第11話『黒薔薇の乙女』
――リリーの礼拝堂探索より、少し前。
バラモア家当主兼リリーの父・ロイドは、執務室の中で猛烈に頭を抱えていた。とんでもない事を言ってしまったという自覚は、ある。
王子の観劇の護衛だなんて嘘っぱちもいいところだ、仕事にかこつければリリーが頷いてくれるのは分かっていたが、問題は王子の方である。
どうにかしてリリーの代わりに
王城の近衛騎士団団長であるロイドが、登城の際に『どうやらベルナデッタ嬢とフィリップ王子が急接近しているらしい』という噂を聞いた時は、それはもう酷く胸を痛めた。
愛する娘を思えばこそ、王子とは家柄や誓いに縛られるだけの主従関係ではなく精神的な繋がりを持ってほしいと思っていた。それが男女の契りであるなら余計にいい。王族の影として生きるバラモア家だが、それでも愛娘に普通の女子としての人生を与えてやれるなら、そんなに幸せなことは他にない、と。
だがそんな愛が暴走した末に口を衝いて出た嘘は、今も行き場のないまま宙を彷徨っている。リリーと偽って王子へ誘いの手紙を出すか、直接観劇へ誘うべきか。
散々頭を悩ませた末に彼が選んだのは、玉砕覚悟の後者であった。
……それはある日、王城の渡り廊下でのことである。
『やや、殿下っ。本日もベルナデッタ嬢とお茶会ですかな』
『え? いえ、今日は彼女は来ないですよ』
『おやそうですか! いや、最近お二人に関する微笑ましい噂を聞きまして……ところで殿下は、観劇などにはご興味はおありですか?』
『か! かんっ、観劇……! す、好きですよ、まだあまり詳しくはないのですが。興味は凄くあるのですが、一人では中々……』
『そ、そうですかぁ! いや実は、うちの娘は昔は大の観劇好きだったのですが、最近は家の仕事ばかりでめっきり……仕事熱心なのはいいんですがね。たまには息抜きもさせてやりたくて』
『あっ、リ、リリー嬢が観劇がお好きなことは、実は、ベルナデッタ嬢から聞いていますよ。幼い頃はよく観劇をねだっていたとか……そうですか、息抜きを……そ、そ、そそその、り、リリー嬢はその……。近々とある劇団がやってくるそうですが、観劇の予定などは……』
『え、ええ! ちょうど、その噂は我が家でも持ち切りでしてね! リリーはその劇を観るのを楽しみにしておりまして……なんでもあの子の好きな悲しい愛の物語だとか!』
『そ、そうですか! もし差し支えなければ、リリー嬢が良ければ、その、』
『勿論ですとも! リリーも喜ぶでしょう、ずっと王太子殿下を気にかけていて、その……懇意になりたいと!』
……話はこうして、ロイドが思っていたより遥かにスムーズに進んだのだった。
***
大きなドレッサーに映ったリリーは、その日ばかりはいつもの豪勇さを潜ませて、夜露に濡れた黒薔薇のように美しい乙女へと変貌していた。
すっきりと伸びた白い首から肌を辿って視線を下ろしていくと、滑らかな黒地に砕いたダイヤが縫い付けられ、フリルが何層も重なったフランセーズが柔らかな体を包んでいる。
目元は憂いの影を落とす程度に色付けられ、唇は暗がりにも負けない濃い赤がのせられた。
早朝から王家の象徴であるユリの花を浮かべた湯に浸かり、丁寧に丁寧に洗髪した髪を見事に編み込んだのは、彼女のヘア事情には人一倍詳しい侍女のポーラである。
「仮面は、金縁に黒塗りのこちらはいかがでしょう。昨晩、少し黒羽根の手入れをさせていただきました」
「あぁ、それがいいな。それは私も気に入っている」
リリーが自身の服装について意見を述べたのは、このたった一度きりであった。
すべての支度が終わり、ほぅ、と鏡越しに見える主人に感嘆の息を吐いたポーラは、暫くうっとりとその姿を眺めた。元々の素材もさることながら、繊細な化粧で彩られたお嬢様はまるで精巧に作られた人形のようだと零すと、同じくその場にいたセヴァと父も、うんうんと何度も頷きながら、その美しさを
そんな周囲を余所に、リリーの視線は鏡の中の胸元に注がれていた。
ドレスの襟首は、彼女が普段着ているシャツとは違い大きく開いている。
「ちょっと肌を見せすぎでは?」と心配性の父のような意見を述べるリリーとは真逆に、父は「何を言う、女子ならこれくらいが普通だ」とまるで年頃の娘の如く言い返す。
手練れた大人から見れば特に、王子は少々純朴で初心すぎるところがある。これくらい張り切らねば、と一人息巻く彼は、既にやや疲れている様子の娘を元気づけるように、再度褒めちぎった。
さて可憐な淑女へと大変身を遂げたリリーであるが、『王子の護衛』という本懐を忘れた訳ではない。
バラモア家の所有するドレスにはどれも、フランセーズのローブの隙間が広く開いていて、スカートの中に簡単に手が入るような造りになっている。そうして、隠し持つ武器を抜くことができるのである。
リリーが正装をする場合にも、いつもガーターベルトの上に愛用の短剣を下げている。無論この日も、短剣の鞘は彼女の太腿の横で揺れている。
本当は堂々と帯剣したいと願っている彼女だが、騎士でもあるまいに流石にそこまでは許されない。今は亡き母や知徳に優れた兄が言うには、『剣の代わりに小さな武器を忍ばせ、あとは知略で乗り切るのがバラモア家の淑女の嗜みである』らしいので、これで我慢しておくべきなのだろうと、リリーはそう思うことにしていた。
彼女は馬車に揺られながら、劇場で敵襲を受けた場合のシュミレートをして王城までの時間を過ごした。
そして市街を抜けた先、大きく構えた城が徐々に近づいてくる。
人知れぬ父の期待を乗せたバラモア家の馬車が城の敷地内に入ったのは、リリーが起床してから、実に九時間後のことであった。
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