第5話『ベルの心』

 頬を紅潮させたベルは、入室した勢いのまま一息に今朝のことを語った。


「私っ、今朝殿下にお会いしたの! うちの孤児院のことでちょっとね……それで、その時に伺ったのよ、先の満月のこと。噂は聞いてたけど、あなたにはとても感心したわ。それで私も思い切って次の夜は是非って言ったら、頷いて下さったの!」


 その勢いに暫し圧倒されたリリーは、やがてゆっくりと頷いた。護衛兵などは居たのだし、武器を持たないベルを無防備に室内へ放り出すことはしないだろう。しかし彼女の言うことが本当ならば、あの手紙はどういうことか。


 リリーが返事の続きを考えあぐねていると、それに気づいたベルの視線が不意に侍女の手元へ滑った。そして見つけてしまった。便箋と、そこに書かれた『F』の文字を。


 彼女が侍女に飛びついたのと、リリーがそれを制止したのはほぼ同時であった。


 手紙を読んで悲鳴を上げたベルは、「どういうこと!?」とリリーに詰め寄る。


「いや、それは――」

「ベルナデッタ様」


 ソファーの上で狼狽うろたえるリリーと吼えるベルを仲裁したのは、それまで静観していた執事のセヴァであった。彼の糸目が、確かにベルを捉える。


「いくら親しいご友人と言えど、プライベートの手紙を許可なく見るのはマナー違反では? まして、これは王太子殿下からの私的な手紙です。殿下へのご配慮も含め、レディとしていかがなものかと」


 他家の執事がなんて無礼な、という反論は流石に彼女の口からも出なかった。セヴァの言うことは尤もで、ベルの母がこの光景を見たら確実にきつい仕置きを受けるだろう。『なんてはしたない事を!』と甲高く叫ぶ声が今にも聞こえてきそうだった。


 ベルは自身の柔らかな手をきつく握った。目に涙を溜めて手紙を侍女へ押し付け、部屋を飛び出していく。足音が遠ざかる間、重たい沈黙だけが部屋を満たした。


「……どうなさいますか?」

「……ソニアへ手紙を書いてから、殿下へどういうことか確認しに行く。馬を用意しておいてくれ。ソニアならなんとかなだめてくれるだろう……多分」


 昔からこうなると、仲裁に入るのは残った一人であった。


 リリーは早速机に向かって羽ペンを走らせた。速達で届けるように伝え、続けてまだその場に立っているセヴァへ「早く馬を用意しろ」と急かしたが、彼は真顔でこんなことを言ってのけた。


「馬の前に身嗜みを整えなくては。まずは入浴です、今日は朝早くからまた近郊の森へ行ってらしたのですから」

「え、いや……そこまでしなくても軽く布で浄めれば、」

そこまで・・・・……? 今のお嬢様の体は、汗と泥まみれでございますのに?」


 只ならぬ覇気を纏って制止する彼へリリーは口を噤んだ。


 確かに彼女はまだ乗馬服であったし、昨夜は雨が降ったせいで土がぬかるんで泥はねも酷かった。このまま王子に会うのでは公爵家の名折れも甚だしいということで、彼女の体はなんと一時間もかけて丁寧に磨かれ、やっと貴族らしい優雅さと気品を取り戻し、そして青いフランセーズによって麗しく飾り立てられた。


 黒いレースが幾つも付いたロマンチックなデザインであるが、駄目押しと言わんばかりに胸元にシルバーのネックレスがかけられる。


「……おい。舞踏会に行く訳じゃないんだぞ」

「これくらいは当然です」


 髪も丁寧に櫛を通していたが、れたリリーが限界まで引き絞った弓矢の如く今にも飛び出しそうになったところで、侍女はもどかしい思いを抱えつつ渋々手を引っ込めた。


「お綺麗でございます」

「こんなに気合を入れる必要はない! 今から出たら、着いたら日暮れだぞ!?」

「ええ、馬車の手配はばっちりですので急ぎましょう」


 清々しい笑顔を見せるセヴァに、リリーは地団駄を踏みつつ玄関へ急いだ。


「――ハイヤッ!!」


 急げ急げと神経質なリリーにせっつかれた馭者ぎょしゃが馬を急き立て、馬車はぐんぐんとぬかるんだ道を走った。


 おかげで半ば跳ねるキャビンは滅茶苦茶に揺さぶられ、軽く結われたリリーの髪はほつれにほつれていたが彼女は少しも気にしなかった。


 さて猛スピードで進む馬車の速度が徐々に落ちて、やっと口を開いても舌を噛まなくなった頃。


 解けた髪に手を添え、暫し閉口したリリーが何も言わずセヴァに背を向けると、彼は乱れた彼女の髪を手早く結い直した。お転婆な彼女と長く連れ添ってきたセヴァにとって、この程度のお直しはまさに朝飯前である。


