キング・オブ・オクトパス

美池蘭十郎

第1話 呪いの深淵

 夜の海は、まるで宇宙だった。 月明かりすら届かない深海――そこに、ひときわ異質な「眼」が開いた。直径三メートルを超える、黒曜石のようなそれは、瞬きを知らぬまま、静かに海底を見据えている。


 眼の持ち主は、神か、怪物か。それとも――かつて人間だった者か。 触手は八本。一本が古代船を軽々と持ち上げ、もう一本が沈没戦艦の砲塔を圧し潰す。体長は百メートル超。海底火山のように蠢き、黒い墨のような瘴気をまとったその影は、ただそこに存在するだけで、すべての命を沈黙させる。


  ――彼の名は「アオト」。 かつて人であり、今やクラーケンとして恐れられる存在。だが、その本質はただの怪物ではない。沈黙の奥底に秘めた知性と苦悩が、瞳の奥でひっそりと揺れている。 今夜、彼は一つの海域に現れた――「黒礁の墓場」。


 かつて数十の艦船が消えた忌まわしき海域。嵐でも岩礁でもない、説明不能な力が彼らを沈めたと噂される地。 その真実は、たった今、海を這い上がろうとしている。 「……また、人間か」 低く、深く、空気のない海中に響かぬはずの声が、アオトの内側からこだました。 彼の思考は明晰だった。言葉を持ち、記憶を持ち、かつての名を忘れていない。


 ――呪いを受けてから、もうどれほどの時が経ったのだろう。 初めは人を拒んだ。自分をこんな姿に変えた世界を、心底呪った。だがある時、海底の沈没船に残された日記を見つけた。そこには、出撃を前にした若き兵士の、震えるような文字があった。 《俺は、本当は誰も殺したくなかったんだ》 その一文が、アオトの中で何かを溶かした。 そして今――再び、人間が彼の縄張りへと侵入してきた。漁船ではない。軍用艦でもない。小型の無人探査機。


 カメラが、彼の瞳を捉えた。 一瞬の静寂。 次の瞬間、海が爆ぜた。 探査機はアオトの触手によって潰される寸前で止まった。 「……止まれ。見ている者がいる」 彼の直感が、上空の衛星監視とリンクしていることを悟らせた。見られている。観測されている。監視されている――いや、試されている。 アオトの瞳が夜の海を見上げた。そこには、空に浮かぶ巨大な目――人工衛星の冷たい視線があった。


 あの目の向こうに、人間の意思がある。 「今の俺を、どう見る?」 神か、怪物か、それとも―― 「俺は、まだ人間でいられるか?」 その問いに答えるものはない。ただ、海が静かに揺れていた。遠くでクジラの低い声が響き、深海魚の発光が彼の体を照らした。 その姿は――まるで神話から蘇った守護神のようだった。 そして、その神は、再び沈黙の底へと姿を消した。 次に彼が姿を現すとき、それは戦争の火種か、希望の使者か。まだ誰にも、分からない。

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キング・オブ・オクトパス 美池蘭十郎 @intel0120977121

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