第13話 月明かりの下で
その傷に意識を集中し、リスタルドはひたすらリーベルの傷を治すことだけを考える。他にも服の下に傷があるかも知れないが、今は見える部分を集中的に。
しばらくして、傷があった部分に触れてみた。
血で汚れているが特に異常は見当たらないし、リーベルが痛みで顔を歪める様子もない。どうにか傷はふさがったようだ。
リスタルドは、リーベルが持っていた布袋から小さなタオルを取り出した。彼女がたすきがけにしていたおかげで、あんな状況にあっても落ちずにいたのだ。
口もしっかり閉じられていたので、中身が散らばってなくなってしまうこともない。彼女のきっちりした性格が、今は本当にありがたかった。
そのタオルを持って、リスタルドは川へ近付く。手を入れてみると、その冷たさがとても気持ちよかった。
少しすくって飲んでみたが、ここの水は普通のようだ。特に結界内の空間に影響は受けていない。飲むのが人間であっても、害はないだろう。
そうだ、この水で……。
リスタルドは川の水でタオルをぬらし、その後にまた水を一口。今度は飲まずに含むだけ。
それからリーベルの元へ戻ると、自分が今含んだ水を飲ませた。
竜の魔力をほんの少しだけ溶け込ませた水は、栄養剤とまではいかなくても、彼女が受けたダメージを軽減してくれる……はずだ。
やったことがないので、結果はリーベルが目を覚ますまでわからない。
リスタルドはリーベルの顔をそっと拭き、血で汚れた腕を拭いた。汚れがぬぐわれた腕に、もう傷はない。ちゃんと治療できたようだ。
夕暮れの光に照らされたリーベルの顔はいつも以上に赤く見えたが、さっきまでのつらそうな表情はもうない。
それを見てほっとした途端、リスタルドの全身から急に汗が噴き出した。同時に、呼吸も荒くなってくる。
あ……まずい。やっぱり調子にのって飛びすぎたのがよくなかった。
目の前にいるリーベルの姿が、何重にも重なって見える。リスタルドは、自分がまっすぐな状態で座っているのかも怪しくなってきた。
この近くに、さっきみたいな魔物や獣がいたら……リーベルが襲われる。
リスタルドがそう思った時には、すでに彼の身体は倒れていた。
目に映るのは、次第に紫がかってくる空と、ゆっくり流れる薄い雲。
じき夜になる。魔物の多くは、夜に活動するもの。この世界でも、恐らく例外ではないだろう。このままただ倒れているだけでは、危険が大きくなるだけ。
これ以上、リーベルを危険な目に遭わせたりしない。守らなきゃ、彼女を……。無事に街へ連れて帰れるまでは。
息を切らし、横たわった状態で、リスタルドは右手を挙げた。自分で自分の腕を支えられる力が足りず、細かく震えている。
不可視のドームが、彼らの周囲に現れた。小さな山小屋くらいなら一軒すっぽり収まる大きさだ。
リスタルドが意識を失っている間に攻撃をされても、ここまでは魔物の手もそう簡単には届かないはず。
いや、届いてもらっては困る。たとえ破られたとしても、中へ入ってリーベルの所へたどり着くまでの時間稼ぎをするために、今出せる力で可能な限りの大きな結界にしたのだから。
リスタルドの手が、力尽きたようにぱたりと落ちる。
強くなりたい。もっと力を使えるようになりたい。
心の底から、そう強く願った。今までももちろん、何度も同じことを願っていたが、今ほどに強く、本気で思ったことはたぶん初めてだ。
そのまま、リスタルドは意識を失った。
☆☆☆
水……の流れる音? おかしいわね。あたしの部屋で、水が流れる音なんて聞こえるはずないのに。これ、雨の音とはちょっと違うよね。
リーベルはゆっくりと目を開けた。暗い。夜中に目が覚めたのかと思ったが、それなら天井があって、明かりは消してあるので真っ暗になっているはずなのに。なぜか丸に近い月が浮かんでいるのが見えた。
じきに満月だっけ……などと思い、それからどうして自分の部屋で月が見えるんだろう、と不思議になる。窓からではなく、ほぼ真上に。
少しして、ようやく頭もまともに動くようになり、今は自分の部屋にいるんじゃないと思い出した。
外……そうだわ。あたし、リスタルドとニキスの山へ来てたんだっけ。
山へ来たことを思い出すと同時に、自分が崖から落ちたことも思い出して背筋が寒くなった。
何もない空間へ足を踏み出してしまい、血の気が引いたような。その後、腕に痛みが走ったのと、落ちてゆく怖さで気を失い……。
あたし、今どこにいるのっ?
リーベルは慌てて起き上がった。
すぐそばに、川が流れている。この暗闇の中ではまぶしいと思えるくらい、水面に月明かりが反射していた。
横たわった状態でこの川が頭上にあり、その水の音で目が覚めたのだ。
川岸にいるようだが、リーベルが寝ていた所はふわふわしている。砂ではないし、もちろん石や砂利などでもない。
暗さに慣れた目で見ると、ここだけ草のクッションがあるみたいだ。いや、ベッドと呼ぶ方が合うくらいに幅広い。ベッドという表現でも、足りないような。
あれ、腕……痛くない? ちょっとしびれてるような感じがするけど。あたし、ケガした……よね?