 城の跳ね橋を駆け抜けて大きな扉の前に馬車が滑り込み、先に降りたセヴァの手を借りたリリーが優雅に降車する。公爵家の面目を保つため、彼女はそれまでの狂騒が嘘かのように落ち着き澄ました顔で、ゆったりとヒールを地面につけた。


 王子との面会は城の庭園にて行われた。入口にセヴァを待たせたリリーが一人で庭内へ進むと、やがて向こうから、おずおずと庭へ顔を出したフィリップ王子が見える。懐かしい影だった。彼は彼女が一人であることを確かめると、ホッとした様子で歩みを早めた。


「リ、リリー……。……リリー嬢……」


 王子は眩しい金髪と白い肌に夕日の色を溶かし、全身を淡い赤に染めていた。彼はリリーの記憶にあるより随分立派な男性になっていた。かつての美しく慈悲深い少年は、その美しさをそのままに、凛々しく引き締まった顔立ちになっていた。頬が緊張で強張っている。そして透き通る清廉なブルーの瞳は、期待と不安でゆらめいている。


 すらりと伸びた腕も足や、細く引き締まった体は均整がとれている。安定した重心は、彼が腰に下げている剣が飾りでないことを証明していた。


「こ……この前、ぶりだね。……き、綺麗だ」

「どうもありがとうございます。殿下も、相変わらず麗しゅうございます」


 リリーの口からするりと出た褒め言葉は、決して軽薄なお世辞などではなかった。


「そんなに、堅くならないで……あ、あの、あっちのベンチに、座ろう」


 王子の手がリリーへ伸びかけて、そのまま下へ落ちていく。ぎゅっと握られた拳は何にも触れられないまま、二人は歩みを進めた。


 庭園を飾る色とりどりのユリの花が足元で揺れると、彼女はつい俯いて、その静謐せいひつの美に瞳を奪われた。時折、風に吹かれて二人の髪が揺れる。彼女の伏せた横顔を、王子が人知れずじっと見つめる。


 ベンチに座ると、リリーは早速用件を打ち明けとようと口を開きかけた。しかし王子がなにやら口ごっていることに気づいて、慌てて言葉を飲み込む。


 彼が話しやすいように、ゆっくりで構わない、という意味を込めて柔らかい視線を向けながら、黙って言葉を待った。随分と長い沈黙のような気がした。やがてもう一度乾いた秋風が吹き去ったのをきっかけに、王子は膝の上に置いていた手を握って、口を開いた。


「その……この前は、ごめん……。襲い掛かってしまった、んだよね」

「理性がない時のことなのですから、お気になさらないでください」

「う、うん……次は……次の夜は、気を付けるから。でも今日は、なんで突然?」

「今日は、殿下に伺いたいことがあったのです。ベルナデッタ・ベルセリア嬢の事です」

「あぁ……、彼女がどうかした?」


 そのあまりに呑気な返事に、リリーがぴくりと眉を動かす。


 それを目敏く見つけた王子は、慌てて両手を振った。


「あ、あ、彼女は、あ、明るくて聡明だよね! え、でも、本当になんで? どうかしたの」

「今日、ベルナデッタ嬢から、次の満月は殿下と共に過ごすと聞きました。……ですが今朝、私も殿下からその、お手紙を頂いたものですから」


 プライベートの手紙を、とまでは言い辛く、それとなく濁す。すると彼も、短いながらに有りっ丈の勇気を振り絞ったあの手紙を思い出したのか、ポッと頬を赤く染めた。


「あ、あ、ああ、うん」

「そこには、『次の満月は私と共に』と書かれておりました。ですが今日、ベルナデッタ嬢からは彼女が共にすると……一体殿下のお心がどこにあるのか、伺いたくて来たのです」


 リリーは続けて、自分はベルの後で構わないと言おうとした。しかし伏せていた顔を上げた時……隣に輝く王子の瞳を見て、彼女は言葉を失った。


 フィリップ王子は、いつも闇夜のような冷ややかさを纏う彼女が、自分の気持ちを確かめるためだけに、手紙も寄越さないほど焦ってここまで駆けつけてきたことにいたく胸を打たれていた。


 彼女がそんなことを確認するために、ここまで? そんな驚きと喜びが王子の胸を甘く焦がしていく。それは徐々に炎を上らせ、彼の視界の中心にいるリリーをいつも以上にいじらしく、そして健気に見せた。


「っリリー……!」

「!?」


 突然両手を掴まれた彼女は、目を白黒させながら、何やら興奮している王子を伺い見た。そうして自分を上目に見るリリーに、王子は優しく顔を綻ばせる。


 それは慈悲深く愛情に満ち、まさに花が咲いたような満面の笑みであった。が、しかしリリーは、なぜ突然そのような笑顔が向けられたのか、まったく理解出来なかった。

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