第4話『一騎打ちのそのあと』
巨体が倒れ込む振動を感じながらゆっくりと剣を下ろしたリリーは、静寂の中に横たわる王子に近づき、そっと頬に触れた。
ごわごわとした獣の毛が指先に絡んで優しく
彼女が立ち上がると、やっと室外が騒がしくなり始めた。断りもなく性急に開けられた扉の向こうには、顔を青くした城の従者たちと、リリーの無事に胸を撫で下ろすセヴァが立っている。
「お嬢様……ご無事だと信じておりました!」
安堵と歓喜のあまり叫んだセヴァが慌てて口を押さえる。床に倒れた野獣の王子と、凛として剣を握っているリリーを見れば、この部屋で何があったかは一目瞭然であった。
「まさか……信じられない……!」
誰かがそう呟いたのを皮切りに、皆が口々に
王子が呪いにかけられてから十六年間、魔法なしに彼を押さえられた者は誰一人として居なかった。成長してからは特に、屈強な騎士でさえ攻撃を受けたら一たまりもないというのに、細くしなやかな体を持つこの娘が一体どうやって渡り合ったのか。城の者は誰一人として、まったく想像がつかなかった。
――王と王妃はその夜、「今まで誰も手に負えなかった王子をリリーが倒した」という報告を聞いて、疲労困憊であろう彼女を労わりたい気持ちと是非本人の口から詳細を聞きたい気持ちとで板挟みになり、まったく落ち着けないでいた。
そわそわと動いてしまう体をやっとベッドの中に収めることが出来たのは、リリーからの
何か、今までとは違うことが起こり始めている。
仲のいい両陛下はその日、フィリップ王子が産まれてから初めて、心安らかな満月の夜を過ごしたのであった。
***
さて翌日、日の出と共に塔から出て来た王子は、ぐったりと重たい体を引きずりながら、気分だけは夢見心地で王城の私室へ戻った。
部屋に入り、シャツの襟元を緩めてうっとりと首の痣を撫ぜる。疲労の残る体をベッドへ下ろして思い出すのは、やっと間近で見られたリリーの成長した美しい姿である。
まさか、本当に彼女が来てくれるとは思いもしなかった。前々から、もし再び誰かを呼ぶならばリリーが良いと
王子は壁のカーテンを開き、内側に掛かった姿絵を眺めた。密かに手に入れた姿絵の中の彼女を眺めるだけだった日々に、色鮮やかな喜びが満ちた瞬間である。
さて王子が部屋に引きこもって、鏡の前で青黒い痣を何度もなぞっては微笑んだり姿絵の彼女を愛でている頃。リリーもまた王城へと参上し、応接間にて両陛下への報告を行っていた。
彼女は簡潔に、己が見たものと王子の様子、そしてどのように彼を倒したかを語った。それが終わると、やはり今まで通り姿を見せない王子を
……昨晩の一騎打ちは誰もが知る名勝負として瞬く間に貴族らの噂の種となったが、他人事のようにその一幕を語るのはなにも下世話な部外者に限ったことではない。
「しかしまぁ、本当に力づくで屈伏させるだなんてねぇ……」
ベル持参のスズランを指で愛でていたソニアが、ぽつりとそんなことを零す。
「リリーらしいと言えば、らしいと思うけどね?」
「らしすぎて困るわよ! そんなことじゃあ、到底恋には発展しませんことよ」
「そ・こ・は! 私がなんとかするもの!」
テーブルを叩いて身を乗り出したベルへ、ソニアは呆れたように瞳を回した。
「無理よ。殿下の様子を見てれば分かるでしょう? 普段はあんなに堂々としているのに、少しでもリリーの話題が出るとしおらしいったらありゃしない。彼が遠くから見つめるのはリリーだけ、心を震わせるのもリリーだけ……ベル、本当は分かってるんでしょう」
「……嫌よ。私にだって、自分の気持ちがあるもの! せめてしっかり諦められるまで、できることはやるわ」
「あら、案外情熱的ですこと」
フィンガル家のサロンにて、花に囲まれる二人の淑女は対照的であった。花を片手に優雅でいるソニアの向かいに座るベルは、丸い瞳を輝かせながらも頑なな態度は崩さなかった。「食べ過ぎて最近コルセットがきつい」と言っていたのはどの口か、そこへは次から次へとクッキーが吸い込まれていく。
「……それで、リリーは?」
「今日は来ませんわよ。森に用事があるんですって。狩りかしらね」
「……えぇ? ……どうしてなの? あの人ってどうしていつも、そうやって争ってばかり……」
「血筋かしらねえ」
自分がどれだけ着飾っても学術書を手放せないように、ベルがやや口うるさい彼女の母や姉と同じ振る舞いをしてしまうように、リリーもきっと剣を振るわずにはいられないに違いない。
