさい……」
私はとっさに謝った。美里は感嘆したように目を輝かせた。
「望実ちゃんすごいな! 今の、背負い投げ? 柔道でも習ってたんか?」
「ちょっとかじっただけですけど。――あの、大丈夫ですか?」
「そんなクズほっとき。あ、でも感想ぐらい聞いとくか。今どんな気持ちや、言うてみ」
美里は勝ち誇ったような顔で、仰向けの真渕を見下ろした。真渕は、私と美里を交互に睨みつけた。
「舐めやがって。俺だって本気を出せば――」
「説得力ってもんを知らんのか? おとなしく帰れ」
真渕は舌打ちを残して去っていった。勝てないと踏んだらしい。振り返ると、恵子が立ったまま硬直していた。
「まさかいきなり攻撃してくるとは思いませんでしたね」
話しかけると、恵子は我に返った。それから、恨みがましい目で真渕が入っていった館の方を見た。
「あいつ、人殺しだわ。目がそうだったもの」
「考えすぎですよ。すごく弱かったし」
そう笑ったとき、頬に何かが当たった。さすってみると、指先が濡れた。雨が降り始めたようだ。腕時計に目をやる。午前一〇時一五分。天気予報の通りだ。正確すぎてむしろ恐怖を覚える。
時嶋空という天才エンジニアが世に現れたのが九年前。時嶋が制作したスーパーコンピューター『鳳凰』は、一秒間に十澗回もの計算ができるという。世界的に見ても、文字通り桁違いの技術らしい。
この『鳳凰』の登場により、長年未解決となっていた「乱流の理論的なモデル」が完成された。このモデルは様々なことに応用された。列車や航空機の空気抵抗の減少、火力発電や水力発電の発電力向上、電子機器に含まれる部品の放熱機能の改善などなど。その他にも数えきれないような変革をもたらした。
そのうちの一つに、天気予報の正確性の向上があった。その後も改良が重ねられた結果、ついには一か月後まで外れないようになっていた。それも一〇分刻みというすさまじい精度だ。現時点で外れたことは一度もない。一部では『ラプラスの鳳凰』とまで呼ばれている。
私は今朝、家で台風の予想進路を確認してきた。いや、もはや確定事項だから、予想とも呼ばない気がする。予知? 予見? どう表現したらいいのかは分からない。
当然だが、台風の予報円という概念は時嶋の功績により消滅している。ちなみにこの神々島は、ど真ん中直撃らしい。危険なことこの上ない。
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