落ちる時、右の二の腕辺りがものすごく熱くなったような気がしたが、今は何ともない。これまでに経験したことのないような、すごい衝撃だったような気がする。
あの時の感覚が夢などでなければ、かなりひどい傷になっているはずだ……。
「え……あれ?」
腕の状態を確認しようとしてさすってみると、右の袖がない。肩の辺りから破られて、完全になくなっていた。
あの衝撃……落ちてく時に何かに当たった気がしたけど、その時に破れたのかしら。だとしても、見事な破れっぷりだなぁ。何にしろ、今が寒い季節じゃなくてよかったぁ。
崖から落ち、岩にかすったあたりまではぼんやりと記憶に残っているような気がするが、それ以降はまったくわからない。
あの時ケガをしたような気がしたが、今はこうして何ともないのなら、やはりあれは恐怖による錯覚か夢だったのだろうか。
あ、でも袖がないのは、現実よね。こんなうまい具合に袖だけがなくなって、傷は全然ないなんて。奇跡……じゃないわよね。
あれこれ考えていたリーベルは、何気なく横を向いた。
「え……」
そこには、大きな黒い影があった。
座っている今の体勢で、リーベルと同じくらいの高さ。それが延々と伸びていて、暗い中では全体の長さが計り知れない。
低い壁があるのかと思った。だが、竜の結界内に人工物があるはずはない。
リーベルは、感覚で生き物だと判断する。
その大きさ、長さに一瞬驚いたリーベルだったが、すぐにこれが竜の影、リスタルドなんだとわかった。
飛ぶ練習をしているのを遠くから見ることはあるが、こんな近くで竜の姿を見たのは、彼と初めて会った時以来だ。
あの頃のリスタルドと比べたら、どれくらい成長しているのだろう。
暗いし、今は座っているから正確な比較はできないにしろ、あの頃はリーベルの視界にどうにか入る大きさだったはず。今はもっと離れなければ、その全体像が掴めない。
人間は背が伸びた、という言い方をするから、竜も身体が伸びたと表現していいのだろうか。
よかった。ここにいるのはあたし一人じゃない。リスタルドも一緒だったんだ。
竜の身体の大きさどうこうよりも、リーベルは自分一人ではないことに心底ほっとした。
そばにいるということは、リスタルドとはぐれずに済んだのだ。朝になって、リスタルドを捜すためによくわからない土地をさまよい歩く、ということをしなくて済む。
「リ……」
名前を呼ぼうとしたら、その影がふっと消えた。影とは別の暗さが周囲に戻る。
そして、影があった場所には、人間の姿をしたリスタルドが横たわっていた。
……何? 今の、月明かりのいたずらだったのかしら。実はこのリスタルドも、幻とかじゃないわよね?
そんなことを思いながら、リーベルは四つん這いでリスタルドの方へ近付いた。
この大きな草のベッド、きっとリスタルドが出してくれたのね。
そのリスタルドは、リーベルが寝ていた草のベッドの外側、砂利の上に横たわっていた。
「……ねぇ、リスタルド?」
横たわっている、と言うよりは、倒れてそのまま意識を失っているように思えた。
月明かりしかない中で、リーベルの目にはリスタルドがひどくぐったりして見えたのだ。
「リスタルド……」
心配したリーベルが、リスタルドの手に触れた。その瞬間、心臓が跳ねる。
冷たい。何なの、これ。まるで体温が感じられないじゃないの。どうして……山を歩いた時、手をつないだりもしたけど、あの時は確かに温かかったのに。手が冷たいなんて、全然感じることはなかったのに。
「まさか……リスタルド。ねぇ、リスタルド、起きて」
顔にも触れてみた。やはり冷たい。
リーベルはその頬を軽く叩いた。リスタルドは返事をしてくれない。揺すってみても同じだ。
「リスタルドってば……やだ、起きてよ。ねぇってば。お願い、リスタルド」
目の前の現状に、血の気が引く。泣きそうになりながら、リーベルは何度もリスタルドの名前を呼んだ。
しかし、やはり反応がない。
暗いのでよく見えないが、この冷たい顔はどんな色をしているのだろう。真っ青を通り越して土気色だったりしたら、と思うとリーベルの手が震えてくる。
そうだ、脈……竜にも脈ってあるのかしら。竜が特別な存在と言ったって生き物には違いないんだから、血は流れてるはずでしょ。人間と同じような血でなくても、それに代わるようなのが。ってことは心臓もあって、脈だってあるわよね。人間と同じ場所を調べて、それがわかるかしら。
パニックになりそうな自分を必死になだめて落ち着かせ、やはり体温を感じない首筋にリーベルは手をやる。
リスタルドの首に触れた指先に……かすかな感触があった。もう一方の手を彼の口元へ持って行くと、わずかな空気の揺れを感じる。
「生きてる……」
わかった途端、リーベルはほっとして一気に力が抜けた。最悪の状況に
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