彼女はそう思いながら、湯気の立つ紅茶に息を吹きかけた。
***
馬上に跨って勇ましく手綱を引いているリリーは、自治領の南方にある森を駆け回りながら、父に任されたとある仕事に着手していた。
周囲をくまなく観察し、時折馬を休ませながら手帳に何かを書き記す。それを何度か繰り返していると、屋敷からの使いが猛スピードで馬を走らせてやって来た。
「お嬢様っ、王城からお手紙でございます……!」
「なんだ……速達か? ありがとう」
息も絶え絶えな使用人から受け取った便箋はとても分厚く重たい。馬に跨ったままはち切れんばかりの封を開いてみると、折り畳まれた羊皮紙の最後尾が便箋から零れ出て地面に触れる寸前で止まった。
それは、どうやら王子の呪いに関する調書らしかった。今まで何とか集めた解呪についての情報が書き連ねられており、最後には王子の代筆で、理性を失っている時の意識がなかったこととその謝罪、だが自分を恐れないリリーを見た一瞬だけは意識を取り戻せたこと。そしてなにより、今までは誰とも会話をする機会がなかったので、少しでも意思疎通が出来たことがとても嬉しかったという旨が記されていた。
リリーはそれを斜め読みすると、急いで屋敷に引き返した。
自室に飛び込んで、馬上服もそのままに机へ飛びついてインク壺を開ける。宛先は無論王子である。書き出しでは少々筆が迷ったが、伝えたいことはもう頭に浮かんでいた。
まずは王子の体調を案ずる文と、手荒な真似をしたことへの謝罪を綴る。あの状態でも自分を覚えていてくれて嬉しかったことなどを、何度か書き直しながらも簡潔に纏める。
手紙はすぐに送らせた。王子と文章のやり取りは初めてに等しく、返事が来るかさえ不安であった。しかし数日後、封蝋に王家の家紋と私的な手紙の証である『F』がサインされた封筒が無事バラモア家の屋敷に届いた。
『返事をありがとう。首の具合は大丈夫だよ、気にしないで。
それから、もしも嫌じゃなければ、次の満月の夜も君に来てほしい』
とても短い文章ではあったが、それでもリリーを戸惑わせるには十分だった。
順当に考えれば次の満月はベルの番だ。それは両陛下も知っているであろうに、まさか彼らが許可を出したのだろうか。それともこれは王子からの内々の誘いで、まだ誰にも伝わっていないのだろうか。
リリーは自室の一人掛けソファーに体を投げ出し、額に手を当てた。
肘置きから飛び出した手から手紙が滑り落ちる。と、掃除のために居合わせていた侍女が慌てて、まだ少し湿っている床からそれを拾い上げた。
「キャーッ! お嬢様っ、王子様からの直接のお誘いなんて、とってもロマンチックですね!」
「いや、だが……」
「わたくしたちも、当日までに精一杯、丹念込めてお体を磨き上げさせていただきます! 宝石のようなお嬢様が、さらにお美しくなられたらきっと王子様はもう……」
興奮している侍女は、リリーの浮かない様子にハッと口を押さえた。そして、気遣わしげに「お嬢様?」と尋ねる。
「もしかして、お受けにならないのですか……?」
「あぁ……。二度も続けて殿下の元へ向かうのを、ベルは良く思わないだろう」
「そんな……でもお嬢様だって、王子様のために尽くしてきたではありませんか? 剣の腕を磨き、満月の夜でも王子様が安らかに眠れるようにと、フィンガル家の睡眠薬開発にも多大な出資をなさって……その御心は私だけでなく、お嬢様にお仕えする者ならば皆が知っておりますのに……」
「……すべては、我が国の安寧のためだ。呪いが解ける保証なんてないのだから……将来、誰も殿下を押さえられないようでは困るから鍛えたんだし、ソニアが開発している薬だって、暴れなくて済むのならその方が良いに決まっているから」
「またそんなことを仰って……それだけで、危険な森の猛獣たちと戦い続けてきたのですか?」
「危機や恐怖を克服することは、バラモア家の人間には必要なことだ」
取り付く島もないリリーの態度に侍女が閉口した時。重たい部屋の扉が、静かにノックされた。
「お嬢様、ベルナデッタ様がお見えで――」
「リリー……!!」
セヴァの言葉を遮って飛び込んで来たベルは、興奮しきった顔で黄色いフランセーズのローブを握り締めている。
「私っ、次の晩に殿下と夜を共にすることになったの!!」
言い放たれたその言葉に、リリーと侍女はピシリと固まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます