第五章 天《あま》を翔ける 4
その年の夏アナスタシアは何年かぶりに家に帰った。軍の者は夏は完全な非番なので、当番の日以外は帰省を許される。当番といっても十二個師団の総勢六万と金鷲隊の五千五百、計六万五千五百の兵士が当番にあたるのだから、一人あたり二、三日ですませることが出来る。もっとも将軍たちはほとんどが既婚者で自分の屋敷に住んでいるから帰省もなにもないし、独身のセショア、アナスタシア、カイルザート、レーヴァス、ラシェルなどは、いまさらこの歳になって帰省などしても仕方ないと思っているのか、専ら宿舎に留まって好きにしている。時々、みなで連れ立って遠乗りに行くこともある。
しかし例外もあって、やはり家族を持つ将軍たちは領内の別荘に避暑に行ったり、柑橘将軍シドなどは、郊外の自分の別荘に行ってはたわわに実る数多くの柑橘類を楽しんだりもしている。
アナスタシアは軍隊に入ってからまともに家に帰ったことがなかった。帰ることなど考えもせず、帰らないのが当たり前のようにしていたのだが、単に気が向かなかっただけ。 宮殿の宿舎が、特に将軍になってからというもの、居心地がよすぎて動きたくないというのもあったのだろう。
そのアナスタシアが急に、帰省する気になった。
屋敷に使いを送り、支度を簡単に済ませ、供も連れずアナスタシアは涼しい正午の住宅街を騎馬で進んだ。たまに道ゆく人や屋敷の庭からの視線や囁きを感じ、聞き取ることが出来る。
上級貴族・公爵ファライエ家のアナスタシア。
将校以下の伍長から這い上がって将軍になった十二将軍で一番の出世頭だ。
ひとくちに上級貴族といってもどこの貴族でも持っているという称号ではない。また公爵だからといって上級貴族というわけでもない。上級貴族の定義というのは、千年以上の伝統を持つ貴族に冠せられるもので、つまり家柄の古さにつくものだ。だから伯爵家や男爵家でも上級貴族というのが帝国には存在する。現在帝国には貴族と名のつく家は約五万ほどあり、その中で上級貴族は百にも満たない。ファライエ家はその百に満たない上級貴
族のなかでも五杖家といわれる内の一で、家柄の古さは半端なものではない。だからアナスタシアが軍に入隊すると言ったときの周囲の反対も凄まじいものだった。親戚も年上の
従兄弟従姉妹たちも母も猛反対だったが---------……当主の父がただ一人、賛成し許してくれたので、アナスタシアは入隊を果たすことができた。今それを思えば、父が自分の一番の理解者だったということだろう。
門の近くまで来ると、ファライエの門番が先にこちらに気づいた。中に向かって何事か言っている。しばらくすると一人の背の低い老人が走り寄ってきて、その頃は門に到着していたアナスタシアを迎えた。
「お嬢様!」
「じいか。変わりないな」
アナスタシアは苦笑いした。普段「閣下」と呼ばれて、それに慣れてしまうと、「お嬢様」は少々照れるものがある。アナスタシアは馬から降りて馬を門番に預けると中にじいと呼んだ老人、ファライエ家の執事をして五十年というティッサと共に玄関までを話しながら歩いた。
「大きくなられましたなお嬢様。戦で勝ちなさるたびじいは天にも昇る気分ですじゃ」
「大きくなったといってじい。いくつだと思っているのだ。お嬢様もやめてくれない」
「お嬢様はいつまでも私のお嬢様でございますよ」
「やれやれ」
アナスタシアは半ば諦めたため息まじりで呟いた。このティッサは、自分にとって皇帝にとってのヴィウェン将軍のようなものなのだと、つくづく思う。
屋敷の玄関に着くと母と侍女たちが迎えてくれていた。親戚のいとこたちの顔もいくつかある。
「アナスタシア」
「……母上」
「久しぶりですね。元気にしていましたか」
「はい」
アナスタシアは母の側まで歩み寄った。金茶色の髪、濃い青い瞳。自分を公爵家の跡取りにして、己れと同じく、結婚して、子供を産んで、平和で無難な生活を歩むことを一番強く願った母。自分のことを少しも理解していなかった人。入隊したいと言い出した時、あれだけ説明したのにも関わらず理解する努力も、聞こうともしなかった母。私はこんなに美しい金茶色の髪なのに、なんであなたはこんなに重たい黒い髪になってしまったのかしらと、幼い自分に面と向かって言った母。自分さえ楽しければいい母。
入隊していとこたちはアナスタシアの言い分をよく理解して応援してくれていたが、反対にまわっていた母は、最後まで許さず、なんの連絡もしてくれなかった。なのに三段階の大昇格ののちアナスタシアが将軍になった途端、態度を手のひら返したように変えた母。 帰省しない理由のひとつはこの人がいるから、この人に会いたくないというのも理由の一つだということを、アナスタシアは気づいていた。
