第四章 冬籠もりの間に 3
4
蜜柑食べるならシド将軍に
甘夏もぐのならシド将軍に
どんな蜜柑食べるときも 柑橘将軍に聞いてから
どれが食べごろか すぐわかる
蜜柑食べるならシド将軍に まず聞いてごらん
これは風刺でもなんでもない、ただ事実を正確にとらえた帝国の領民の間で知らず知らずの内に口ずさまれるようになった歌だ。
通称柑橘将軍シド・ヒエンラはその名のとおり三度の飯より柑橘類が好きという、十二将軍のなかでも一味変わった男だ。
彼はヒエンラ家の領地に広大な蜜柑畑を持っており、休暇には家族と共にそこへでかけ大好きな柑橘類を文字どおり山と摘んで色々加工しては持って帰る。ジャムにするとなんともさわやかな甘味のあるものができるし、皮を剥いてそのまま丸ごと酒に漬けると年を重ねるごとに味わいのある蜜柑酒になる。砂糖漬けにしてもよい。ひとくちに柑橘類といってもかなりの種類があって、ざぼんから甘夏、からたちは香りがよいが食用にはできず、未熟の実を干して健胃剤に用いているものもある。
実に畑になる柑橘類は数十種類で、彼は夏が待ち遠しくてたまらない。夏と冬に日々世話になっている者に贈り物をするという風習は帝国独自のものだが、そんな季節になると、珍しい遠方の蜜柑だとか特定の土地にしか実らないオレンジだとかを同僚の将軍たちが贈ってきてくれて、休暇中のシド将軍はほくほく顔である。
特に収穫の多い夏などには蜜柑のよく熟れたものを将軍たちに送ったり、無論皇后と避暑でセレンティに行っている皇帝にも毎年欠かさず送っている。
一人を除いて十二個師団の隊の命名はすべて皇帝がしたというが、第七個師団、皇帝は向かって左のいちばん手前に立つのがシド将軍だと気付いてふむ、と呟いたという。
「シドか……では象徴色は橙」
皇帝の言葉を側にいた側近がもれなく書き記している。
「隊の名は……そうだな。光香隊にでもするか。光香る隊」
それにおや、という顔で反応したのはわずかに四人、当のシド、アナスタシアと、ラシェルとカイルザート、後は終始笑顔だった皇后くらいなものか。
皇帝は蜜柑を始めとする柑橘類が古い古い書物に「光が香るような果実」と形容されていたのを知っていたようだ。シド将軍の顔は嬉しそうであった。以前皇帝が皇后マリオンに話したところによると、
「シドのことを思い出すと口のなかが酸っぱくなる」
などと言っていたそうだ。五十四歳のシド将軍だが、柑橘類を通して様々な種類の人間と交流しているせいか、多くの数奇な経験をしている。が、さすがに飛び込みを止めたのはあれが最初で最後だろう。そうあれは彼が三十五歳のときだから、かれこれ十九年前。
ヒエンラ家の領地は南の方にあって、西の公道から行くのが一番早い。
シドはその夏の日、リヨンの病気の知り合いのもとへ畑でとれた蜜柑やらざぼんやらを届けるためにアデンを通った。アデンを通らないとリヨンには行けないのだ。籠いっぱいに柑橘類を詰め、彼は騎馬で街を通った。
(しかし信じられないほど荒廃してしまったものだな)
彼は無表情を装いながらしかし、目ではしっかりと辺りを見回しながら、彼は心中そう思ったものだった。昔はあんなにも栄えていたアデンが、今はさびれて吹く風もどこか錆びたような色をしている。道に人はなく、ただ危険な顔つきをした男たちがこちらを凝視するのみ、花売りも出店も、はしゃぐ子供たちの姿も今はない。
街を抜け、道を行くとしばらくは林を歩く。そこを抜けると一面に海、道沿いに行けばもうリヨンだ。彼は風上から吹いてくる微かな潮のにおいにこころ踊らせながら、馬をゆっくりと進めていた。
その時である。
彼は右前方の崖に一人の人影を見た。
「?」
最初は何気なく目にしてそのまま通りすぎようとしたのだが、なにか嫌な予感がしてシドは、馬を止めた。
人影はゆっくりと、放心したようにゆっくりと崖の先まで進もうとしている。
「!」
