第12話『黒薔薇の王子』
王城の扉の前には既に、フィリップ王子が待ち構えていた。
リリーは最初、遠目からでも目に付くこの美麗な男性が、あの清廉で凛々しい王子であることにまったく気づかなかった。何しろ普段の彼は淡く明るい衣裳の印象が強く、リリーにとっては
だからこそ、遠目からではやや退廃的な気配さえある暗い印象のその男性は、偶然鉢合わせた客人か何かだと思った。馬車が扉の前に着き、その客人らしき男性の輝く金髪とスカイブルーの瞳を間近に見て、リリーは大層驚いた。
対して、今日は格好良く決めようと決心し待ち構えていた王子は、馬車の小窓の中に彼女の姿を認めると、緊張と興奮に全身を貫かれて息を詰めた。呼吸の仕方が分からない。目を見開いて心臓を上から握り締めていると、側に控えていた執事が見かねて、彼に代わってバラモア家の馬車の扉を開けた。
王子はすぐに姿勢を正して、綺麗に微笑んだ。それは、決して作り物の笑顔などではない。
思った通りゴシックな装いをしてきた彼女に自然と笑みが溢れてくる。笑いが止まらなくて困るくらいである。王子は、一つ息を吸って心を落ち着かせた。
「リリー・バラモア嬢」
「は、はい」
「さぁ、お手を」
そう言って彼女へ差し出した手は、ごく僅かだが歓喜に震えていた。
王子の大きくしなやかな手を辿っていくと、ジュ
縁にレースが施された白い襟以外は、どこもかしこも黒やグレーが重ねられている。
好きな異性が好む色を纏う、或いは相手の家の伝統色を纏う、というのは確かに色恋に鈍いリリーでさえ聞いた覚えのある好意の伝え方だが、ここまで揃うと最早そういう話でもない。
まるで双子の合わせ衣裳のようにお揃いな服に、彼女は何か気の利いた冗談でも言った方がいいのか、或いはスマートに流したほうがいいのか、そもそも王子は何を思ってこのような服を着たのか、まったく意図が読めなかった。しかしながら、夜の色も似合うことへの称賛は、素直に述べたいと思った。
彼女は王子の手を支えにして、自分の馬車から王室専用の馬車へと乗り込む。
わざわざ王城から二人揃って劇場に行くのは、他でもない王子の願いであった。
「……殿下はいつも明るい色を纏っておりますから、まさか黒をお召しになるとは思いませんでした」
「まあね。せ、折角、リリーと一緒に出掛けるから……その、どうかな」
「ええ、勿論、とても良くお似合いです」
朝からの準備で既に疲れていたリリーであるが、彼女は今日という日を、数年の溝を埋めるいい機会だと前向きに捉えていた。
今までは無理に距離を縮めようなどと思わなかったが、いつだったか父の言った、「主人と真の信頼関係を結ぶことは大切だ」という言葉も大いに彼女の背を押した。
そうした部分を蔑ろにしがちな彼女からしてみれば、今日は間違いなく絶好の機会であった。
キャビンの扉が閉まると、さっそく二頭の白馬が歩き始める。
王子は隣に座したリリーからふと香ったユリの匂いに、目を瞑って歓喜に打ち震えた。堅物な彼女がわざわざこれを纏ってくれたのかと思うと、今すぐにでも抱きしめたい衝動に駆られる。
しかし長年、彼女への愛の重さと彼女に嫌われてしまったという恐怖心ゆえに距離を取り続けてきた王子には、その肌に触れることはおろか、この至近距離で横顔を盗み見るだけでも精一杯である。
距離が近すぎて、心臓が爆発しそうだ。彼女のドレスの裾が足に触れて緊張する。そんなことを思って暴れる心臓を押さえる彼だったが、正面からリリーを眺め続けて不審に思われるよりはいいか、とも思った。
王子にとって、これは間違いなくまたとない好機である。
想い人の父から直々に外出を許可され、それも場所は薄暗く人目にもつき辛い観劇だなんて。なによりもあのリリーが、それを喜んで許可し、あまつさえここまで完璧に美しく着飾ってくるなんて。
――大丈夫だ、フィリップ。勇気を出すんだ、いけるぞ。彼は隣を盗み見ながら、震える心を叱咤して口を開いた。
「その、きょ、今日は良いお日柄で……」
「そうですね。ですが午後からは雨が降るかもしれませんよ。向こうの雲が暗雲ですし、鳥が低空飛行しています」
「リ、リリーは、そういったことにも、詳しいんだね」
「遠乗りに出ている時や森に入っている時は、ある程度の空模様を分かっていた方が便利ですからね」
「と、遠乗りも趣味なんだね! それなら僕も好きだ……あっいや、観劇も木彫りも魔道具調査もす、好きだけど……」
「魔道具調査……殿下がそんなことをされるとは、少々意外です。ですが私もつい、物珍しい魔道具は集めてしまうんです」
話は概ね弾んだ。少なくとも、王子が恐れていた気まずい沈黙は訪れずに済んだ。
それどころか、揺れが少なく広くてゆったりとしたキャビン内は居心地が良いのか、リリーはその無表情にごく僅かな笑顔を浮かべてさえいた。
彼女の機嫌を鋭く見抜いた王子は、外の景色を眺めていた彼女の手を引き寄せようとして……結局手を宙へ彷徨わせるだけで終わった。
「その……ば、馬車が気に入ったみたいで、良かった」
「え、顔に出ていましたか?」
「えっ、う、うんまあちょっと、ちょっとだけ。僕じゃないと気づかないくらいね」
「そうですか。殿下はよく人を見ていらっしゃるのですね」
君だからだよ、とまでは流石に言えず、王子は心の中で一人そう呟いて、羞恥に顔を赤くした。いつか、これを堂々と口に出して言えるようになりたい。そんなことを考えているうちに、馬車はいつの間にか劇場前へ到着していた。
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