第43話 荘英卓、目覚める
一瞬でも女主人のことを忘れた自分の愚かさを、萬姜は泣きながら責めた。
――ああ、わたしったら、なんてことを……。自分が背負うべき辛苦を、一瞬でも、魁さまに背負ってもらおうなんて、虫のよいことを考えて……。魁さまも呆れられたことでしょうに――
その時、うずめていた両手の間より青白い光が見えた。
顔をあげると、中庭に青白くもまばゆい光に包まれた月が現れた。月は見る見るうちに光の粒子となって霧散し、その中から青い龍が現われる。龍はするすると滑るように萬姜の傍にやってきて、くるりと宙を廻って男の子どもの姿となった。
「あらまあ、いつもの夢が。こんなところで、いつのまに寝てしまったのかしら?」
独り言を呟いた彼女を見下ろして、青龍の皇太子は甲高い声で言う。
「ゆめじゃないよ、おばちゃん。あにうえにいわれたんだ。おばちゃんがなやんでいるから、なぐさめよって。うけたおんはかえせって」
「恩って、それは何でしょうか? 青龍の皇太子さまに恩を返してもらうようなだいそれたことを、わたしは言った覚えもした覚えもございませんが」
萬姜の問いに答えることなく、着物の袖で涙を拭う萬姜の傍らに青龍の皇太子は座り込んだ。そして片手を彼女の背中にまわして、小さな拳でぽんぽんと拍子をとって叩き始める。
「おばちゃんのなやみごとはちいさくなれ……。おばちゃんのなやみごとはちいさくなれ……」
小さな手でたたかれ続けている背中が暖かくなってきた。同時に、今まで悩みに押しつぶされ鉛のように重たく感じていた体が軽くなる。
「あらまあ、驚きました。背中に羽が生えて、体が宙に浮かんだような……。悩みごとがどこかに飛んでいきました。いったい、どうなっているのでしょう?」
萬姜の背中を叩き終わった子どもは立ち上がると、胸を張り鼻の穴を膨らませた。
「ぼくは、まいにち、ていおうがくをまなんでいるんだ。これくらいのことはかんたんだ」
「なんか、元気がもりもりと湧いてきました。白麗お嬢さまのお世話は、このわたしにこれからもどんとお任せください」
いつもの癖で、萬姜はその豊満な胸を叩いた。しかし、青龍の皇太子は萬姜の言葉を聞いていない。可愛らしく小首を傾げて言葉を続ける。
「ええと、でも、ぼくはわからなくなった。おばちゃんのなやみごとって、はくれいのこと? それともしつれん?」
「し、し、失恋って!」
「だって、さっきのおとこ……。……。まあ、どちらでもいいか。ぼくのせなかぽんぽんは、どちらにもよくきくよ」
「まあ、青龍の皇太子さま。盗み見されていたのですか?」
驚いて立ち上がった萬姜を見上げるために、子どもはますますその背を反りかえした。
「いつかはてんていとなるボクがうそをいうとおもうのか。ひれふせ、まんきょう……。あっ、ひれふさなくてもいい……。おばちゃんは、ボクのせんせいだ」
「えっ? 先生?」
「うん、おばちゃんにじんせいをおしえてもらって、ボクはかしこくなったよ。おばちゃん、ボクはかんがえたんだ。いつかはボクはてんていになるけれど、そのまえに、あにうえのようなかっこいいおとなのおとこに、ぜったいになってみせるって。そして、そうなったボクのことを、はくれいがすきになってくれたらいいなって」
「まあ! それで先生とは。わたしのようなものに、あまりにももったいないお言葉です」
慌ててひれ伏した萬姜は階の下に敷き詰められた石畳に額をこすりつける。
「ひれふさなくてもいいって、いったのに……。そうだった、わすれるところだった。あにうえからおばちゃんにでんごんだよ。はくれいも……、ええと、えいたくっていうひともげんきになるって」
「それは、それはまことでございますか!」
「いつかはてんていとなるボクがうそをいうとおもうのか。ひれふせ、まんきょう……。あっ、ひれふさなくてもいい……。って、もう、おばちゃんはひれふしているんだね……。こんがらかっちゃうよ。まあ、いいか」
もう一度小首を傾げて、青龍の皇太子は言葉を続けた。
「あにうえはいっていたよ。はくれいのちをわけあたえられて、えいたくはすぐにげんきになるけれど、ちをうしなったはくれいがげんきになるのにはしばらくかかるだろうって」
そう言い終わると、青龍の皇太子は可愛らしい子どもからとがった鼻の先に髭をはやした威厳のある龍になった。そして再び、青白い光の粒子に囲まれる始める。同じ夢もこれで何度目だろう。青龍の姿に変身した子どもは眩しい光に包まれて、天に帰っていく。
首が痛くなるまで夜空を見上げていた萬姜は、突然、気がついた。
さきほど、確かに、無口な大男である魁堂鉄は胸に顔をうずめた彼女を突き放した。だが、驚きと恥ずかしさで、それは一瞬のことだと思ったけれが……。
男の胸にぶつかってふらついた彼女の足が落ち着くまで、彼の大きな手は肩にとどまり彼女をささえていた。そう気づくと、堂鉄の手が載せられていた両肩が暖かくなってきた。
※ ※ ※
大怪我を負った英卓が慶央に戻って来て、十日目の朝のこと。
まったく食事を受けつけなくなった少女にせめて一口でも粥を食べてもらおうと、萬姜と梨佳があれこれと苦労していた時。奥座敷の渡り廊下を走ってくる騒がしい足音がした。
「お母さま、いったいなにごとでしょう?」
掬った粥をのせた匙を手にしたまま、不安げな声で梨佳が訊く。
「誰でもは立ち入れない奥座敷。ここの廊下を走ることのできる人といえば……」
「かさいちゃまだよ!」
「まあ、嬉児の耳のよいこと」
「いつも落ち着き払っておられるあの家宰さまが走られるなどということが」
「梨佳、心配はいりませんよ。きっと、よい知らせです」
「ほんとうに?」
「ええ、わたしにはわかりますとも」
案内を請うこともなく、戸が開いた。家宰の允陶が息を切らして立っていた。
「萬姜、英卓さまが目覚められた。宗主が、白麗さまを呼んでおられる」
その言葉を理解できたのか、白い髪の少女の顔に笑みが浮ぶ。
……完……
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