(母上)
アナスタシアは心の中で自分の前を歩く母の背中に囁いた。
(あれだけファライエの跡を継がせたがっていた私が、戦のたび陛下に抱かれていると聞いたら、あなたはどんな顔をなさるでしょうね)
アナスタシアは冷笑した。
この女は、恥ずかしげもなくそれは名誉なことですよと言うに違いない。
アナスタシアが皇后マリオンと和解するまでの苦悩や皇帝に対する尊敬の強さなどは考えもせずに、ただ「皇帝」という権威とそういう関係になったことを喜ぶに違いないのだ。
アナスタシアは午後の紅茶をいとこたちと母と楽しみ、何年かぶりの自分の部屋でしばらく休み、それから父の部屋へと赴いた。
入隊当時非難の的だったアナスタシアは、今は一族の誇りだ。皇帝の側近くに仕え、時に戦を共にするという。彼ら上級貴族でさえ年に一度謁見できるかできないか、まして口をきくなど想像もできないのに、アナスタシアにとってはそれが日常なのだ。しかしアナスタシアは、自分が入隊してから応援してくれていた伯母やいとこたちと、表では笑顔で頑張りなさいと言いながらも裏では、
「アナスタシアは、あれはだめだな」
くらいのことは言っている親戚連中を冷静に見抜き、彼らが自分のところに来た時の態度をはっきりと分けていた。権威と地位と名誉を手に入れた途端に寄ってくるような人間を、アナスタシアは近寄らせないことにしていた。
父はいつもの書斎にいるはずだった。
アナスタシアは書斎の扉をノックして、
「入りなさい」
といつものようにこたえる声を確認して入った。
「アナスタシア」
「父上……」
知らず笑顔になる。唯一の理解者。いつも優しい父。力強く、いつも見上げていた父。「大きくなったなアナスタシア」
「久しく帰りませんで……申し訳ありません」
「なに良いのだ。だいたいのところ想像はついている。お前の気性だからあれだけ非難していた者が、いきなり将軍になったのはさも自分のおかげだとでも言わんばかりに祝辞を述べる連中の顔が見たくなかったのだろう。将軍になるまでの道のりは、彼らの一言のおめでとうで片付けられるほど、簡単なものではなかったはずだ」
アナスタシアは内心でほっと息をついた。このひとは、こうして自分をわかってくれている。
「陛下はご健在かね」
「---------え? は、はい」
突然皇帝のことを聞かれたのでアナスタシアは焦った。このひとの眼力は、もしかしたら自分と皇帝のことまで見抜いてしまうのではないか? 父はさすがに上級貴族筆頭五杖家の内の一つの当主だけあって、その能力は並大抵のものではない。アナスタシアは見事に彼の血を受け継いだといっていいだろう。彼女の策士ぶりはこの男の血を濃く受け継いでいるゆえなのだ。女のアナスタシアには、このことは幸か不幸かはわからない。
彼女は知らなかったことだが、アナスタシアが三段階大昇格を果たしたとき、この父は口元に微笑たたえて、
「ふふ……男に生まれずとも楽しみな娘よ」
と呟いたそうだ。つまり男でなくても充分才能がそれをカバーしているということを秘かににおわせる発言であったが、無論アナスタシアはそんなことは知らない。
「ゼンディの別荘は居心地がいいようかな」
「はい。時々様子を見にいきますが快適に暮らしているようです」
「それはよかった」
「申し訳ありません無断で……」
「いや。どうせあの屋敷はもう何年も行っていない。好きにしなさい」
父は言うと立ち上がった。両手を広げるとアナスタシアに言った。
「おいで」
「---------」
アナスタシアはどうしようもない郷愁をそんな父の姿に感じてしまう。少しも変わらない父。いつも強い父。アナスタシアはそっと歩み寄るとその腕のなかにすっぽりとおさまった。こんなに成長して背が高くなってもまだ自分をすっぽり覆ってしまう父。きっと自分は、このひとを永遠に超えることが出来ないだろう。
「大きくなった……苦労もあったろうに。よく帰ってきたなアナスタシア」
「……」
アナスタシアは言いようのない感情が胸に溢れてきて、たまらず目を伏し目がちにした。「いつでも帰ってきなさい。ここがお前の家なのだから」
父の声は穏やかだった。
そしてその言葉は、アナスタシアが軍隊に入隊する前夜、贈った言葉とまるきり同じだった。
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