飛び込みだ。シドは焦って馬首をそちらに向け馬を走らせた。近付くにつれそれがひどく若い女だということがわかった。そしてその女が、ひどくやつれているということも。 正に女が海へその身翻そうとした時、間一髪、シドはその痩せ細った手をつかまえて止まらせるに致った。
「嫌……離してください」
「早まるものではない、やめなさい」
「離して……嫌……」
抗う娘、その娘の身体は痩せ細ってはいたが、明らかに子供を宿した身体だということを見抜いたシドは、自殺の原因をそこに見た。
「まあ……そう急ぐことはない。いいから私に話してごらん。死ぬのはそれからでも遅くない」
彼は娘を離さないままずっと下がらせ、崖から海が見渡せる程度の気持ちのいい草の上に座った。
「今日はいい天気だ。弁当日和だな」
馬を側にやりながら、彼は娘に座るよう示した。見ると、貧しげな身なりをしている。 彼は一瞬目を細めて娘を見た。ひどくやつれ、心労が重なっているようだ。
「さあ話してごらん。またどうして自殺なんか」
「……」
「子供ができてしまったのなら、相手の男と両親の所に行って結婚してしまいなさい」
と、うつむいて座っていた娘の瞳に、見る見るうちにじわりじわりと涙が滲んできた。
「どうしたのかね」
驚いてシドは尋ねた。
「違うんです! 好きな人の子供じゃないんです……私の恋人は……婚約していた人は……この子供の父親に殺されて……」
「何」
ますます驚いてシドはよく事の次第を言うように娘を説いた。アデンの街に住んでいると最初に聞いたとき、なにか嫌な予感はしたのだが、それは当たった。
「……それでは婚約者はその男に」
娘は黙ってうなづいた。そして今、その愛する男を殺した男の子供を身籠もっている。
「それで自殺を……」
「これ以上生きていたってなんにもいいことなんて……いいんです。リオンのところに行くの。生きていたくないの」
そして娘はまた泣きだした。
シドはため息をついた。やれやれと思った。なんという悲劇であろうか。帝国領民が幸せな生活を送っている一方、こうして絶望だけを目にして生きている人間もたくさんいる。 世界の人間がみな幸せになれる日はいったいいつのことだろうか。シドは思いついて、馬の鞍から籠をとってきて中から蜜柑をいくつか取り出した。
「まあ食べなさい。これは栄養があるんだよ。友人に持っていこうと思っていたものだがこれだけあれば少し減ってもどうということはない」
シドは自分のぶんの蜜柑をむきながら娘にも進めた。娘は彼が蜜柑を食べるところをじっと見ていたが、そのあまりに幸せそうな顔と、芳醇な甘酸っぱい香りに惹かれたのか、
「……いただきます」
と小さく言って蜜柑を食べはじめた。
「---------」
「どうだいおいしいだろう。私の畑でとれた自慢の蜜柑だよ」
シドは手を持っていた手ぬぐいで拭きながら娘に言った。
「もう少し生きてごらん。それでだめだったらまた別の道が開けるはず。死んだらなにもできない」
サワと風が吹いた。
「……」
しばらくして娘は重い沈黙を破ってこくんとうなづいた。
誰になんと言われようと死ぬつもりだった、ついさっきまでは。なにが原因で思い止まったのか、多分この目の前の男は自分が死ぬことを無理には止めないだろう。自分にその権利はないと彼の顔が言っている。
また説得も、絶対にやめなさいというものではない。が、ではなぜ、もう少し生きてみようと思ったのか、自分でも不思議なほどこたえは見つからない。いや、あるのだが、単純すぎてそれは果たしてこたえなのか、どうか。
---------だってこの蜜柑がとってもおいしかったんだもの。彼が死んでから何かをおいしいと思ったことなんてなかった。
娘は目の前の男を見た、風にそよがれながら海の方を見ているこの男を。
---------それに、このおじ様必死な顔をしていたから。
本当にそれだけ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます