その手を離さないで

 太陽の残り香のようなオレンジの匂いがする。涼やかな酸味はレモンやシトロンに似ているけれど、独特の苦味がなく温かな香りだ。

 ふっと笑い、確信を持って声をかけた。


「気づいてたの」なんて驚くけれど、気づかないわけがない。だってこれはアダンの匂いだ。いまはもう、身動ぎだけで分かってしまう。


「ちょっ、離せ」


 口だけは抵抗していても、その温もりは唯一の安堵できる場所で。

 それでも素直になれないでじたばたともがいていたら、唇にキスが降ってきた。


 皇太子とその側妃。俺たちは正式な夫婦である。咎められるようなことは何もしていないのに、なぜだか居心地が悪く感じる。


 きまり悪げな顔を見られていたのか、気づけばアダンに抱え込まれていた。

 その顔は見えない。満月に背を向けて、そのままつかつかと歩き出した。


 ドアの閉まる音がしたかと思えば、急に放り投げられ、押し倒された。夜風に冷えたシーツの感触に肌が粟立つ。覆いかぶさるように両手をつかれ、逃げ場はない。普段は隠されている獰猛どうもうな眼差しが顕わになり、それが瞬きもせず、じっとりとこちらを見つめている。


 けれど、恐れなどとうに感じていない。あの日、はじめて彼に捕食された時から、とうにその野生に魅了されているのだ。


「いいよ、おいで」


 幼子に言うように優しく声をかければ、打って変わって泣きそうな表情を見せる。なされるがままだった身体を動かして腕を伸ばし、もっと近づきたいと口づけをせがむ。


「大丈夫だから」

「……怖いよ、ひとりは」


 アメジストの瞳がゆらめいている。


「大丈夫」


 一人になどさせるものか。たとえ戦場でも、この世の果てだとしても、どこへだってついて行ける。

 ……だから。いつまでも、この手を離さないで。

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